散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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miss と「さよなら」

2014-08-04 08:40:33 | 日記
2014年8月5日(火)
 他言語にうまく訳すことのできない、趣き深い言葉というものが日本語にたくさんあり、当然ながらあらゆる言語にあることだろうと思う。
 "miss" という英語の動詞はその好例で、辞書を引けば「・・・がない(いない)のに気づく、・・・がない(いない)のを惜しむ、・・・がない(いない)ので寂しく思う(困る)」などと説明されている。
 Webster には"to discover the absence of; to feel or perceive the want of; to mourn the loss of" などとある。
 単語をバラバラに覚えるのはひどく効率の悪いやり方で、覚えるなら例文を文脈ごと丸呑みに覚えるものだというのが、この語でよくわかる。「・・・がない(いない)のに気づく、・・・が・・・」などと、バカバカしくてやれたものではないが、それに近いことを多くの少年少女が試み、揚句に英語嫌いになるんだろう。
 旅立った恋人に "I miss you." と呼びかける。一瞬の場面で学びは完了、生涯忘れるものではない。

 『ヒステリア Hysteria』は、アメリカの女性監督が "British film" を作りたいと願って誕生した秀作で、1880年頃のロンドンの風景を、おそらくはかなり忠実に再現している点でも面白い。女性の権利意識が沸々と高まりながら、まだまだ隔ては厚く表の社会には容れられない、そのもどかしさが、いみじくも性的な事柄と重ね合わされる構が-秀逸である。
 『退屈な話』が書かれたのは1889年だが、イギリスとロシアのズレなど加味すればほぼ同時代と思われ、マイブームを刺激する。
 勝沼さんに感謝だが、惜しむらくはテーマがテーマなので家族団欒時に皆で見るには少々問題があり、ここでもあからさまには書きづらい。ただ、作品そのものはユーモアを交えつつ、至って真面目なものに仕上がっている。
 その末尾近くで、いったん婚約しながら互いに離れていこうとするカップルが、公園のベンチで向き合っている。
 エミリーが ~ 姉がシャーロット、妹がエミリー、ブロンテ姉妹と同じ命名セットなのは偶然? ~ 主人公を見つめて、
 "I shall miss you."
 万感が一言に尽くされる。
 "shall"にも痺れた。1880年代のイギリスでは、まだ単純未来の shall が会話の中で頻用されたこと、作中でも繰り返し出てきている。今なら will だが、これは残念至極な英語の現代化で、自分一身の今後について will と shall を微妙に使い分けることを、どこまでも続けてほしかったと外野の思い。
 私の意志によってでなく、私の身の自然として、私はあなたの名残を惜しむでしょう・・・

 これを日本語に訳すならどうするか。
 しばらく考えてふと思った。
 実は一言、「さよなら」で良いのだ。

***

 アン・リンドバーグ(Anne Morrow Lindbergh, 1906-2001)飛行家リンドバーグの妻であり女性飛行士の草分け、現代まで読み継がれるエッセイの書き手でもあった彼女が、日本を訪れて「さようなら(サヨナラ)」という言葉に出会った。その感動を以下のように記している。
(註: 訳文はインターネット上に現れたものをツギハギしている。仮普請なので、いずれ原典を考証することを約束する。)

 "さようなら、と この国の人々が別れに際して口にのぼせる言葉は、もともと『そうならねばならぬのなら』という意味だとそのとき私は教えられた。
 『そうならねばならぬのなら』。なんという美しいあきらめの表現だろう。
 西洋の伝統のなかでは、多かれ少なかれ、神が別れの周辺にいて人々をまもっている。英語のグッドバイは、神がなんじとともにあれ、であり、フランス語のアディユも、神のみもとでの再会を期す。
 いっぽう、この国の人々は、別れにのぞんで「そうならねばならぬのなら」と口にするのだ。"
 "『サヨナラ』は、言い過ぎもしなければ、言い足りなくもない。人生の理解すべてがその四音の内にこもっている。それ自体は何も語らない。それは、心を込めて手を握る暖かさなのだ"

 竹内整一氏がこれに寄せた解説を、中日新聞の「編集局デスク」が紹介している。

「日本人の心には、未来へ踏み出す時、立ち止まって「さようであるならば」と
過去にけじめをつける姿勢がある。」
「そこには『そうならなければならないならば』と、避けられぬ運命を受け入れる響きも込められている。」
「このように美しい言葉を私は知らない」

***

 "I shall miss you." と「さよなら」は、厳密に同義ではない。それを承知のうえで、この場を「翻訳」しようとするなら、これに尽きる。
 別れの万感がこもる一言、役割において等価なのだ。
 

殆辱近恥 林皋幸即 ~ 『千字文』 090

2014-08-04 05:30:22 | 日記
2014年8月3日(日)
 「上様の大きなお志、この秀吉が」と力みかえって、
 「引き継がさせていただきます・・・」

 ぶち壊しだ、NHKしっかりしてくれ。

***

○ 殆辱近恥 林皋幸即
 前段・後段ともに訓読がよく分からず、解説を読んでも釈然としない。
 意味としては「恥辱を受ける危険が差し迫っている時は、人里離れた林間に難を逃れるに限る」といったことらしい。
 後段については釈義も少々あやしく、李注は下記のように『太平御覧』に依って林皋(リンコウ、皋は睾の本字)を人名とするが、「林や沢」という一般名詞と解する説もあるという。

 林皋は趙の大臣で、九人の子を儲けたが、みんな賢かった。人々は「九徳の父、十徳の門」と呼んだ。趙王はそれを聞いて嫉み、殺そうと思った。そこで「庭園を巡行し、実の多くなった木を択んで切る」との勅令を発した。
 林皋の子が父にこの意味を尋ねたところ、林皋は「王は我々父子を殺そうとしているのだ」と答え、父子ともども白雲山に入って生涯出てこなかった。
 王はそれを聞いて嘆き、「賢臣とは林皋父子のことだった」と言った。

 権力をもつ者の嫉みの恐ろしさは、サウルにせよヘロデにせよ例に事欠かない。後半生の秀吉しかりである。
 趙王は「嘆いた」とあるが、仮に前非を悔いて林皋父子を赦したとしても、日ならずして嫉みはいっそう激しく再燃したことだろう。嫉みはサウルの死に至るまで止むことなく、危うく死地を逃れたダビデが次にはウリヤの妻を貪る。白雲山に自ら逼塞した林皋は実に賢明だった。

 「隣人の家を欲するなかれ」
 第十の戒めの重さを思う。