2014年4月5日(土)
「自由とは、てんでんバラバラや勝手気ままのことではなく、真に自由な者との一体化のことだ」と先日書いた。
元ネタはヤスパースの『哲学入門』で、これは第二次大戦後、失意のドイツ人に対して行われたラジオ講演を起こしたものらしい。それはさておき・・・
「一体化」は「同一化」と言い換えてよく、先日来この言葉をしきりに反復していることに自ら気づく。
人間の行動の動機づけ ~ 時に明らかな、時に隠れた ~ の機序として、おそらくは最大のものがこれなのだ。「朱に交われば赤くなる」、千字文にも類似の句があった。(墨悲絲染 詩讃羔羊 ~ 千字文 025)
これらは主として好ましくないものの悪しき影響に注目している。善なるものによる善導はもとよりあることながら、得てして悪影響のほうが容易に生じ、大きな害をもたらすとの認識によるのだろう。
それで、嫌なことに思いあたった。
***
豊臣秀吉という人、その前半生は真にもって素晴らしい。
一介の庶民から身を起こし、己の才覚だけを頼りに目の眩むような立身出世は、歴史上の奇跡である。そのプロセスで類いまれな「人たらし」の異能を発揮しているのも特筆で、超・実力本位のあの時代にこの猿面の小男に賭けてみようという気持ちを多くの人々に起こさせた、その人間的魅力を想像するだに楽しいのである。
晩年がいけない。
努力と幸運の末に勝ち取った富と権力を、この人物は恣(ほしいまま)に濫費した。私的に浪費するばかりでなく、人と天下を巻き込んで悩ませた。私情に任せて奪った命の多いことは悲しいばかりである。(信長の殺戮はさらに徹底していたが、常に明瞭な政治的方向性をもっていた。)
中でも後世の禍となったのが、益も大義もない朝鮮出兵だ。くどく説明するまでもなく、誰でも知っている話である。
問題は、ナゼ彼がこの暴挙に想到したかということなのだが、これがどうやら信長の受け売りらしい。そのことを初めて知ったのは坂口安吾『二流の人』の一節で、次の逸話が紹介されている。
秀吉が信長の命を受けて中国(地方)征伐に出発のとき、中国平定後はこれをお前にやるから、と言われて、どういたしまして、中国などは他の諸将に分与のほどを願いましょう。その代わり、中国征伐のついでに九州も平らげてしまうから、九州の年貢の上がりを一年分だけ褒美に頂戴いたしたい、これを腰にぶらさげて朝鮮と明を退治してきます、と言って、信長を笑わせた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持ちをそらさぬ用意が秘められており、信長の意中を知る秀吉は巧みにこれを利用して信長の哄笑を誘ったのだが、やがてそれが秀吉自身の心になってしまうのだった。
(『白痴・二流の人』角川文庫版 P.115)
あるいは、こうも書かれている。
朝鮮遠征は一代の失敗だった。秀吉は信長以上の人物を知らないので、信長のすべてを学んで長をとり短をすてたが、朝鮮征伐も信長晩年の妄想で、その豪壮な想念がまだ血の若い秀吉の目を打った。それは信長晩年の夢の一つというだけで、ただ漠然たる思いであり、戦場を国の外へひろげるだけのただ情熱の幻想である。国家的な理想とか、歴史的な必然性というものはない。秀吉は日本を平定して情熱がなお余っていたので、往昔ふと目を打たれた信長の幻想を自分のかねての宿志のようにやりだしたのだが、彼は余生に乗りすぎていた。明とはいかなる国であるか、歴史も地理も知らない。ただ情熱の幻想におぼれ、根柢的に無計画、無方針であった。
(同、P.133)
「信長模倣説」とでも要約できるこの見方は、坂口安吾ひとりの想像ではなく、他でも読んだことがある。おそらく文献上の根拠のあることと思われ、イエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』がそれだとネットにあるが、まだ読んでいない。ともかく、この「一代の失敗」すら、秀吉固有の創意ではなかったのだ。長のみならず短においても、ほぼ無批判に主・信長を踏襲したのである。
同一化の悪しき一例、最悪の一例である。
***
これだけなら以前から気づいていたが、『軍師官兵衛』に荒木村重が繰り返し登場するのを見ていて、もうひとつの「嫌なこと」に思いあたった。
朝鮮出兵と政治的・歴史的な意義の重さは比較にならないけれど、個人史上の意義としては引けをとらない悲惨な逸話がいくつかある。その一つが関白秀次の誅殺であり、その妻妾と子どもらを惨殺した事件だ。
