2014年1月1日(水)
あけましておめでとうございます!
たぶん小学生の時だが、高校生の従姉が「何がおめでたいんだか分からないけど、人がそういうからともかくおめでとう」というような、いかにも思春期のヒネクレ少女らしい年賀状をよこしたことがある。たぶん今は流行らなくなった、正統派の反抗期を経験中だったのであろう。
とはいえ、何がおめでたいのか説明しようとすると、なかなか難しいものだとずっと思っていた。腑に落ちたのは数年前のことで、新年というのは皆が一斉に一つ年をとる、万物共通の誕生日なのだ。だからかくもおめでたいのである。人はもとより、天地万物が仲良く一つ齢をとる。禍々しいほどにおめでたい一日である。
数え年のシステムをよく理解していない者の方が、今は過半であるかもしれない。単に満年齢+1なのではない、生まれた瞬間からその年いっぱいは数え年1歳とし、次の元旦から一年にひとつずつ齢をとっていく。皆一緒の誕生日である。
私だけの誕生日があり、それを皆が祝ってくれるのはむろん楽しいが、皆の誕生日を共に祝い合うのもこれに劣らず楽しいだろう。前者は「個」が尊重される嬉しさ、後者は皆が一つに結ばれる歓びだ。僕らにはどちらも必要なのだ。
個人の誕生日が当たり前に祝われるのは、たぶん戦前の一般庶民には珍しい風景だったはずで、これが浸透する時期はほぼ高度成長期に一致するだろうと思う。並行してお正月のステイタスは低下し続けたが、たぶんこれから揺り戻しがあるはるだ。画一化された「個」に人が飽き飽きしている時代であってみれば。
これも最近気づいたのだけれど、新年が冬至の直後に到来することは、太陽信仰の立場から必然的な要請である。冬至に太陽の力は最も小さくなり、限りなく死に瀕する。それを過ぎて太陽が再び生命力をとり戻す、その転換点の祝いが冬至の祭りであり、それが新たな一年の始まりとなるのだ。
キリストの降誕がこの時期に擬せられ、教会暦ではクリスマスが新年とされるのも、実はこのことを踏まえている。聖書のどこにも、ナザレのイエスの誕生日が12月25日とは書かれていない。
もうひとつ破門されそうな飛躍を敢えてするならば、連想するのはフロイトのモーセ論のことだ。フロイトは彼一流の深読みに基づいて、モーセはユダヤ人ではなくエジプト人であろうと推測した。太陽神を主神とするエジプトの多神教の中から、世界初の一神教を創始すべく啓示を与えられたエジプト王族こそが、モーセの正体であったと彼は言う。この教えを受ける器をエジプト社会の内部に見出すことは不可能に近く、そこでこの社会で疎外されていたカナン人集団を自らの民として選びとり、これを導いてエジプトを離脱することによって新たな宗教共同体を創出しようとした、それがモーセだというのである。
この主張はブーバーなど大多数のユダヤ人から猛烈な指弾を受けたが、もとよりフロイトの意に介するところではない。それだけでも大した人物だ。
それはともかく、ここにもあらゆる生命エネルギーの源である至高の天体・太陽のイメージが強く働いているように思われる。モーセの宗教が、その太陽をも創造した超越神の啓示に基づいていることは言うまでもないけれども、それはいわば太陽という級数の収束する方向にイメージされるものだ。
(続く)
あけましておめでとうございます!
たぶん小学生の時だが、高校生の従姉が「何がおめでたいんだか分からないけど、人がそういうからともかくおめでとう」というような、いかにも思春期のヒネクレ少女らしい年賀状をよこしたことがある。たぶん今は流行らなくなった、正統派の反抗期を経験中だったのであろう。
とはいえ、何がおめでたいのか説明しようとすると、なかなか難しいものだとずっと思っていた。腑に落ちたのは数年前のことで、新年というのは皆が一斉に一つ年をとる、万物共通の誕生日なのだ。だからかくもおめでたいのである。人はもとより、天地万物が仲良く一つ齢をとる。禍々しいほどにおめでたい一日である。
数え年のシステムをよく理解していない者の方が、今は過半であるかもしれない。単に満年齢+1なのではない、生まれた瞬間からその年いっぱいは数え年1歳とし、次の元旦から一年にひとつずつ齢をとっていく。皆一緒の誕生日である。
私だけの誕生日があり、それを皆が祝ってくれるのはむろん楽しいが、皆の誕生日を共に祝い合うのもこれに劣らず楽しいだろう。前者は「個」が尊重される嬉しさ、後者は皆が一つに結ばれる歓びだ。僕らにはどちらも必要なのだ。
個人の誕生日が当たり前に祝われるのは、たぶん戦前の一般庶民には珍しい風景だったはずで、これが浸透する時期はほぼ高度成長期に一致するだろうと思う。並行してお正月のステイタスは低下し続けたが、たぶんこれから揺り戻しがあるはるだ。画一化された「個」に人が飽き飽きしている時代であってみれば。
これも最近気づいたのだけれど、新年が冬至の直後に到来することは、太陽信仰の立場から必然的な要請である。冬至に太陽の力は最も小さくなり、限りなく死に瀕する。それを過ぎて太陽が再び生命力をとり戻す、その転換点の祝いが冬至の祭りであり、それが新たな一年の始まりとなるのだ。
キリストの降誕がこの時期に擬せられ、教会暦ではクリスマスが新年とされるのも、実はこのことを踏まえている。聖書のどこにも、ナザレのイエスの誕生日が12月25日とは書かれていない。
もうひとつ破門されそうな飛躍を敢えてするならば、連想するのはフロイトのモーセ論のことだ。フロイトは彼一流の深読みに基づいて、モーセはユダヤ人ではなくエジプト人であろうと推測した。太陽神を主神とするエジプトの多神教の中から、世界初の一神教を創始すべく啓示を与えられたエジプト王族こそが、モーセの正体であったと彼は言う。この教えを受ける器をエジプト社会の内部に見出すことは不可能に近く、そこでこの社会で疎外されていたカナン人集団を自らの民として選びとり、これを導いてエジプトを離脱することによって新たな宗教共同体を創出しようとした、それがモーセだというのである。
この主張はブーバーなど大多数のユダヤ人から猛烈な指弾を受けたが、もとよりフロイトの意に介するところではない。それだけでも大した人物だ。
それはともかく、ここにもあらゆる生命エネルギーの源である至高の天体・太陽のイメージが強く働いているように思われる。モーセの宗教が、その太陽をも創造した超越神の啓示に基づいていることは言うまでもないけれども、それはいわば太陽という級数の収束する方向にイメージされるものだ。
(続く)