散日拾遺

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読書メモ 023 『体内時計のふしぎ』

2014-01-21 12:44:46 | 日記
明石真(あかしまこと)『体内時計のふしぎ』光文社新書673



 時間生物学というのかな、この手の話は誰にとっても興味深いところだが、その道の最前線で活躍しているらしい筆者による、分かりやすい解説書だった。暮れにサンタにもらって一読。睡眠障害はもとより体内時計と密接な関係があり、気分障害がそのまたイトコ筋だから、仕事上も興味深いところ。
 ただ、この著者は国語はあんまりできない人らしく、それをちゃんとカバーしない編集者の責を大いに問いたい。ただ原稿を受けとって印刷に回すだけなら、編集者なんて必要ない。

***

 最大のポイントは、こういうことだ。
 生命発祥以来、約40億年の進化のプロセスの中で、生物は太陽を中心とする自然のリズムに同調することで適応を果たしてきた。そのための基本メカニズムが体内時計であって、これは個体レベルだけでなく細胞レベルでも認められる生存の基本ツールである。
 ところがエジソン以来の夜間照明の進歩 ~ 白熱電球の発明者はエジソンではなく、イギリス人ジョゼフ・スワンだそうだが ~ は、人の生活環境を劇的に変えてしまった。以来まだ100年余りである。
 40億年かけてしっかり固定された体内時計と、ここ100年激変した照明環境が、当然ながら深刻なミスマッチを起こす、その結果が各種の健康問題だというのである。
 その健康問題の中に前述の睡眠障害・気分障害が含まれるのは当然として、糖尿病やガンなども上がってくるには驚いた。

 少し前に、「加齢と共に起床時間が固定してきた、要するに適応の柔軟性を欠いてきたのだろうが、年を取るのも悪いことではない」と書いたが、そのことを確認する思い。無理が利かなくなったなら、無理を止めるに限る。
 横井さんや小野田さんは、この括りでは超健康な生活を送ったわけである。

 以下は例によって抜き書き。

P.36 
 睡眠学者の研究によると、現代日本人の2割は不眠を患っており、約7割は睡眠になんらかの問題を抱えているといわれています。

P.80 
 現代という時代は「光」に関してまさに過渡期にあると言えます。パソコンやスマートフォンの画面にも使われているLEDが台頭してきた今こそ、まさに私たち自身が生み出した文明の利器を正しい知識で正しく使えることができるかどうかが問われています。(ママ)
 白色のLED電球は従来の蛍光灯よりも青色の波長を多く含んでいます。つまり、体内時計に作用する力がさらに強いと言えます。今までの蛍光灯と同じように使っていれば、体内時計の夜型化がさらに進み、深刻な事態が生じるでしょう。

P.114
 今や、WHO(世界保健機関)の関連組織によって、夜勤はガンのリスクとして、とても程度の高いカテゴリーに分類されるようになりました。どれくらい高いリスクと考えられているかというと、喫煙やアスベストが含まれるグループ(発ガン性があると結論づけられているグループ)の次にランクされているほどです。

P.123
 日本における気分障害の総患者数は2000年頃から一気に増えてきました。この時期は日本の経済状態が悪化している時期にあたり、気分障害が経済苦と関係が深いことはよくいわれていることです。一方、この頃は、メールやインターネットがちょうど普及してきた時期でもあります。つまり、夜型生活、あるいは夜間の光にさらされる環境が進行することで、体内時計の夜型化の進行が加速してきた時期とも重なっていると考えられます。

P.136
 また、これとは別に、一日中、明るい環境で飼育した妊娠中のサルを使った実験があります。恐ろしいことに、生まれてきた子ザルの体温リズムが顕著に乱れていただけでなく、さらにこの子ザルは低体温症であることがシメされています。(中略)
 最近、低体温症の子供が少しずつ増えてきていると言われています。(後略)