秀次はおよそ人の上に立つ人物ではなく、秀吉の甥(姉の息子)というだけで、また秀吉に世嗣がなかったばかりに、心ならずも養子とされ関白に昇った傀儡であった。当然、秀頼の誕生とともに一転して邪魔な存在となり、ならば廃位してどこかへ移封すればすむものを、秀頼かわいさが狂気のレベルに達した秀吉の猜疑心のために、無意味な口実によって死に追いやられたのである。
利休にはまだしも殺される「理由」らしきものがあった。信仰のひたむきさで茶道を探求する利休は、秀吉の世俗的な力を認めてはいても、これに拝跪することがついになかった。形式的な謝罪とひきかえに助命する腹だった秀吉の和解工作を、沈黙をもって拒絶し自ら死を選んだのは利休である。いっぽうの秀次は、ひたすら謝罪しひたすら助命を請うたのに、ついに容れられることがなかったのだ。
秀吉の一生の堰が一時に切られた。本流のしぶきにもまれて彼のからだがくるくる流れた。耳も聞こえず、目も見えず、たった一つのものだけが残っていた。秀頼。秀頼。秀頼。彼は気違いだった。秀次の愛妾たちとそのおのおのの子どもたち三十余名が大八車につみこまれて三条河原にひきだされて芋のように斬り殺され、河原の隅に穴がほられて、高野から運び下ろされた秀次の死骸と合わせて投げこまれて、石が一つのせられた。その石には悪逆塚(あくぎゃくづか)と彫らせてあった。
(P.143)
凄惨の一語に尽きるが、実は酷似したできごとが荒木村重の家族に起きている。
信長の信任厚い部将であった荒木村重(先祖は大ムカデ退治の伝説で知られる、俵藤太(たわら・とうた)こと藤原秀郷と言われる)が、中国攻めのさなかの天正6(1578)年、突如反旗を翻して有岡城(伊丹城)に籠もる。説得に向かった黒田官兵衛が捕らえられ幽閉されるのもこの時である。有岡城は難攻不落、8か月にわたる籠城でびくともしなかったが、肝心の毛利の来援がなく業を煮やした村重は単身脱出(!)、残党は内部工作に屈して遂に開城におよぶ。
有岡城に遺された一族郎党に対し、信長は見せしめとして容赦なく断を下した。
以下、wikipedia のコピペ。
12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。
「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」
『信長公記』
12月16日には、京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。
「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」
『立入左京亮宗継入道隆佐記』
後者のありさまが、関白秀次の妻妾らのそれと酷似しているというのだ。偶然ながら受難者の人数まで拮抗している。
***
つまりここでも秀吉は、意図してかさらでか亡主のやり口を踏襲している。背く者に対する仕打ちの苛烈さにおいて信長に同一化し、あるいは負けまいと張り合うかのようだ。謀反人に対する見せしめはいつの世にも苛酷だが、演出の仕方はさまざまである。立入宗継が「前代未聞」と評した信長の仕置きは、演出の残虐さで京童を震え上がらせた。そのやり方を秀吉は明らかに真似ている。悪性の同一化の、もう一つの現われと指摘する所以である。
しかし信長の肩を持つわけではないが、この二つの事件をめぐる状況には微妙な違いがある。信長の場合その覇業は道半ばであり、将軍義昭が糸を引く信長包囲網は手強いもので、殊に石山本願寺と西国の雄・毛利氏は大敵であった。有力な部将の叛逆は致命傷となる危険があり、信長としてはどんな手段に訴えてでも謀反の連鎖を予防せねばならなかった。謀反ほど恐いものはない。事実それが信長の命取りになっている。
ちなみに光秀、丹波の波多野氏を下す際に降将の安全の保証として実の母を人質に送ったが、信長が波多野氏を処刑したため、この母が磔にされるという痛恨事を経験している。それが本能寺の伏線の一本になったとすれば、やはり信長は人を殺しすぎたのである。
とはいえ、絶大な信頼を受けながら激戦のさなかに公然と寝返った荒木村重と、なりたくもない関白に叔父の一存で祭り上げられ、秀頼誕生とともに弊履のように捨てられた無力な秀次とでは、権力者にとっての危険の大きさも糾弾の必要性もまったく違う。ただ、憎悪の表現の残虐さだけが気味の悪いほど似ているのである。
***
秀吉という希有の人物の晩節の汚し方に、主・信長のありようが色濃く影響するとともに、そこに同一化の機制が執拗に反復起動していることを見る。
さても強力な機制であるなら、僕らとして大切なのは、
① 自分が誰に/何に対して同一化しているか自覚すること、
② 望ましい/本当に自分がそうなりたい対象に正しく同一化すること、
なのだろう。
