散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

白耳義通信追伸及訂正

2014-04-06 23:44:21 | 日記
2014年4月6日(日)

 H君から「訂正依頼」あり。
 だけど僕の頭がついていってなくて、彼の意を体して正確に訂正するにはどうしたものか、すぐに思案が出ない。

 だからというわけでもないけれど、了解を得て全文を転載する。
 よく読み返して考えてみよう。
 poort という言葉にまつわる面白さ、これは大いに共感・了解出来るので。

【その1】
 時差ぼけから回復しつつある頭で、ひょっとしてと思って、Swisspoortをインターネットで調べたら、みあたらず、ベルギー法人も Swissportと表記するようです。

 私のこの錯覚をどう解釈するか、選択肢はいくつかありますが、振り返ってみるに、カウンターで下手な英語で押し問答するうちに落ち着きを失っていたのがベースにあって、そこへもってきて、あそこに見えるSwisspoortのカウンターへ行って再発行してもらえなどとカウンターの女性に横柄に言われ、そこへ行くと、問題ない、有効だと言われ、この往復を数回くりかえしているうちに、なんでベルギーなのにスイスなんだ!、わけがわからん、という怒りも作用して、綴りを正確に認知しなかった。

 そのあと、成田だったか帰国直後にスマホで、このスイスなんとかとは一体何者だと調べたら、 Swissportなる会社だとわかった。アウトソーシングしている会社だと知って、不手際にそれなりに得心がいったのですが、そのとき、自分がブリュッセルで見た語は、ooだったはずと思い込んだんだと思います。

 それは、おっちょこちょいの自分の性格も関係していますし、会社名を理解できなかった自己への弁護の心理も作用し、加えて、オランダ語に慣れてきたので、poort なる語に馴染んでおり(いろいろな場所に、〇〇poort という地名があります。坂下門、虎ノ門、といった感じですが、都市の城壁の出口で、行き先の名前をつけるので川越門、川崎門、品川門ってな感じでしょう)、早とちりした、ということでしょうか。

 というわけで、ちょっと恥ずかしいですが、訂正お願いいたします。

 ※ 石丸注記: 行き先の名前を門につけるのは、たぶん世界に例の多いことだろう。西暦800年頃、ハルーン・アッラシードの時代にイスラム世界の中心として栄華を極めたバグダッドは、その四つの大門が「シリア門(北西)」「コラッサン門(北東)」「バスラ門(南東)」「クーファ門(南西)」と呼ばれていた。


【その2】 
 なんで、Swissport と認知せず、Swisspoort だと錯覚したのか、精神分析してもらうのも面白いかも。
 自分でも、自信がないですが、ブリュッセル空港で Swissportと明確に認知しなかったのは事実ですね。かといって、Swisspoort と明確に認知したという自信もない。記憶をたどると、oがいくつあるのかな、ooのように見えるなというイメージが浮かびます。

 ただ、poortという語に慣れ親しんでいたことは間違いないです。というのは、ブリュッセルには、有名な交差点に Naamsepoort (Porte de Namur) ナミュール(ワロン地方の都市)の門(ナミュール通りの端がナミュール門です)があり、そのほか、かつての壁(中世都市を囲む壁)が今、環状道路になっていて、そこかしこに、poort(port) があります。

 宿舎の女子修道院のすぐ近くも、中世都市の壁が環状道路になっていて(女子修道院は街のはずれの低地、かつての河川敷にあります)、そこが、なんと、やはり Naamsepoortなんです。

 そういうわけで、poort に親近感のようなものがありましたね。それで、一体、何でスイスなんだ、というのと、なんで poort なんだろうという印象があったようです。portを見ても poortと見えてしまうような機制があったようにも思います。それが英語とクロスオーバーしている言語の一つの効果(初心者にとって?)かもしれません。

 ちなみに、グーグルで「都市の壁」を調べたら、面白い記述があって、「旧約聖書だけで、「門」(「ゲートgate」あるいは「ゲートgates」)の単語がおよそ400回出現します。これらの言葉は異なった使用法により少し異なった意味を持っています。」とあるじゃありませんか。