P.141
 このように、活性酸素を無毒化する機能において約24時間のリズムつくり出せる細胞体が生存に有利であったと考えられます。このリズムを備えている細胞の場合、太陽が昇ってくる頃には、活性酸素の無毒化機能を十分に高めておくことが可能なので、DNAの損傷を和らげることができるのです。
 繰り返しますが、このリズムはほぼすべての生き物に共通に存在することが見出されており、実は体内時計の原型として機能したと考えられています。

P.144
 私たちの体のリズムというのは、私たちが自然のリズムで生活することを前提としてプログラムされています。逆に言えば、当たり前のことですが、現代のような24時間社会に適応できるように私たちの体はプログラムされていません。そうした機能を備える必要もなかったはずです。

P.165
 夜型にずれないように体内時計を調節するには、「朝」が肝心になります。まず、屋外で朝日を30分以上しっかり浴びるのが効果的です(太陽光線を直接目に入れるととても有害なので、直視はいけません)。朝日を数分間だけ浴びれば良いというものではなく、やはりこれくらいの時間が必要になると思われます。室内にいても十分な照度の光を浴びることは難しいので、やはり外に出る習慣が必要になってくるでしょう。また、カーテンを開けて眠ることで、差し込む朝日が体内時計の朝方への修正を助けてくれることが期待できます。さらに、先に述べたように、朝食が朝日の作用を助けてくれるので、バランスよく栄養をとるのが無難でしょう。
(石丸註:この文脈では食事内容の栄養バランスよりも、内容にかかわらず朝食をとること自体による、体内時計の朝型化効果の方が重要であるように思われる。)

最後に、P.40~42の要約:生活習慣病の4つの原因
① 食習慣(動物性脂肪摂取量の急増)
② 運動不足
③ 心理的ストレス ~ 現代型の
④ 体内時計と夜行(光)性社会環境のズレ

以上

横井伍長と小野田少尉

2014-01-21 10:37:38 | 日記
2014年1月21日(火)

 忘れないうちに。
 先週の木曜日、1月16日に小野田寛郎さんが亡くなった。
 これなど、それこそH君と語らってみたいところがある。彼は僕以上に古いことの記憶が鮮明で、歴史的な事件に対する関心と理解が恐ろしく深いので。

 さしあたり書き留めておきたいのは、横井庄一さんと一対の存在として思い出されることだ。詳しいリサーチは後のこととして、アウトライン情報だけをネットからかき集めておく。

○ 横井庄一氏:1915(大正4)年、愛知県生。
 1935年から4年間軍務に服した後、洋服の仕立屋として働いていたが、1941年に再招集。満州を経て歩兵第38連隊伍長として太平洋に転戦、1944年8月にグアム島で戦死したものと見なされていた。実際にはジャングルで生き延び、1972年1月24日村人に発見され、同2月2日に満57歳で帰国する。
 羽田空港での第一声が、やや修飾されて「恥ずかしながら帰って参りました」と報じられ、その年の流行語となった。むろん「生きて虜囚の辱めを受けず」(いわゆる『戦陣訓』)が念頭に響いていたに違いない。
 日本の生活へのその後の適応は予想にもきわめて順調で、各地で講演など行い、年末には結婚した。74年参議院選挙に立候補したのは、どんな経緯からか。落選後はようやく生活も落ち着いたようである。1997年、82歳で病没。

○ 小野田寛郎氏:1922(大正11)年、和歌山県生。
 1942年、上海の商事会社で働いていたが、満20歳に達して徴兵検査を受け、歩兵第61連隊入営。1944年1月、陸軍予備士官学校(久留米)入校。卒業後、中国語や英語の堪能を見込まれ、同年9月に陸軍中野学校入校、主に遊撃戦の教育を受けた。
 1944年12月、第8師団参謀部付少尉としてフィリピンに派遣。師団長横山静雄中将より「玉砕は厳禁、必ず迎えに行くから3年でも5年でも頑張れ、重ねて玉砕を禁ず」との訓示を受け、これが後の伏線となった。
 敗戦後、任務解除の命令が届かなかったため、3名の戦友とともにルバング島の密林にこもって戦闘を継続したが、赤津一等兵(1950年6月投降)、島田伍長(1954年戦死)、小塚上等兵(1972年戦死)と部下を次々に失っていった。1974年、接触に成功した日本人を介して、元上官による任務解除・帰国命令を受けとり、3月10日投降。同12日に52歳で帰国した。
 横井とは対照的に親族や日本社会への適応は困難を極め、帰国半年後に次兄の住むブラジルへ移住して牧場経営にあたり、成功を収めている。その後、再度帰国。「祖国のため健全な日本人を育成したい」としてサバイバル塾を主宰し講演を行うなど、最後まで旺盛な活動意欲を示している。2014年、満91歳で死去。

