散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

入学式、桜あり

2014-04-08 11:54:59 | 日記
2014年4月8日(火)・・・振り返り日記

 父親が仕事を休んで入学式に出るなんてのはカッコ悪い、たかだか中学生までと思っていたら、「そうでもないと思うよ」と家人の一言。
 定時に終われば昼休みには職場に着けるかと、ふと思い直して出かけてみたら、なるほど夫婦同伴の方が多数派だった。世の中は変わっているのだ。
型通りの進行が、いかにも都立校らしい。野球部入りを宣言して長髪をばっさり6分に刈り込んだ三男、DNAがどう間違ったものか両親に似ない長身で、遠目にもすぐ見つかる。
 入学式だから新入生の事前練習もないのに、起立・礼・着席の動作が8クラス321名全員そろって一糸乱れず、たいへん行儀がよろしい。長男の学校も次男の学校もこうではなかった、らしい。次男の方は実は僕も見ている。PTA会長だったのだ、信じがたいことに。

 吹奏楽の『威風堂々』、合唱部の校歌紹介、受付の手伝い、役の当たっていない上級生もすれ違うと「こんにちは」と明朗な挨拶、指導の賜物にしても、高校生になってこれほど大人の指示をよく守れること自体、相当な驚きである。もちろん自分はそうではなかった。だって高校だよ、小学校でもなければ、中学校でもないのだ。・・・やっぱりヘンかな。

 校長先生の式辞は、「リーダーとしての自覚」と「そのために必要な教養」を身につけること。
 次の「教育委員会」代表は、自身の高校時代に大好きな野球を断念して、勉強と生徒会活動に専念した体験を語り、それはそれで結構なんだが後がマズかった。「とはいえ」「けれども」「しかしまあ」と、逆接的話題転換語彙を駆使しながら、意味不明の話の終わりなく続くこと。
 隣に座ったお父さんが、僕と反対隣の奥さんに向かって小声でぼやきだした。
「何が言いたいんだ?」「意味ないだろ」「さっきの繰り返しだよ」「いつ終わるのかな」
 いちいち同感で苦笑していたら、家内に膝を押さえられた。ビンボー揺すりしていたのだ。父親たちの多くは僕と同じく次の予定への移動が気になる訳で、会場のそこここからこもった怒気が湯気のように立ち上っている。式の後でお隣さんに「参りましたね」と声をかけると、「教育委員会があんなふうだから、日本の教育が良くならんのです」ときっぱり断言した。
 与えられた時間を超えて平気で長話する非常識は、医者と教師に多いような気がする。僕は医者で教師だから、二倍気をつけないといけない。

 同窓会長は話しなれた様子で、「3つのC」が大切と切り出した。思わず身を乗り出したのは、次男の通った中高にも3Cで表せる校訓があったから。ただそちらは、ことさら英語で表すことはしていなかった。何かな、いくつ重なるかなと、一瞬楽しくなる。
 本日の3Cは curiousity, challenge, そして communication だった。最後は「やっぱり」とコケた。先日の区立中学卒業式でも校長先生が強調したところで、コミュニケーション力が「流行りなんだよ」と後で次男に諭された。
 次男の方のは「挑戦/創造/貢献」、英語なら challenge, create, contribute だから、challenge だけが重なっている。
 c で始まるキャッチフレーズは無数に作れるが、特に印象に残っているのはテニスで大切な4C、これは control, combination, concentration, confidence。技術的なこととメンタルなこと、二つずつの組み合わせなのが面白い。
 CCCはキリスト教カウンセリングセンターで、以前ここで話をしたときには、compassion, community, christianity とまとめてみたのだった。
 この同窓会長さんは世界に冠たるX商事の会長さんであるらしい。同窓会副会長さんはもういっぽうのW商事の会長さんだと。次男の学校で長らく同窓会長を務めるFさんのことを思わず懐かしんだ。大した見識家だったが、現役一線を引いてからは特に有名でもない小さな会社を、仲間と一緒に楽しみに経営する穏和な人だった。

