散日拾遺

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「聆音察理」 補遺

2014-08-01 22:01:35 | 日記
2014年8月1日(金)

 ようやく戻って千字文、「聆音察理 鑑貌辨色」は診療に出かける朝には格好の金言で、無論これには程遠い一日でした。
 この条に、李注の付ける逸話が少々ヘンである(と僕には思える)。

 後漢の人、蔡邕(サイヨウ)が遊学から帰宅した。隣人がすぐに食事を用意して蔡邕を上座に据えた。
 一人が歓迎の琴を弾いたが、弾きながら庭の樹を見ると蝉が鳴いており、その下に一匹の蟷螂(カマキリ)がいて蝉を捕えようと近づいている。奏者は蝉を憐れみ、蟷螂を殺したいと思ったので、琴の音にも殺気がこもった。それを蔡邕が感じて、辞去しようとした。
 主人が「あなたの歓迎の宴なのに、なぜ帰ろうとするのか」と問うと、蔡邕は「琴の音に殺気が籠っておりましたので」と答えた。琴を弾いていた人は笑って、「たいそう不思議なことです、琴を爪弾く音を聞いて人の心を知るとは」と言った。
 ここに言う「音を聆(き)きて理を察す」と。
(『後漢書』巻60下、蔡邕伝)

 蟷螂が蝉を捕まえるって、街の人は見たことないだろ。僕は3回見たぜ、田舎の庭で。
 それはともかく、李注のこれはバカバカしくてお話にならない。

 庭の蟷螂に向けた小さな殺気に反応して身の危険を感じるなんて、御立派に過敏なアンテナだこと、そんなんじゃ出先で飛び上がってばっかりで使い物にならないだろ。
 だいいち、腹を空かせた蟷螂がようやく餌にありつことしているのを、何で蝉に一方的に肩入れして蟷螂を殺すかな。勝手な身びいきというものだ、御自分は豚を屠って食べませんですか?

 なんだか疲れた。
 

「汚職」のこと/聆音察理 鑑貌辨色 ~ 『千字文』 087

2014-08-01 22:01:29 | 日記
2014年8月1日(金)
 
 天声人語は概して海外の批判には慎重と見えるが、今朝は中国の汚職問題を珍しいぐらい酷評している。それも無理のない現状で、往時ならば生皮剥ぎの極刑が見られたかもしれない。とはいえ、これには深い背景があるし、あながち他人事とも言えないのだ。

○ 聆音察理 鑑貌辨色
 レイオン・サツリ カンボウ・ベンショク ということになるのかな。
 音より意味だ。

「音声を聴いて道理を察し、表情を見て心理を判断する」

 恐れ入りました、出かけてきます。

***
(続き)
 汚職問題には深い文化的背景があるだろうと思う。
 高位高官に上るには、それ相応の賂が必要であるのが当然とされる場合、いったんその地位についたものが役得によってそれを回収しようとするのは当然だし、それがまた次の賂を要求することになる。こういうサイクルがいったん成立すると、これを修正するのは難しい。また、その文化の中に育ってそれが当然となっている人々にとって、これは不都合ではあっても、さほど「汚れた」ことではないのかもしれない。
 「汚職」という言葉は日本語である。同じ事態を中国人が何と呼ぶか僕は知らないが、僕らと同じようにそれを「汚らわしい」と認識したうえで、なおそれを確信犯的に行っていると決めつけるのは早計だろうと思う。中国は知らず、文化圏によっては「修正」の必要を人々が感じていないことだってありそうだ。
 それはさておき、こういうサイクルを断とうと考える場合、皮肉なことに内外の危機が役立つということが往々にしてある。危機は乗り切るために、縁故や情実に依らず真に有能な人材を登用する必要が生じるからだ。科挙(=試験制度による公平な人材登用)は中国文明の発明であるのに、非人格化された効率的な官僚制度がヨーロッパで発達したのは、案外そんなところに原因があるのかもしれない。
 司馬遼太郎が近代ヨーロッパの優越の原因について、「ほぼ同じサイズの多数の集団が並立し、競合争覇を繰り返した結果」という即物的な解釈をしていたけれど、こういう単純な説明に案外の説得力があったりする。賄賂と猟官が当然とされる社会もそれなりの安定を達成する(というか、安定だけを考えるならそのほうが都合がよくすらある)だろうが、公平かつ能力重視の人材登用システムをもつ国に競争では勝てない。

