散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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読書メモ 029 『イボタの虫』 ~ 昔、私小説なるものありけり

2014-04-30 08:42:02 | 日記
2014年4月30日(水)

 4月14年(月)にKindle版をタダで購入(って、ヘンかな?)した『イボタの虫』、その週の木曜日の帰り道に溜池山王で思い出し、大岡山で読み終わった超短編。

 不思議な作品だというのは、僕がものを知らないからでもあろうが、ひとつには時代のせいでもある。ある時期にはこのほうが、日本の「小説」の通型であっただろう。いわゆる私小説というものだ。

 主人公が宿酔の中で兄に起こされる。兄は身重の妹 ー 主人公にとっては姉 ー が肺炎で危篤であることを告げる。そして自分は偶々家をあけている父に電報で急を知らせるので、お前は「イボタの虫」を買って来いと主人公に言いつける。娘の急病に動転した母親が、蜘蛛の糸ならぬイボタロウ虫の薬効に縋ろうと、必死の願いである。
 駆け出しとはいえ作家としてデビューしつつある、知識人の端くれの主人公は、内心バカバカしく腹立たしい。「イボタの虫」はそこらの薬局に当たり前にあるものではなく、あったところで効くはずがない。そんなものを探し回っているうちに、姉の死に目に遅れたらどうするのか。とはいえ母の願いと兄の指図は、無碍に拒みもできない。
 葛藤しながら薬局を経て姉の枕頭に至るまでの道筋が、ほぼありのままに描写される。小説というより日記である。谷崎潤一郎はじめ物書き仲間が実名で登場し、物語としての虚構性はどこにも見当たらない。とりたてて文体が特異なわけでもない。これが日本文学体系に収まるのなら、『散日拾遺』も立派にこれと並ぶ資格ありと思われたりする。
 だからつまらないかといえば、それが不思議に面白いのだ。本郷界隈の路面電車の風景などは、つい何度も読み返してしまう懐かしい吸引力がある。

 それで思い出した。「不思議に面白い」で思い出した。
 思い出したものの引用をもって、感想に替える。

***

 たとえば正宗白鳥(まさむね・はくちょう)の『交友録』を読むとする。するとその作品の中の岩本というのが岩野泡鳴(いわの・ほうめい)であり、K博士が河上肇であるということをすぐ推定し、そういう人物の性格と経歴を知り、かつ白鳥その人の思想傾向や経歴を知っている人でなければ、到底この作品を味わうことはできない。(中略)そういう支えや準備は読者の方で負担しなければならないのである。これが小説であろうか。これ等の作品は文学史的感想と呼ばれるのが至当ではあるまいか。(中略)そこには自惚れと気楽さと無責任と共に、尊敬すべき謙遜、遠慮という徳性さえ発揮されている。驚くべきことである。日本の現代小説を無邪気な読者に理解させるために、某々氏は実に多忙な流行作家であって、執筆多忙のため作中人物は名前のみあって描写の何もないことがあるけれども、特に説明なき限り、作中の主人公は作家自らなりと了解されたし、という断り書きを、編輯者が見出しの下に書き忘れているのは実に残念なことだ。(中略)しかし念のために言っておくが、こういう遠近法の完全な欠如のために日本の現代小説が悉く下らないかというと、そうでもないから困るのだ。白鳥の『交友録』の思想などは、まことに面白いのだ。日本の小説家に思想がないとはよく言われて来た言葉だが、私の考えはむしろ反対である。(ある種の)日本の小説には思想史しかない、と言った方がはるかに適切である。

 伊藤整『小説の方法』(新潮文庫)P.15

4月30日/既集墳典 亦聚羣英 ~ 千字文 060/『荒神』最終回

2014-04-30 06:24:34 | 日記
2014年4月30日(水)

 ヒトラー自決(1945年)の日、また南ベトナム降伏(1975年)の日だと。

 戦争が終わった後、時として戦争中よりも酷いことが起きるのは想像に難くない。
 サイゴン陥落の際、米軍は当然ながら米人と南ベトナム人の脱出を優先した。日本人や韓国人は米軍ヘリへの同乗を拒絶され、かなりの数の邦人が取り残されたという。
 「日本は米の同盟国とはいえ直接参戦していないので、日本人がベトナムに残っても迫害を受ける可能性が低い」との判断があったとされ、その理屈からしても極めて危険だったのは「国連軍」の一翼として米軍と共闘した韓国の人々だった。
 これらの人々に対する虐殺・迫害が起きなかった事実はベトナム側の徳でもあり、その後の国際関係の中でベトナムの立場を有利に保つ上で、「不作為のファインプレイ」として働いたのではないかと想像する。ソンミ村にせよ北爆にせよ、あるいは枯れ葉剤使用にせよ、報復したい理由は山ほどあり、坊主が憎ければ袈裟まで憎いのが人の心であってみれば。

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◯ 既集墳典 亦聚群英

 墳典(フンテン)は『三墳五典』(三皇五帝の事蹟を述べた書物)のことで、これをもって中国の古典全体を指す。
 英はすぐれた人、英雄・英傑の英。

 既に墳典を集め、また群英を聚(あつ)めたり。

 「三皇五帝」が誰を指すかは諸説あり、李注は「伏犠・神農・黄帝」と「少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜」を挙げる。(読み:フクギ・シンノウ・コウテイにショウコウ・センギョク・コウシン・トウギョウ・グシュン)
 秦王・政は中国全土を統一した後、自身が三皇五帝のいずれよりも尊い存在であることを誇示するため、「皇帝」という新たな称号を創出した。その始皇帝の焚書坑儒を漢代に埋め合わせ、書物や知識人が復権にあずかった表れが、今日の八文字という次第である。

***

 溜家の裏庭の森が騒ぐ。さわさわと、たおやかに枝を鳴らす。風が吹き抜けてきて。おせんを包み込む。甘やかな、ふくよかな香りの風だ。おせんの濡れた頬に、首筋に、うなじに、握りしめた指のあいだに、その香りが染みこんでくる。
 おせんははっと目を瞠(みは)り、森を仰いだ。
 ー 朱音様だ。
 この香りは、朱音様の髪の匂いだ。これは朱音様の温もりだ。なぜ気づかなかったんだろう。
 裏山の森のさらに向こう、大平良山の高みに、澄み渡る青空の下に、朱音様はいらっしゃる。これからはずっと、ずうっと。


 『千の風になって』を連想させる、そのような終わり方、なるほどな結末。いろいろな意味で、日本人の死生観の正統的な後継者なのだ、宮部みゆきという作家は。
 全403回、楽しませていただきました。思うところいろいろと、折りに触れて振り返ってみよう。

 次の連載小説は、まあいいかな。それより『こころ』の再連載企画が始まっている。この際、じっくり読み直してみよう。