散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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旅先のクリスマス礼拝メモ ~ 宿る/身ごもる/神様の「思い」

2014-01-27 15:34:15 | 日記
2014年1月28日(火)

 「宿」で思い出した。

 クリスマス・イブの出来事は「宿」に関わりが深い。
 神が人となって、僕らの間に宿られたというのが、クリスマスの本質。
 そしてそのことは、ベツレヘムの宿屋の馬小屋で実現した。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)
 
 このイメージは、エマオ途上の復活の主とのやりとりを想起させる。
 「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」(ルカ24:29)

 「一緒にお泊まりください」は、例の讃美歌(39/218)では「主よ、共に宿りませ」と訳されている。名曲であり名訳だ。
 この「宿る」がヨハネ1:14の「宿る」と同じ原語かと期待したが、さにはあらず。

 και ο λογος σαρζ εγενετο και εσκηνωσεν εν ημιν
 (ヨハネ1:14)
 μεινον μεθ ημων
 (ルカ24:29)

 つまり
 εσκηνωσεν

 やっと2リットル飲み終えた。まずかった~~

言葉の紳士録 007: 永劫回帰

2014-01-27 12:06:32 | 日記
2014年1月27日(月)

 「永劫回帰(永遠回帰)」は原語では何て言うのかな?

 原語はドイツ語、懐かしいニーチェに由来するらしい。
 高校時代に夢中になり、中公文庫の手塚富雄訳を擦り切れるぐらい読んだ。永劫回帰という言葉ともそこで出会ったのだが、これが歴史上初出とは思わなかった。
 「永遠/永劫」という修飾は状態像に似つかわしいもので、「回帰」という動詞としっくり合わない感じが当時からしていたが、どうなのか。

 ewig wiederkehren

 あるいは

 Ewige Wiederkunft des Gleichen

 原語に戻しても、違和感は変わらないようだ。僕の感じ方の問題かな。
 「永遠に繰り返す」と考えれば良いのか。

 道元禅師にあるって?永劫回帰が?
 そういえば、Rも当時からそんなことを言っていたような気がする。倫社の先哲研究で僕はニーチェを選び、Rは確か道元をやったのだ。

 『タイタンの妖女』のあの世界は、永劫回帰のイメージなんだろうか。

 そうそう、勝沼さん、

> さて、私はここ数日、嵐のような日々を過ごしています。今、世間を騒がしているあれのためです。

 あれ、って、あれ?それとも、あれ?
 どれ?
 何しろ御無事でいてくださいね。

 背番号の解説、びっくりしました!
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%90%83%E3%81%AE%E8%83%8C%E7%95%AA%E5%8F%B7

天地玄黄/宇宙洪荒

2014-01-27 11:43:58 | 日記
2014年1月27日(月)

 1日8字なら、1000字は125日。毎日やれば4か月ほどか。
 4日も続けば、飽きっぽい僕としては上出来だってさ。五月末まで・・・とても続きそうもない。

○ 天地玄黄 宇宙洪荒
 (テンチゲンコウ ウチュウコウコウ 天の色は黒く、地の色は黄色であり、空間や時間は広大で、茫漠としている。)

 そうなのか、「宇宙」というから「宇」も「宙」も空間かと思っていたが、本来は「宇(いえ)」が空間の広がりを表すのに対して、「宙」は時間に関わるものだったのだ。

 「往古来今を宙と謂、四方上下を宇と謂う」(『淮南子(えなんじ)』)

 それから「荒」、昨日の礼拝説教で「荒野」について聞いたばかりだ。
 「洪は「大」の意味であり、荒は極遠の地の、さらにその外側の人跡未踏の場所をいう。」(李注:北魏の李暹(りせん)による注)

 なお、『千字文』には「石」と「丸」は入っているが、「昌」や「彦」はない。教育上、無用の字だったげな・・・

読書メモ 024 『千字文』

2014-01-27 10:43:28 | 日記
2014年1月27日(月)