毎週の礼拝は、まさにこの点を確認する作業のようにも思われる。
「自由とは、てんでんバラバラや勝手気ままのことではなく、真に自由な者との一体化のことだ」と先日書いた。
元ネタはヤスパースの『哲学入門』で、これは第二次大戦後、失意のドイツ人に対して行われたラジオ講演を起こしたものらしい。それはさておき・・・
「一体化」は「同一化」と言い換えてよく、先日来この言葉をしきりに反復していることに自ら気づく。
人間の行動の動機づけ ~ 時に明らかな、時に隠れた ~ の機序として、おそらくは最大のものがこれなのだ。「朱に交われば赤くなる」、千字文にも類似の句があった。(墨悲絲染 詩讃羔羊 ~ 千字文 025)
これらは主として好ましくないものの悪しき影響に注目している。善なるものによる善導はもとよりあることながら、得てして悪影響のほうが容易に生じ、大きな害をもたらすとの認識によるのだろう。
それで、嫌なことに思いあたった。
***
豊臣秀吉という人、その前半生は真にもって素晴らしい。
一介の庶民から身を起こし、己の才覚だけを頼りに目の眩むような立身出世は、歴史上の奇跡である。そのプロセスで類いまれな「人たらし」の異能を発揮しているのも特筆で、超・実力本位のあの時代にこの猿面の小男に賭けてみようという気持ちを多くの人々に起こさせた、その人間的魅力を想像するだに楽しいのである。
晩年がいけない。
努力と幸運の末に勝ち取った富と権力を、この人物は恣(ほしいまま)に濫費した。私的に浪費するばかりでなく、人と天下を巻き込んで悩ませた。私情に任せて奪った命の多いことは悲しいばかりである。(信長の殺戮はさらに徹底していたが、常に明瞭な政治的方向性をもっていた。)
中でも後世の禍となったのが、益も大義もない朝鮮出兵だ。くどく説明するまでもなく、誰でも知っている話である。
問題は、ナゼ彼がこの暴挙に想到したかということなのだが、これがどうやら信長の受け売りらしい。そのことを初めて知ったのは坂口安吾『二流の人』の一節で、次の逸話が紹介されている。
秀吉が信長の命を受けて中国(地方)征伐に出発のとき、中国平定後はこれをお前にやるから、と言われて、どういたしまして、中国などは他の諸将に分与のほどを願いましょう。その代わり、中国征伐のついでに九州も平らげてしまうから、九州の年貢の上がりを一年分だけ褒美に頂戴いたしたい、これを腰にぶらさげて朝鮮と明を退治してきます、と言って、信長を笑わせた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持ちをそらさぬ用意が秘められており、信長の意中を知る秀吉は巧みにこれを利用して信長の哄笑を誘ったのだが、やがてそれが秀吉自身の心になってしまうのだった。
(『白痴・二流の人』角川文庫版 P.115)
あるいは、こうも書かれている。
朝鮮遠征は一代の失敗だった。秀吉は信長以上の人物を知らないので、信長のすべてを学んで長をとり短をすてたが、朝鮮征伐も信長晩年の妄想で、その豪壮な想念がまだ血の若い秀吉の目を打った。それは信長晩年の夢の一つというだけで、ただ漠然たる思いであり、戦場を国の外へひろげるだけのただ情熱の幻想である。国家的な理想とか、歴史的な必然性というものはない。秀吉は日本を平定して情熱がなお余っていたので、往昔ふと目を打たれた信長の幻想を自分のかねての宿志のようにやりだしたのだが、彼は余生に乗りすぎていた。明とはいかなる国であるか、歴史も地理も知らない。ただ情熱の幻想におぼれ、根柢的に無計画、無方針であった。
(同、P.133)
「信長模倣説」とでも要約できるこの見方は、坂口安吾ひとりの想像ではなく、他でも読んだことがある。おそらく文献上の根拠のあることと思われ、イエズス会士ルイス・フロイスの『日本史』がそれだとネットにあるが、まだ読んでいない。ともかく、この「一代の失敗」すら、秀吉固有の創意ではなかったのだ。長のみならず短においても、ほぼ無批判に主・信長を踏襲したのである。
同一化の悪しき一例、最悪の一例である。
***
これだけなら以前から気づいていたが、『軍師官兵衛』に荒木村重が繰り返し登場するのを見ていて、もうひとつの「嫌なこと」に思いあたった。
朝鮮出兵と政治的・歴史的な意義の重さは比較にならないけれど、個人史上の意義としては引けをとらない悲惨な逸話がいくつかある。その一つが関白秀次の誅殺であり、その妻妾と子どもらを惨殺した事件だ。
秀次はおよそ人の上に立つ人物ではなく、秀吉の甥(姉の息子)というだけで、また秀吉に世嗣がなかったばかりに、心ならずも養子とされ関白に昇った傀儡であった。当然、秀頼の誕生とともに一転して邪魔な存在となり、ならば廃位してどこかへ移封すればすむものを、秀頼かわいさが狂気のレベルに達した秀吉の猜疑心のために、無意味な口実によって死に追いやられたのである。
