散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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羅生門綱五郎という人

2014-04-03 20:30:38 | 日記
2014年4月3日(木)

黒沢映画の『用心棒』に、とてつもない大男が出てくる。
今だったらCGだと思っちゃうだろう。そのぐらい、ともかく大きいのだ。
巨人症の徴候もあって楽ではない実人生だったかと思うが、どこの誰なのか気になっていたが、便利な時代だ。「用心棒」と「巨人」で検索したら、あっさり出てきた。

同じように驚いたらしい人々が知恵袋なんぞに質問を投げ、物知りが回答している。名前(芸名)が分かってみれば、ちゃんと Wiki に紹介されていた。

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 羅生門 綱五郎(らしょうもん つなごろう、1920年3月5日 - 生死不明)は、台湾出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、日本プロレス所属の元プロレスラー、元俳優。本名は、卓 詒約(たく いやく、注音: ㄓㄨㄛㄧˊㄩㄝ、拼音: zhuōyíyuē)。身長203cm、体重125kg。

 1940年(昭和15年)に花籠部屋に入門し、四股名は台湾にある当時日本最高峰だった新高山(現在の玉山)に由来して新高山 一郎(にいたかやま いちろう)、1940年5月場所で初土俵を踏む。その後、四股名を泉錦(いずみにしき)に改名し、1946年(昭和21年)11月場所限りで廃業、最高位は幕下15枚目。その後、日本プロレス入りして巨人レスラーとして知られた。

 日本映画出演も多い。2メートルを超える巨体は作中でも異様な存在感を放っていた。黒澤明監督の映画『用心棒』における悪役「丑寅」の子分の一人「閂(かんぬき)」役として有名。三船敏郎演じる桑畑三十郎を投げ飛ばした。映画『ヒマラヤ無宿 心臓破りの野郎ども』では、殺人現場を目撃したため命を狙われる雪男役を演じた。『用心棒』などではセリフも多い。

 羅生門は、日本統治時代に育ったこともあり日本人と見まがうほど完璧な日本語を喋った。及び、長身だが痩身であること、顔の特徴(目が細く、頬骨が出っ張っている)の酷似から、映画等での彼を、観客がジャイアント馬場と間違えて記憶してしまう事があった。また実際にマスコミで、羅生門のことを馬場と間違えられて紹介されたこともある(羅生門と対照的に、馬場はCM出演を除けば映像作品に俳優として出演した事は殆ど無い)。映画に出ているのは羅生門であり馬場ではない。

Wikipedia より

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 「羅生門」の芸名は、あるいは1950年の黒澤映画からかな。『用心棒』は1961年だ。

 こんな存在感のあった人の、生死不詳というのが何だか痛ましい。日本語の流暢なのは、その時代の台湾人なら珍しくもなかったろうが、着物が申し分なく板についていたから、まさか台湾出身とは思わなかった。

 比べるのも妙だけれど、昨年、宮城の能舞台で番碁を打ったときの井山裕太の着付けは悲惨だった。着せ替え人形でも、もう少し身についている。
 もちろん本人は着物なんか着たことないはずで、あれは主催者の責任というものだ。ちゃんと着付師ぐらい手配してやらなくちゃ。

  

 

どっちをみても南海代さん

2014-04-03 20:11:39 | 日記
2014年4月3日(木)

 いただいたパンフレット、あんまり素敵なのでページ毎にスキャンして一挙掲載。
 どの一枚も素敵なんだ、それに今回はタイトルや寸言が全部フランス語だよ。
 それぞれ秀逸な絵はがきになると一瞬喜んだが、裏が白くないからダメか。
 何でもいいや、どうぞ堪能してください!

 
 
 
 

長安日辺/ゼミを取り巻く small world

2014-04-03 07:41:46 | 日記
2014年4月2日(水)

 正しくは、洛陽ではなくて「長安と太陽はどちらが遠いか」というお話だった。
 会話者たちが洛陽にいるんだもんね。昔、これは予備校の漢文で教わったのかな。

 晋(シン)の元帝が「長安と太陽はどちらが遠いか」と、幼い太子(後の明帝)に質問したところ、太子が答えた。
 「太陽のほうが遠いです。長安から来たという人の話は聞いたことがありますが、太陽から来た人の話は聞いたことがありませんから。」
 感心した元帝、群臣の前で同じ質問をしてみせた。親バカのすることは、元帝も石丸も同じようなものだ。ところが機知に富んだこの太子は、まんまと父親を手玉に取る。今度の答えは、
 「長安のほうが遠いです。」
 驚いて理由を尋ねる元帝に、太子の答え。
 「太陽は目に見えますが、長安は見えませんから。」

 長安日辺(チョウアン・ニッペン)という熟語になっているらしい。「遠い場所」あるいは「才知に富んでいること」の譬えという。出典は『晋書』中の『明帝記』。

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 今年度の卒論ゼミがめでたく船出。今年は文京2名、足立2名、神奈川2名、それに京都と宮城の遠隔地から各1名、計8名の全員が女性で、そのうち二人が第二子御懐妊中。
宮城代表が仕事で欠席、その代わり妊婦さんの一人が1歳9か月のお嬢さんを連れての出席で、和気藹々たる時間になった。もちろん、皆まとめてみたい何かを熱く抱えて眼差しは真剣である。