(続く)
 

 

映画メモ 008 『シコ踏んじゃった』/肆筵設席 鼓瑟吹笙 ~ 千字文 057

2014-04-08 07:15:20 | 日記
2014年4月8日(火)

 家族が見ているので、つい横から・・・と言い訳しておく。
 『シコ踏んじゃった』(1991)、舞台は教立大学、対戦相手は本日医科大に北東学院、應慶大、波筑大、衛防大・・・ここまで徹底してパロればお見事、教立大はもちろんキリスト教主義だが、プロテスタントだかカトリックだかこれじゃ見当もつかない。もちろん本物は聖公会系のプロテスタントだから、十字を切ることは教えない。
 本木雅弘はじめ、清水美砂、柄本明、竹中直人まで、みな若い。それなりにしっかりした相撲理解を踏まえているので、後は注文通り笑うだけ、娯楽映画ならこれで十分かな。
 清水美砂の、眉の太いのが懐かしい。いつ頃からだろう、申し合わせたように細く剃り整えるようになったのは。

 コクトー Jean Cocteau(1889-63)が1936(昭和11)年に訪日の際、相撲と歌舞伎を見て非常に感心している。映画の中で柄本明扮する教授が紹介する相撲への讃歌が美しい。あとでどこかで全文を探してみよう。
 Wiki はコクトーが相撲を「バランスの芸術」と呼んだと記すが、相撲の「立合い」について「バランスの奇跡」と呼んだのだと別のところで聞いた。

  
 コクトー、左はモディリアーニによる肖像画(1916)、右は写真(1923)。

***

◯ 肆筵設席 鼓瑟吹笙(シエン・セツセキ コシツ・スイセイ)
 筵(むしろ)を肆(し)いて席を設け、瑟(こと)をひき、笙(ふえ)を吹く。

 文字通りだが、前後と同じく宮廷風景の描写である。
 音楽にも階級秩序があること、以前にも見た。(樂殊貴賤 禮別尊卑 千字文 041、2014年3月12日)
 あるいは「音楽にこそ」と言うべきだったかも知れない。光州事件(1980年)を題材にした在日ミュージシャン白竜の曲が発売禁止だか自粛だかになったのを、当時O君が強く憂慮したことがあったっけ。
 もう30年も経ったのか・・・

***

 見つけた。

 土俵の上では、銀の装束、漆の烏帽子、昆虫の触覚という扮装に、彼らの職権を象徴する硝子なしの鏡のようなものを持ち添えた行事に見守られて、両力士は、互いに観察し合っている。立会いはほんの数秒しかかからないのだが、仕切りの一度一度が、沈黙に区切られる叫喚の嵐を捲き起す。

 力士たちは、桃色の若い巨人で、シクスティン礼拝堂の天井画から抜け出して来た類稀な人種のように思える。或る者は伝来の訓練によって、巨大な腹と成熟しきった婦人の乳房とを見せている。ただし、この乳房も、決して肥大漢のそれではない。それは古昔の美学に準拠して特殊の割合で分布された力を示している。他の者は、僕らの国の競技場で見かけると同じ筋骨を見せている。

 くすんだ色の腹帯が腰を巻き、股間を過ぎ、臀を割り、つっぱらかった縄の廻しを腰のまわりに下げている。しゃがむ時、これらの縄が後方へ逆立って、彼らに雄鶏か山荒しのような姿を見せてくれる。いずれのタイプの力士も、髷を戴いて、かわいらしい女性的な相貌をしている。頭の真ん中にのっかった油で固めた上向きの束ね髪、うしろは扇の形に広がって。

 『ジャン・コクトー全集 第五巻』(堀口大學訳)

~ 「もわもわ庵」さん(2010年7月25日)より拝借。
http://more-an-bow.seesaa.net/article/157440521.html