***

 粗雑なこれらの記載そのものが、大きな共通項と鮮やかな対照とを自ずから語っている。既に対比検討した人があるのではないか。
 かなり大きな問題が隠れているように思う。たとえばの話、同じくジャングルに長年潜伏したといっても、その動機には大きな隔たりがあった。隔たりを作り出したものは何か。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」と「玉砕は許さん」と、正反対の訓示・命令が同じ帝国陸軍のあちらとこちらで発せられていた。それぞれ誰が誰に発信したのか、なぜこういう乖離が発生し維持されたか、それが現在の僕らにどういう意味をもつか。
 等々、宿題を後に残して今はここまでにする。

 最後に、彼らの発見・帰還当時、中3~高3であった僕自身の記憶から。

 横井氏帰還当時、僕は名古屋にいたから騒ぎはひときわ大きかった。一報を受けてグアム島へ幼なじみが急行し、ホテルで「庄(一)どん!」と声をかけ、横井氏が涙で反応した場面が新聞に載ったように記憶する。
 彼が参議院選挙に出馬したのは、下世話には誰かが「担ぎ出した」としか見えず、いささか滑稽であり気の毒でもあった。
 小野田氏との接触にあたった日本人青年・鈴木紀夫氏は、「常に殺気を感じた」と語った。それはそうだろう。相手は戦闘継続中の現役軍人であり、長年の密林生活で感覚は研ぎ澄まされている。30年間の戦闘行為で30人以上を殺傷したとも伝えられる。スパイと判断すれば躊躇なく斬って捨てたはずだ。
 小野田氏は任務解除命令を受けてフィリピン軍に投降し、軍司令官に軍刀を渡す。司令官はいったん受けとって、そのまま小野田氏に返している。その後、フィリピン・米国・中国などの「敵側」において、小野田氏に対する賞賛が思いのほか大きかったことに後で気づいた。

 共通項も対比も、安全なこの地点から振り返り遠望してのこと、1970年代には日本の津々浦々で、幾百万の男女が密かに祈ったはずである。
 戦死したと告げられた父が、兄が、息子が、もしかしたら横井氏や小野田氏のように密林で生き延びているのではないか、そうであってほしい、生きて帰ってほしい、と。

昨日の補遺 ~ 「幸」と「雪」/コーヒー/先発隊員Pへの同時多重連想

2014-01-21 07:48:55 | 日記
2014年1月21日(火)

 信濃路に 幸(さち)降り積むや 融けざるや

 恥ずかしいような句だが、何しろ「さち」と読むつもりでいたのに、今読み返すと「ゆき」と読めてしまう。
 万葉集の家持の歌「きょうふるゆきの いやしけよごと」が念頭にあって、雪のように良きこと積もれという凡々たる思いに過ぎないのだが、「幸」が「ゆき」と読めて「雪」に通じることには想到していなかった。