 poort という語に妙に惹かれていたのは間違いないと思います。終わらないので、このくらいにしておきましょう。

※ 石丸注記: H君はとっくに知っていることだが、「中世都市を囲む壁が今は環状道路になっている」というのはこれまたヨーロッパ世界に普遍的な現象で、フランス語の boulevard(今は英語にも入っている)はまさしく「壁」と「環状道路」の二義をもつ言葉だった。
 「門」の多義性がまた刺激的な話で、ついでにいえば門も都市も精神分析的には女性性の象徴であると思われる。
 漱石の『門』については、連載開始時に題名を決めてくれと新聞社から頼まれたのに、「そちらで適当に考えてくれ」と漱石が答えたもんだから(!)、困った担当者がたまた目の前にあった『ツァラトゥストラかく語りき』を開いたら、そこに「門」が出てきたのでそれに決めたという話がある。
 当の漱石が「なかなか「門」にまつわる話にならないので困る」と途中でぼやいたそうだが、今から読むととてもそうは思えない、「入れてくれ」と頼んでも開かない、「自分で開けて入れ」と中から声がするなどという下りは、最初から狙ったもののようだ。
 いずれにせよ、お寺の山門か、たかだか城門ぐらいの表象しかもたない僕らには想像しがたい、欧州・中東の、あるいは中国の、都市の壁でありそこに穿たれた門の話である。

 H君の興奮が伝染してきて終わらないので、このくらいにしておこう。

ブログ一周年感謝/日本への信頼

2014-04-06 22:49:00 | 日記
2014年4月6日(日)

 今日が当ブログ開始一周年であることを、プロバイダーがメールで知らせてくれた。

 「ishimarium さんが 2013年04月06日 に書かれた記事をお届けします。」

 で、「人のすなるブログというものを、我もしてみんとてするなり云々」
 とお節介にも駄文を再掲しておいて、

 「1年前に書いた記事の感想を書いてみませんか?
また、ライフログとして1年後の自分に向けて素敵な思い出をブログにまとめましょう♪」

 だってさ。あの手この手を考えるものだ。

***

 勝沼さん、この間、折りにふれてのコメントをありがとう。
 次の一年もよろしくお願いします。

・タイトル:
 マシュー・マッグローリー

・コメント
 最近(といっても9年前ですが)では身長2m29cmの俳優マシュー・マッグローリーさんが32歳という若さで亡くなったことが話題になりました。ティム・バートン監督の「ビッグ・フィッシュ」の彼のインパクトは絶大でした。
 ミゼットの人達もそうですが、CGで人を大きくしたり小さくしたりできる現在でもこういった人達が活躍している映画は数多くあります。

⇒ 現にこういう人間が存在していて、その人がこの役を演じているという緊張感は、映画の何かをきわどく支えている感じがします。演劇から出発した映画の、系統発生的な証しとでも言いましょうか。演じる者の身体性は、やはり映画のリアリティの大事な支えだと思うのです。CGで固めたバーチャルな画面構成は、それはそれで結構だけど、既に別のジャンルを独走しているのではないでしょうか。
 ネットでマシュー・グローリーを引いてみたら、「巨人症」という文字が少々目立ちすぎて不快でした。ジャイアント馬場や羅生門綱五郎についても同じなんですけどね。「猟奇」という言葉が浮かびます。「奇」なるものを面白がっているんです。近世ヨーロッパの諸都市で、精神病院見物が市民の娯楽として成立していたことを、あわせて思い出しました。インターネット上で見物しているわけですね。
 
***

 それで思い出した、というのも妙だが、内心では一行飛ばしでつながっている。
 T君から久々の来信、その追伸。

> 今、PCでこんなビデオを観てました。恥ずかしながら、福島第3、4号機の爆発がどういうものであったか、初めて知りました。福島、靖国、STAP細胞、捕鯨と世界から日本への信頼が失われていっていることを厳しく受け止めないといけないと思います。

http://www.at-douga.com/?p=5228&fb_action_ids=613998452016988&fb_action_types=og.likes

 ここにT君の挙げた4つはそれぞれ意味合いが違っていて、並列することに幾分の異論もあるけれど、福島とSTAPに関する限り、実はかなり近い問題ではないかという直感がある。「科学におけるモラルの問題」と取りあえず括っておこう。

読書メモ 026 『ヒューマン・ファクター』

2014-04-06 19:35:01 | 日記
2014年4月6日(日)

 1月下旬に読んだんだが、何か気の利いたことを書きたいと思って、書けないまま放ってあったのだ。原語で繰り返し読んだというH君の話に、ちょっと気後れしたのでもあるかな。
 せっかく読んだのに記録し損なうのもシャクなので、気の利いたコメントはさらにないまま挙げておこう。