 数週間前の木曜日だったと思うが、例によって神田三省堂の店内をぶらぶらしていたら、書道の手本が何種類か平積みになっているのに目が止まった。中で吉丸竹軒『三体千字文』の書体に引かれ、しばらく無心に見入った。
 今年の自分自身への誕生日プレゼントにしようと、いったんそのまま帰ったが、先週ふたたび見たときは勝手に手が動いてレジに直行していた。何というのか、見ていると心が清々しくなる感じである。これをお手本に習字のお稽古というところまでは、とても行きそうにないが、眺めているだけでさしあたり十分だ。
 「見ているだけで字が上手くなりそう」と母が言う、そんな感じでもある。名局の棋譜を並べることで、碁が上達するのと同じことだ。ただ、書字の上達云々はここでは二義的なことで、それが心に清風を吹き込む様を言いたいのである。
 こんな風に「書」を感じたのは、たぶん生まれて初めてだ。



*****

 『千字文』については、確かブログで書いたはずだと思って検索(これがPCの便利なところだね)、二つ出てくるには出てきたが・・・

① 2013年6月24日 『黄金の日々』の読書メモ、「弘法大師真蹟千字文」、そんなものがあるのかと驚いている。

② 2013年9月15日 名づけの今昔で、本朝への漢字伝来の起源として「王仁が『論語』10巻と『千字文』1巻を献上したという伝承」を引いたところだ。(因みに、この伝承は『千字文』の成立年代との間に矛盾があるらしい。)

 してみると、『千字文』そのものについては書いてなかったのだ。
 今さら僕が解説する必要もないだろうが、これは実に大変なもので、文化史上の一大金字塔と言ってよい。こういうのは Wikipedia が便利なので、末尾にコピペさせてもらっちゃう。
 驚くべき点はいくつもあり、そもそも漢字というものの宇宙的な素晴らしさが根本にあるのだが、この素材を活用するにあたってざっと考えても、
○ 四字 ✕ 250 という整然たる配置
○ 中国古典から慣用句まで豊かな内容を含んでいること
○「天地玄黄」の創世記的な始まりから「焉哉乎也」の結句まで、自然な流れの中に語句を連ねていること
○ 主要な漢字を含めつつ一字の重複もないこと
○ 脚韻を踏んでいること(8字めごとに注目したい)
○ 企画そのものが子どもの書字・識字教育を目的としていること
等々に感嘆する。いわば極めて高等な言葉遊びとしての文化性の高さなのだ。

 我に『万葉』あり、彼に『千字文』ありと言ってみたいところ。その『万葉』を記すのに、万葉仮名つまり漢字を拝借したところにも嬉しさがある。
(『小倉百人一首』は例の「ナゾ解き」を踏まえていうなら、言葉遊びの洗練度としては負けていないかもな。)

 嬉しくなって、以前買ってあった岩波文庫の『千字文』を書架から引っ張り出した。こういう相互作用は確かに電子本では起きにくいかもしれない。



 で、今日から『千字文』を二連・八字ずつブログ上で追いかけていこうと目論んでいる。続くようなら御喝采だ。

***** 以下、Wikipedia『千字文』より抜粋 *****

『千字文』(せんじもん)は、子供に漢字を教えるために用いられた漢文の長詩である。1000の異なった文字が使われている。 

【概要】
 南朝・梁 (502–549) の武帝が、文章家として有名な文官の周興嗣 (470–521) に文章を作らせたものである。周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、殷鉄石に命じて模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、有力ではない。完成当初から非常に珍重され、以後各地に広まっていき、南朝から唐代にかけて流行し、宋代以後全土に普及した。

【内容】
 千字文は「天地玄黄」から「焉哉乎也」まで、天文、地理、政治、経済、社会、歴史、倫理などの森羅万象について述べた、4字を1句とする250個の短句からなる韻文である。全体が脚韻により9段に分かれている。

【用字】
 全て違った文字で、一字も重複していない。
 ただし、数字では「一」「三」「六」「七」、方角では「北」、季節では「春」、地理では「山」が無いなど、初学者に必要な漢字が抜けている。233文字が日本の常用漢字外である。