 「幸」の字にも、何か深い由来のあるような気がする。そういえば機でマフラーを織ってくれた患者さんは、この字を名前にもっている。

***

 昨日のA先生の問診、酒・タバコについでコーヒーについて訊かれたので、どきりとした。無類の珈琲党である。「日に2~3杯」と逆サバ読んで答えてから、おずおずと「あの、悪いんですか?」
 A先生は僕の2期下とのことで、実年齢はもう少し離れているとしてもほぼ同世代なのだが、30代かと思われるように若々しい。エネルギッシュなそれではなく、気立ての良い良家のお坊ちゃんのようなおっとりとした若さで、物腰やわらかく患者としては至極ありがたい。もっとエラそうな医者が良いという向きもあろうけれど、僕はここでは「益荒男ぶり」より「手弱女ぶり」派だ。
 その温顔を微笑ませて、「いえ、むしろ良いんです」とA先生。理由は分からないが、疫学調査から上がってくる事実として「コーヒー愛好者の方が肝疾患の予後が良い」というデータがあるのだそうだ。なら安心して本当のことを言えば良かった。
 海難事故で漂流の末に救助された人々の逸話だったかと思うが、いつ、どこの話かはすっかり忘れた。ともかく飢餓の末に辛くも救われた人(々)が、食物よりも何よりもまず一杯のコーヒーを求めたというのだ。やや首を傾げつつ、コーヒーにはそれだけの魅力があると同感する。ああ良かった、コーヒー止めなくていいんだ。

***

 ガルシア=マルケスの魅力について家人に話していたら、遅い夕食中の次男が「小説、読んでないな・・・」とつぶやいた。ちょうどその時、僕はシャツの裾をズボンの中に入れ直すところで、この瞬間に記憶の回路に小さな閃光が走った。
 思い出したのはP君のことである。
 母校精神科の後輩で、分かってみたら高校も同窓だった。半島系の在日で(こんな言い方をする理由の一つは、彼の由来が南だったか北だったか覚えないからで)、秀才揃いの医者達の中でも頭ひとつふたつ抜けるぐらい明敏かつ博学だった。ものすごく女の子にもてたらしいが、これは僕にはよく分からない部分がある。馴染んでも狎れない奥の深さがあるように思ったのだが。
 その彼を思い出したというのは、不思議なことにこの物知りが、小説というものを全く読まなかったことがひとつ。もうひとつは1990年代後半頃、若者がシャツの裾をズボンの外に垂らすことを公然とし始めた頃に、P君はこれをひどく嫌って医局の後輩などに決してそれを許さなかったことである。奇癖というと大げさだが、全体として過剰なほどよく適応している彼の日常に、よく見れば小さなトゲのようなものが、そこにもここにも散らばっていた。
 シャツを直しながら小説の面白さについて語った時、いわばP君へのリンクのキーが二つ同時にヒットした、その不思議にしばらく無言で宙を眺めていた。

 一貫して過去形で書いたのは、彼が若くして不慮の死を遂げたからである。
 むろん僕には大きなショックだったが、ショックの性質には一言説明を要する。自分の側で大切な友人と思っている同輩後輩に、出し抜けに旅立たれることが、これまでに三度あった。いずれも母校医科大学の同窓で、いずれも母校以外に先の大学や出身高校が重なっている。二人は同門の精神科医師であり、一人は在学中に亡くなった。
 僕は名古屋の中学校を別にすれば出身校に恃むところが少なく、出身校が同じだからというだけの理由で集団を形成することが、胸が悪くなるほど嫌いである。しかしそれは集団力動の問題で、個人として出会った相手が自分とある時空体験を共有していることには、逆に強く関心をもたずにいられない。
 ただそれだけのことから言っても、この三人はいずれも僕にとって特別な存在の候補だった。そして三人とも、そういう条件に依るばかりでなく、その個性によって僕にとって特別な存在だった。いずれの場合にも、僕に一言の断りもなく彼らが先立ったことが、心外であり不思議でならなかった。彼ら三人は互いに知り合うところがなかったはずで、これがまた僕には不思議でならない。同じマテリアルから作られた同じ種族ではなかったのか?
 Pの訃報を聞いたとき、強い悲しみや憤りとあわせて「またか」「なぜか」と途方に暮れる思いがあったのが、「ショック」に付す脚注である。

 「自分の代わりに先に旅立った」という感覚をこめて、「先発隊」と呼んでおく。
 Pはその三人めだった。MとNについて、今年も折りに触れて思い出すに違いない。