 そもそも「ヒューマン・ファクター」ってどういう意味なんだろう。
 文中にこの言葉が出てきたとしたら読み落としている。

 スパイ小説であって、かつ主人公は自身の家族 ~ 「人間的要素」の最たるもの ~ を任務よりもはっきり上位に置いており、そのことが彼の悩みを生む。その程度の理解で良いのかな。

***

 ヨーロッパものの中でも英国の小説は、会話の中の「気の利いたやりとり」が楽しみの一つである。あるいは地の文に埋伏されたユーモア。

 一つだけあげると、登場人物の一人がかつてアフリカで勤務したとき、そうとは知らずに人肉を食べさせられた経験をもっている。
 それを聞かれてこの人物が、「ポットラック・パーティー(参加者がそれぞれ何かしら作って持参する、持ち寄りパーティー)は良いものですよ」と答えるあたりところ。
 これは強烈だ。

***

 時代の証言という意味で、好個の記録であるのは間違いない。
 冷戦の緊張、南アフリカ共和国の人種差別の実態(密会中の白人・黒人カップルが、ベッドから引きずり出されて惨殺された事件が1970年代にまだあった)、ロンドン周辺の勤労者事情、黒人女性と結婚してイギリスで生きることの意味、等々。
 いずれも僕らは幼少年期に見聞したこと、子ども達には昔話である。

***

 関西で「考えときまっさ」と言えば婉曲ながら明瞭な「否」の返答。
 しかしこの小説にも、まったく同じ意味合いで「考えときますよ」という答えが出てくる。
 "I`ll think about it." だな、きっと。
 女の子がデートを婉曲に断るときにも使うよね。
 この種のレトリックは、ほとんど人類種一般に共通なものかもしれない。ただ、その意味を悟る者と悟らない(悟ろうとしない)者があるのだ。

***

 43%地点で目が丸くなった。
 ページでなく%で言うのは、Kindle版で読んだからで。
 これは大事なキモだから、さすがにネタばらしは止めておこう。

***

 「アンクル・リーマス」作戦というものが作中に出てくる。
 このコードネームは懐かしくもの悲しい。前にどこかで触れた、『ウサギどんキツネどん ~ リーマスじいやのした話』を踏まえている。アメリカ黒人の文化が下敷きにあって、南アフリカが語られている。

***

 スパイ小説の体裁をとった家庭小説だ。家庭とは何か、家族とは何か、相当に考えさせられる。
 最後は、ここで終わるか!という気持ちだが、これ以外の終わり方はないかもしれない。
 秀作だ。

 

言葉の紳士録 012: 「素っ裸」と「真っ裸」/「ゆわかれる」

2014-04-06 12:43:32 | 日記
昨4月5日(土)

 朝日のb3面「ことばの食感」から(ちゃんとオチがついていて、一笑できるのが嬉しい)

「素っ裸」と「真っ裸」
 中村明

 ある類語辞典の出版披露のパーティー会場で、司会者から突然「素っ裸」と「真つ裸」に何か違いはあるか、とマイクを振られた時には面くらった。
 言語学の大家が会う人ごとに意見を求める話題らしい。その辞典の編集主幹として出席しているてまえ、即座に何か答えないと格好がつかない。とっさに「素」のつく語と「真」のつく語の発想の違いを考えてみた。
 すると、「素足」「素手」「素肌」は靴下・手袋・衣類を身につけていない状態、「真っ赤」「真っ青」「真っ正直」はその状態に次第に近づく最終段階であることに気づいた。
 とすれば、「素っ裸」は衣類を身につけているか、いないかという、1かゼロかの、いわばデジタル思考であり、「真っ裸」は厚着から次第に薄着になって最後の一枚をずらしながら落とすという連続的な接近、つまりアナログ思考だと言えるのではないか。
 苦し紛れにそんな思いつきをしゃべった。調子に乗って、川端康成の「伊豆の踊子」のヒロインが湯上がりに主人公の目にさらしたのは「素っ裸」だろうと口走ったのが運の尽き。家で調べたら「真裸」とあった。それ以来、ここは「まはだか」と読んで気品を保っている。
(早稲田大学名誉教授)

***

 マイクを渡されてから答えるまでのわずかな時間に、これだけのことを考えつくのがスゴいけれど、思えば面接授業や講演会の質疑応答では、けっこうこれに近い軽業をやってはいるのだ。質疑応答大歓迎は身上で、それだけで授業を組みたいぐらい。
 人が何かを思いつくのは、案外こういう瞬間のわざであるのかもしれない。もとより、それを可能にする一定の条件が必要だけれど。