利休にはまだしも殺される「理由」らしきものがあった。信仰のひたむきさで茶道を探求する利休は、秀吉の世俗的な力を認めてはいても、これに拝跪することがついになかった。形式的な謝罪とひきかえに助命する腹だった秀吉の和解工作を、沈黙をもって拒絶し自ら死を選んだのは利休である。いっぽうの秀次は、ひたすら謝罪しひたすら助命を請うたのに、ついに容れられることがなかったのだ。
秀吉の一生の堰が一時に切られた。本流のしぶきにもまれて彼のからだがくるくる流れた。耳も聞こえず、目も見えず、たった一つのものだけが残っていた。秀頼。秀頼。秀頼。彼は気違いだった。秀次の愛妾たちとそのおのおのの子どもたち三十余名が大八車につみこまれて三条河原にひきだされて芋のように斬り殺され、河原の隅に穴がほられて、高野から運び下ろされた秀次の死骸と合わせて投げこまれて、石が一つのせられた。その石には悪逆塚(あくぎゃくづか)と彫らせてあった。
(P.143)
凄惨の一語に尽きるが、実は酷似したできごとが荒木村重の家族に起きている。
信長の信任厚い部将であった荒木村重(先祖は大ムカデ退治の伝説で知られる、俵藤太(たわら・とうた)こと藤原秀郷と言われる)が、中国攻めのさなかの天正6(1578)年、突如反旗を翻して有岡城(伊丹城)に籠もる。説得に向かった黒田官兵衛が捕らえられ幽閉されるのもこの時である。有岡城は難攻不落、8か月にわたる籠城でびくともしなかったが、肝心の毛利の来援がなく業を煮やした村重は単身脱出(!)、残党は内部工作に屈して遂に開城におよぶ。
有岡城に遺された一族郎党に対し、信長は見せしめとして容赦なく断を下した。
以下、wikipedia のコピペ。
12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。
「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」
『信長公記』
12月16日には、京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。
「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。」
『立入左京亮宗継入道隆佐記』
後者のありさまが、関白秀次の妻妾らのそれと酷似しているというのだ。偶然ながら受難者の人数まで拮抗している。
***
つまりここでも秀吉は、意図してかさらでか亡主のやり口を踏襲している。背く者に対する仕打ちの苛烈さにおいて信長に同一化し、あるいは負けまいと張り合うかのようだ。謀反人に対する見せしめはいつの世にも苛酷だが、演出の仕方はさまざまである。立入宗継が「前代未聞」と評した信長の仕置きは、演出の残虐さで京童を震え上がらせた。そのやり方を秀吉は明らかに真似ている。悪性の同一化の、もう一つの現われと指摘する所以である。
しかし信長の肩を持つわけではないが、この二つの事件をめぐる状況には微妙な違いがある。信長の場合その覇業は道半ばであり、将軍義昭が糸を引く信長包囲網は手強いもので、殊に石山本願寺と西国の雄・毛利氏は大敵であった。有力な部将の叛逆は致命傷となる危険があり、信長としてはどんな手段に訴えてでも謀反の連鎖を予防せねばならなかった。謀反ほど恐いものはない。事実それが信長の命取りになっている。
ちなみに光秀、丹波の波多野氏を下す際に降将の安全の保証として実の母を人質に送ったが、信長が波多野氏を処刑したため、この母が磔にされるという痛恨事を経験している。それが本能寺の伏線の一本になったとすれば、やはり信長は人を殺しすぎたのである。
とはいえ、絶大な信頼を受けながら激戦のさなかに公然と寝返った荒木村重と、なりたくもない関白に叔父の一存で祭り上げられ、秀頼誕生とともに弊履のように捨てられた無力な秀次とでは、権力者にとっての危険の大きさも糾弾の必要性もまったく違う。ただ、憎悪の表現の残虐さだけが気味の悪いほど似ているのである。
***
秀吉という希有の人物の晩節の汚し方に、主・信長のありようが色濃く影響するとともに、そこに同一化の機制が執拗に反復起動していることを見る。
さても強力な機制であるなら、僕らとして大切なのは、
① 自分が誰に/何に対して同一化しているか自覚すること、
② 望ましい/本当に自分がそうなりたい対象に正しく同一化すること、
なのだろう。
毎週の礼拝は、まさにこの点を確認する作業のようにも思われる。