【書写】
 千字文はかつて、多くの国の漢字の初級読本となった。注釈本も多数出版されている。また、書道の手本用の文章に使われ、歴代の能書家が千字文を書いている。中国では智永(隋)、褚遂良(唐)、孫過庭(唐)、張旭(唐)、懐素(唐)、米元章(北宋)、高宗(南宋)、趙子昂(元)、文徴明(明)などの作品が有名で、敦煌出土文書にも千字文の手本や習字した断片があり、遅くとも7世紀には普及していた。日本でも巻菱湖(江戸)、市河米庵(江戸)、貫名菘翁(江戸)、日下部鳴鶴(明治)、小野鵞堂(明治)などの作品がある。書道の手本としては、智永が楷書と草書の2種の書体で書いた『真草千字文』が有名である。その後、草書千字文、楷書千字文など、様々な書体の千字文が作られた。また、篆書、隷書、楷書、草書で千字文を書いて並べた『四体千字文』などもある。

光はどこで感じるか/それとは別のお話

2014-01-27 10:21:06 | 日記
2014年1月27日(月)

 風が強くて冷たいが、大気中の塵が吹き払われて空気が澄みわたっていることだろう。雲一つなく陽光燦々。
 先週のこんな朝、Mさんからメールがあった。

 「おはようございます!朝は冷たいけど今日は良い天気ですね。」

 そちらもですか、こちらも好い天気ですと返信しながら、ふとまた気になって。Mさんはお天気の良し悪しをどうやって知るのだろう?遠慮もなく尋ねてみたら、

 「太陽が出ていると暖かいからわかるし、曇っているときは寒いですよね。」

 そうなんだ、光(ひかり)って目で見るだけでなく、全身で感じるものなのだ。太陽はLEDとは違う、明るさと共に温もりも伝えるから、目を閉じていてもお天気は分かるのだ。
 無性に嬉しくなった。そこへMさんから追加情報。

 「曇っていると、路を迷って方向がわからなくなることがあります。方位磁石を持っていれば良いのですが、そういう時に限って忘れています。」

 そうか、晴れた日には太陽の方向と時間から方角を知ることができるから、それを頼りに道をたどれるわけだ。元祖GPS、お天道様とはよくぞ言ったものだ。
 そして方位磁石にも視覚障害対応のものがあるのか、どんな作りなんだろう?

*****

 陽光は目のみにて見るにあらず、風波は耳のみにて聞くにあらず。
 それとは別の話だよ、くどいと言われそうだが、執拗なのは僕ではなく、毎日どれほど問題を指摘されても少しもあらたまらない人々の悪しきマナーのほうだ。スマホとイヤホンのことである。歩きスマホがやり玉に挙がっているが、どちらかといえばイヤホンの罪がより重いように感じる。注意を喚起する第一刺激は音声であることが多いからだ。
 数日前も、電車が駅について降りようとしている小柄なおばあちゃんを、仰々しいヘッドフォンで耳を塞いだ若い女性が通路でブロックし、気配にも声にも気づかないので危うく降り損なうところ。ぎりぎり急いですり抜けた高齢者の背中を、迷惑そうに一瞥したお嬢さん、迷惑なのは彼女ではなくてあなただよ。
 私見では、人混みでのイヤホンやスマホは法をもって禁じて構わないと思うが、いわゆる「法規制になじまない」行動上の問題で実効性が期待できない。人のマナーに期待する外はないことだ。雑踏の中で臆面もなくイヤホンを装用しスマホを手に歩く人間は、どれほど美々しく上品に飾っていても、思慮と公徳心を欠いた未熟な人間と見られて抗弁の余地がない。

 ・・・などと考えながら大井町駅を歩いていたら、目の前のイヤホン青年のバックパックを、女性の手が後ろからグイと引っ張った。
 すわ、迷惑行為の犯人追及かと構えたら、振り向いた男性に女性が嬉しそうに声をかけた。
 「おはようございます!」
 お、と男性がイヤホンを外す。女性も急いでイヤホンを外す。肩を並べて楽しそうに歩き出した。
 いい雰囲気、恋人三日前、って感じかな。
 イヤホンなしだったら、もっと素敵な風景なのに。意中の彼(女)の呼び声を聞き逃しちゃうぞ!