 こちらは記事を読んでゆっくり思案するから、以下はアンフェアな論評で、どだい素人の勝手な思いつきだけれど。
 「素」はそれ自体、「白」とか「未加工」とか「裸」とかいう意味があるよね。「素人」もそうだし、中村先生の挙げておられる「素手」「素足」「素肌」いずれもそうだ。だから「素っ裸」はそもそも一種の二重表現で、音便「っ」の効果がそれをさらに強める形になっている。
 「真っ裸」の「真」の方は「正真正銘の」「まじりけのない」といった意味だろう。いわば純粋さの方向からの強調だ。
 ついでに妄想を語るなら、「素っ裸」はえいやと脱ぎ去る威勢の良さを感じさせ、「真っ裸」は文字通り一糸も纏わぬ徹底ぶりを感じさせる。なので「順次脱いでいって最後の一枚を脱ぎ去る」という経時性(通時性)は、どちらかと言えば「素っ裸」に近いもの、「真っ裸」のほうにこそ共時的な感じを僕はもつのだけれど。

 それにしても羨ましいようなやりとりだ。
 医者でなければ、言葉に関わる仕事が良かったな。

***

 日曜午後のEテレ、「日本の話芸」をときどき録画しておいて見ている。
 歌丸師匠が高座をつとめているのは、いつの収録だろうか。4日、新幹線移動中に胸痛を訴え、入院したら肋骨にひびが入っていたんだという。この録画放映を見て、「痛くて笑えない」と回りを笑わせてるぐらいだと良いんだが。
 この人はタバコ一日70本吸っていたという猛者で、そのツケで肺気腫を抱え2009年にも入院歴がある。今回もその件があわせて指摘されているそうで、肋骨なんかは弾みでひびの入るものだが(僕も風呂場で滑ってやっちゃったことがある。おかげでアダムのあばら骨からエヴァが創られたという話の深い意味を覚った。一息ごと、いつもどこでも共にあるという意味だ)、肺気腫は要注意である。御年とって78歳だそうだから。

 『小間物屋政断』、数ある大岡裁きもののひとつで、その冒頭に小間物屋仲間が箱根路で追いはぎに遭い、杉木立の根本に縛られているのを主人公が発見する。
 その場面で師匠が「ゆわかれる」という言葉を前後二回使った。

 ゆう(結う)/ゆわく(結わく)/ゆわかれる(結わかれる)

 柔らかい、いい響きだ。
 「縛る」はすぐれて暴力的な用法であり、「ゆわく」にはずっと広い生活の裾野がある。

白耳義通信小括入来

2014-04-06 08:34:50 | 日記
2014年4月6日(日)

 一昨日、無事帰宅したH君から長文のメール。時差ボケで夜中に目が覚めたのを幸いに、ベルギー通信の小括を書き送ってくれたのだ。
 「適当に抜粋して」と転載許可をくれたが、そんなもったいないことはしない。ど~んと全文いただいてしまう。
 その前に、オランダ語に興味を示している彼の尻馬に乗って、少しだけトリビア蘊蓄。

 オランダ語の発音は「ドイツ語から濁点を取って踏みつぶしたようなもの」と言った人がある。少々乱暴だが、たとえば「雨が降る」をドイツ語では regnen(レグネン)、オランダ語では regenen(レフネン)と言うことなどを好例として、案外言い当てているらしい。
 ドイツ語は「ガ」行の音が大好き、というのは、関楠男先生に伺った話。教養課程でドイツ語を最初に教えてくださった先生だが、あれほどの大家とは当時思いもかけず、自分の本棚に先生の訳書が多数並んでいるのにも長く気づかなかった。(『ペルーの神々と神話』『古代への情熱』『ケルト人』『道の文化史』『ドイツ文学の蹉跌』・・・)
 関先生の一時間目は、発音を中心にケッサクな逸話満載の爆笑講義で、その中に「ガギグゲゴ大好き」という話も出てきたのである。たとえば「迎えに行く」を意味する動詞の過去分詞は entgegengegangen(エントゲゲンゲガンゲン)になる、という具合で。
 対照的にオランダ語は「ガ」音が少なく、ついでに「ヴ」の音も乏しく、双方が「ハヒフ」に収斂する印象がある。アメリカの旅先でオランダ人女性が国際インターンとかでホテルの受付業務にあたっていた。見事な英語を話していたが、[v]の発音がすべて[f]になり、every five minutes(5分毎に)が「エフリ・ファイフ・メネッツ」に聞こえるもんだから、アメリカ人の多くがポカンと理解できずにいた。不思議なもので、僕ら外国人の方がこういうささやかな訛りには順応が早い。