**

 天声人語の酷評は、「日本の社会システムはそれよりずっと清潔である」という暗黙の前提に立っており、それにはさしあたり大きな異論はないけれど、「日本人が昔から一貫してそうだった」とか、「社会のあらゆる側面で清廉である」とかは言えないように思う。
 「昔から一貫して」について言うなら、幕末から明治初期に植民地化される危機に接して、そういう側面が強力に活性化された結果を僕らは見ている。その変身の速さと自在さ、また遡って能力重視の人材登用を可能にする条件のあったこと(あるいは、それを阻害する大きな障壁がなかったこと ~ カースト制のような)は、日本の文化の与件であったかもしれないけれど。

 面白いのは碁の話で(またですか)、今、国際棋戦では一に中国、二に韓国、棋道確立のうえで不滅の貢献を為した日本棋界は大きく後れを取っている。なぜ中国がそれほど強いかというと、幼児期から徹底した競争と英才教育を行っているからで、これは超の字がつく公平実力主義である。見込みのある子は学校にもろくに行かせず碁に特化するというのがガセネタでもないらしく、結果としてモノになるのがごく一握りであることを考えればほとんど人権問題であるが、「一握り」の強さは群を抜いている。
 限られた領域におけるこうした過剰な競争主義が、一般的ないわゆる「汚職」の土壌と併存し、ある意味で「相補っている」のが中国ではあるまいか。

 この種の極端は免れているとしても、なお「あながち他人事でもない」というのは、公平さを阻害する日本には日本の事情があるからだ。いろいろあげられるだろうけれど、最近個人的に気になるのは教育における格差固定である。
 東大生の家庭の平均収入が、大学別の比較で最も高いと指摘されたのは、もうずいぶん前のことで、直近の状況がどうかは分からない。ただ「東大」は象徴的なことであって、要は教育には金がかかる、塾や私立進学校に子どもをやれる家庭でないと、子どもの高学歴は望めない、従って云々という話である。
 誤解を恐れずに書くが、僕の幼年時代にはいわゆる「良い学校」は国公立に断然多く、高校で私立に進むというのは、少数の有名校を除けば公立進学に失敗したことを意味した。大学でも早慶など一流校を別にすれば似たことがあった。このことと、高校進学が必ずしもあたりまえでなかったこと(大学はなおさら)、「塾」に金をかけることが今ほど普遍化していなかったことなどを組み合わせると、
 「アタマが良いか、家に金があるか、どちらかでないと上の学校には行けない」
という図式になる。そのどちらにも該当しない多くの人々がツライ目を見たことは事実だが、逆に言えば「アタマ」か「金」かどちらかがあれば何とかなったのである。
 「うちはお金持ちじゃないんだから、ベンキョーしないと上の学校には行けないよ」
とは、多くの家庭で言われたはずのことで、アナクロの僕は気の毒な息子たちに、これに近いことを言って聞かせたものだ。
 しかし今はどうか。上記の「平均収入」云々のデータが「金がなければアタマが養えない」ということを意味するなら、「金」のない家庭に生まれ育った子供は出口なしである。
 「うちはお金持ちじゃないんだから、ベンキョーしたって上の学校には行けないよ」
 最悪だ。
 それが社会的な「層」として固定されれば最最悪だし、そういう状況での「勝ち組」が共感性や広い展望をもつことなしに「層」の再生産に励むなら最最最悪である。

 中にいる僕らには見えにくいことだが、外から見れば危ういのは中国ばかりではないかもしれない。