 それにしても世界は狭い。看護師のTさんが「異文化間の看護関係を研究してみたい」という。ウガンダやネパールなどの滞在経験もあるとのことで、ふと思い出した知人がある。
「長年ケニアで小児の医療に携わっている女医さんがいるのだけれど、近々帰国の予定なので、良かったら会ってみますか?」そしたら、口の字型に並べた机の反対側、京都のFさんから声があがった。
「それは、公文先生のことですか?」
 びっくりしたね、もう。
 実名でいこう、公文和子(くもん・かずこ)医師は教会での妹みたいなものだが、兄貴よりもはるかに偉い出来物で、命を的に発展途上地域の小児医療に打ち込んできた。世に知られてほしい人々のひとりだけれど、さしあたり有名というわけではないから、まさかピンポイントで当てられるとは思わなかった。
 カラクリを聞けば、Fさんのお嬢さんがケニア人と結婚して同地に住んでおり、Fさん御夫妻も92代の御母堂と共にしばらくそちらに滞在したというのである。その折り、公文先生に御世話になったのだと。なるほど~
 こういう縁があったからには、Tさんも「異文化間看護」で張り切るしかないね。ここと見込んで昨年就いた職場が期待外れで、泣く泣く3月末で退職。卒論のテーマも白紙に戻って頭を抱えていたのだが、何が幸いするか分からない。ゼミを土俵に仕切り直しと行きましょう。
 
 散会して京都への帰途に就くFさん、ロビーのTVの前で「あら!」と立ち止まった。
 京都代表の龍谷大平安と大阪・履正社のセンバツ決勝、大詰めである。
 平安が2点リードの8回裏、一死満塁ボールツーで登板したエース中田が、気迫の救援でピンチを切り抜ければ、9回表にはダメ押しのツーランホームラン。
 意外にも春は初という地元・平安の優勝を見届け、Fさんにも縁起の良い初ゼミになった。

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 昨日はもうひとつ、「世界は狭い」ネタが続いたのだ。
 先月の教授会資料の端っこに、思いがけず知った名前を見つけた。これも実名でいっちゃおうか。久野靖(くの・やすし)君は高校の同級生で、名古屋の中学校から飛び込んできて、東京で最初にできた友達の一人だった。
 「彼を秋葉原に連れて行ってやりたいねえ」
 久野君が言い皆が笑う理由が、もちろん最初は分からなかった。やがて彼は実際に僕を秋葉原まで連れ出し、石丸電気は通り過ぎて怪しげな裏店(といってもそっち系じゃないよ、当時のアキバは隅から隅まで電気/電機の街だった)へ誘って真空管やコンデンサーなどコマゴマと仕入れさせ、後日、手ずから指導して、ステレオ用の立派なメインアンプを製作させてくれたのだ。
 元祖・電気少年、いつも親しくしていたわけではないが、その後もいろいろな節目で僕の前に現われては、何かしら心に残る思い出を残してくれた。
 1980年代のとある日曜日、ふと思い立って最寄り駅から線路沿いの道を散歩していたら、向こうからやってきたのが久野君、うらやましいことに女性連れだった。現在の奥さんである。
 2000年前後のとある朝、目黒駅のホームで偶然出会ったのが久野君、それぞれ子どもを複数授かり、楽しく忙しくやっている近況を交換したのが最後の対面。
 年賀状のやりとりも何となく途絶えていたのが、とある事情で教授会資料に彼のメールアドレスを知ったのである。それが示すとおり今は筑波大学の教授として、文京SCと同じビルに研究室をもっていた。

 さっそくメールを交換し、ゼミ終了後にいそいそと尋ねていった。
 研究室は灯りがついたまま無人、見回していると廊下の向かいのコンピュータ室のドアが開いて声がかかった。
 「久野ですが、何か?」
 「お久しぶり!」
 「ああ、そうだった」
 夢中で仕事していて訪問のことを忘れ、十数年ぶりの対面で一瞬誰が来たのかわからなかったのだ。その無邪気さが、高校以来少しも変わらぬ彼の人柄の良さを証ししている。
 最近は研究はあんまり、それよりも学生さん相手の教育業務が面白くなって、と、同じようなことを言って笑った。

 6階からの眺め、スカイツリーを遠望し、足元に満開の桜を見る。筑波大学大塚キャンパスは、沿革を辿っていくと陸奥守山藩(松平氏)の江戸屋敷ということらしい。東大本郷キャンパスが加賀藩邸であったのと同じパターンで、現在の文京区は江戸城の北側に広がる大名屋敷が大学敷地に転用されて形をなしたのだ。繰り返し思う、東京の床下にある江戸のこと。ビルが邪魔しなければ、本郷あたりも指呼の先に見下ろせる。
 地上に降り、インド料理屋で1時間半ほど歓談。まだ仕事があるのでと、駅前で別れて大学に戻っていった。

 そうそう、公文和子さんも久野君や僕と同じ高校の卒業である。石倉教室の囲碁少年もそうなるのだ。
 「同窓の誼」などとというものは概して胡散臭く、殊に高校以後に関してはいっそ距離を置きたいところがある。けれども見込んだ人々が偶々同窓であると知った時の心楽しむ感じは、これはまた別のものだ。久野君は元々同窓なのだけれど、こうして旧交を温める時、いわば同窓の「再定義」が起きているような感じがする。

 真に世界は狭く、神慮は深い。