 もうひとつ、オランダ人やオランダ語のことをナゼか Dutch と言うでしょう。その語源が Deutsch (ドイツ)と同根であることを、多くのオランダ人は意外に知らない。旅先でその話題になってこのことを説明したら、「それは違う」「そんなことあるはずがない」と不機嫌に反論されて閉口したことがあった。
 でも、そうなんだよ。
 なお、文中で言及されている柳父(やなぶ)章さんには、多くの優れた面白い著作がある。すっかりファンになって出版社を介して連絡をとり、お宅まで遊びに伺ったことがあった。『翻訳語成立事情』(岩波新書)は、言葉について考える人には必携の好著だ。

 さて、前振りはここまで。真打ち登場。

*****

石丸様

 昨日朝帰国し、日本の寒さに驚いています。ベルギーは夏のような暖かさで、人々は、ヨーロッパでは貴重な太陽の光を楽しんでいました。

 さて、ベルギー滞在も2000年春以来、10回程度、滞在日数は100日程度になっているためもあり、また、私自身が50歳代後半という落ち着いた見方が多少できるようになっているためもあってか、これまでとは違った感覚を持って帰国しました。

 まず、日本は、日本にいて通常感じているよりは「悪くない」のではないか。政治は別として、経済、文化、社会、衣食住の面で、相対的に水準が高く(改善の余地はもちろんありますが)、かつ、19世紀半ば以来の歴史的経験を貴重な財産として、世界、特に東アジアから中東、アフリカにかけての地域の人々に対して、中国と競いつつ、中国とは違ったレベルで、その福利の向上に貢献できるのではないかということです。今、日本では、人材と教育のグローバル化が叫ばれていますが、その支配的論調は、金儲け、利潤の日本への環流という視点に偏っていると感じますが、ビジネス面にしても、金儲けに限らない価値と経験、また、ビジネス以外での貢献に大きなポテンシャルがあり、政治家と官僚、経済界、教育界の指導者は、このことを認識し、国の政策にすべきではないか感じています。これが、今回の25日間の滞欧の私にとっての一つの成果です。

 成田についてから日暮里を経て山の手線の某駅で某私鉄に乗り換えて帰宅するまで、25日の滞欧が、東京の日常的光景を、西欧での異質な感覚が残存しているためか、より客観的に眺める効果を少なくとも、短期間、私にもたらしています。
 まず感じるのは、高度の清潔さ、人々の穏やかさ(東京の生活に戻ると、慌ただしさのみがストレスとなりますが、帰国直後は、むしろ、温順な日本人と日本社会、ひとにやさしいという感じを強く感じます。
 これは、西欧との本質的差異なのかもしれません.単に土曜日だからではないのは、帰国するときいつも、感じるからです.ただし短期間しか持続しないのは悲しいですけど)、表象の驚くべき多様さ、精妙さ、歴史的厚みと近代性(超近代性にも通じる)、他方で、高度の(ほとんど行きすぎているが、しかし、西欧から帰ると好ましい)効率性、他者へのサービス(献身)です。人々の穏やかさは、羊の群れを連想させ、それは、マイナス、危険性でもありますが、西欧と比較すると、この近代性、超近代性は、この集団的従順さなくしては達成できないと痛感します。
 それだけに、昭和初期の軍事的侵略と愚かな世界戦争、あるいは福島第一、といった日本に特徴的な愚行と失敗の根の1つがそこにあることを認識して、制度的対応を徹底させ、愚行を繰り返さない努力は必要と考えますが、それにしても、この適応能力の高さは自己認識すべきと思います。もちろんそれは、自殺率の高さや精神疾患に苦しむ人や引きこもりの増大、といった病理と裏腹であるという点も忘れてはならないですけれど。

 隣国(複数)の人々がエネルギッシュなのに、日本の人たちは、非常に穏やかであるのは、しばらく前までは、危機的と感じたのですが、どうもそうではないのではないか、というのが、今の私の直感です。ただ、政治という、意思が支配するべき領域においては、これがマイナスに働きつつある点は、依然として危機感をもっていますが。「表象の驚くべき多様さ精妙さ、歴史的厚みと近代性(超近代性にも通じる)」は、それだけで、本がかけますが、日本の歴史そのものがそこに表現されていますね。
 スカイライナーからは、印旛沼付近の広大な平原と遠くに多分筑波山がかすんで見え、しばらくすると沿線に桜並木が延々続き、突然、最近開発されたとおぼしい整然とした住宅地が現れ、そうこうするうちに葛飾柴又の街を通過する。それは、雑然としているが、非常に不思議な調和を感じさせます。昔20代の頃、たしか地下鉄で日本に初めて来たという若い米国人に道をきかれ、ついでに日本の印象をきいたら、"well organized" といわれたのを記憶していますが、確かに、ブリュッセルはもちろん、ロンドンと比べても、その精妙さ、秩序感は質的に違いますね。
 組織での仕事の進め方にも、それは現れます。(ただ、グランドデザイン面が弱い。また、外圧によらない、内発的な根本的変革が苦手。)

 飛躍しますが、日本にとって人材育成が鍵であることは共有されている現在、教育のグローバル化とは、世界共通語としての英語を多くの人に修得する機会を与えた上で、このような日本の歴史的成果を各地域の特質(歴史、文化、政治、経済、社会など)の理解を踏まえて、英語を通じて伝達し、それぞれの地域の人々の幸福に貢献する人材を育成するということにあると思います。経済、ビジネスだけでなく、というより、日本の貢献は、アングロサクソンの1つの正統的原理(イデオロギー)である市場主義とは違う価値を知らしめ、それを、現地の特質と、どのようにすりあわせるかを英語で議論し、伝えることにあるのではないか。
 そのための研究と教育が、少なくとも大学の学部レベルには求められているのではないか、と改めて感じています。

 あと今回の滞在の成果は、オランダ語に対する興味が深まったということでした。文法もきちんと勉強してないまったくの素人ですが、英語とドイツ語の中間的言語といった感じであるとともに、発音やイントネーションからは、両語の地方言語といった印象です。日本で言うと、東北弁のような感じです。ただ、今回、非常に薄い英蘭・蘭英辞典(1冊、単語を思い切って一対一対応させているので非常にわかりやすい)を大学生協で買ってぱらぱら読んだのですが、非常に面白い。
 幕末に西洋語を日本語として導入し定着させるための先人の努力は、これもまた世界に誇るべき業績ですが、オランダ語経由、あるいは、オランダ語も参考にした語句はどのくらいあるのか、調べてみたくなりました。
 中国語訳も参考にしたことは、God や right の翻訳事情についての本(柳父章氏ほか)で知っていましたが、時期によっては、英語と同じ程度に用語創出にあたって参考にされたのではないかと思います。分野と時期によってはフランス語、ドイツ語が優勢でしょうし、ドイツ語の造語法は、日本の学問的用語の造語法と通じていますが、オランダ語も、英語よりドイツ語に近い造語法(直接単語を結合させる)であることに今回気づきました。

 また、オランダ語それ自体についても、ある単語は、英語とほぼ同じ、ある単語は、ドイツ語とほぼ同じ、というのは、なぜそうなったのか、あれこれ想像するだけで面白いです。ラテン語、フランス語系統も入っている。
 ここからどうも、オランダ語初心者の外国人や移民の人たちをめぐるギャグがあるようで(滞在中、なにかで読みました)、たとえば、オランダ語のpoortは門、ゲートの意味なんですが(辞書ではgate, gatewayと説明)、しかし英語のportと
おそらく共通の語源と思われます。ところが、オランダ語の port は、postage, surchargeの意味で、また、ワインから来ているポートワインを指す場合もある。これを混同する外国人のギャグが生まれるわけです。
 これは、帰りのブリュッセル空港でのチェックインでひどい目に遭い(プログラムのバグらしく、電子チケットが読み込めない)1時間ぐらいかかったのですが、その会社(航空会社ではなく、アウトソーシングの会社)が Swisspoort、腹が立っていたので、何で、ベルギーにスイスの門という会社があるのか、さっぱりわからず、しらべたら、スイスエアーが破綻したあと、グランドサービス部門などを分離して再建、Swissportという会社になったという次第。Swissportなら意味はなんとなくわかったはずで、でもオランダ人にはきっと、Swissportだと、全然別の意味になってしまうんだろうな、と考えた次第です。

 話がそれましたが、オランダ語の勉強は、いつも、ベルギーに滞在するたびに、やろうと思うのですが、帰国して数日たつと、忙しいこともあり、忘れてしまうということを繰り返しています。
 老後の楽しみにとっておきます。

 長くなりましたが、ベルギー通信はこの辺で。