散日拾遺

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遊鵾獨運 凌摩絳霄 ~ 千字文 098/カモメとむげん

2014-08-29 06:50:23 | 日記
2014年8月29日(金)

○ 遊鵾獨運 凌摩絳霄(ユウコン・ドクウン リョウマ・コウショウ)

 鵾(コン)は鳳凰つまり想像上の霊鳥、つまりあれだ、「北冥に魚あり、其の名を鯤と為す」の鯤(コン)と同じだ。
 鳥と魚なのに同じというのは「鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬(ホウ)と為す。鵬の背(そびら)、其の幾千里なるかを知らず」(荘子・逍遥遊篇)とあるように、「鵾=鯤=鵬」だからだ。大鵬、白鵬のネーミングは真に気宇壮大で素晴らしい。大鵬こと納谷幸喜さん自身は、師匠からこの名を示された時「ヘンな名前だな」と思ったそうだ。
 運はここでは「飛び回る」というほどの意味で、「運動」という語もそれで頷かれる。
 凌は「しのぐ」こと、摩は「ちかづく」ことで、「越えるがごとく近づく」の意だそうだが、どんなのかな。浦河から戻ったばかりなので、馬だのクマだのが囲いの中から「越えるがごとく柵に向かって近づいてくる」おっかない場面が浮かんでしまう。
 そんな狭小な話ではなく、絳霄つまり紅(絳)の大空(霄)を「飛び越えるような勢いで迫る」というのである。

 悠々と遊ぶ鳳凰は独り飛び回り、紅の大空へこれを飛び越える勢いで迫っていく・・・
 
 遊鵾の姿がまことに雄渾、と洒落てみた。

***

 鳥と言えば、浦河でカモメを見た。
 往路のバスで僕は通路の左側、つまり東へ向かうバスの山側の席に座り、原生林や牧場などをうっとり眺めていた。やがて川が現れ、その中州に大勢のカモメが羽を休めているのを見て、おやと思った。右側を振り返り、ディレクターSさん越しに窓外を見て、はじめて大海原がそこに広がっているのに気づいた。
 なぜか浮かんだ詩編の言葉、連想として正しいかどうかはさておいて。

 われいずこにゆきて御霊を離れんや/いずこにゆきて御前をのがれんや
 天にのぼろうとも、汝かしこにいまし/陰府(よみ)に床をもうくるとも、汝かしこにいます
 曙の翼を駆って海の果てに行き着こうとも/かしこにて御手われを導き
 右の御手をもってわれを保ちたまわん
(詩編 139)

 ・・・そうか、ここにも鳥のシンボル ~ 曙の翼が登場するのだ。
 絳霄を凌摩するとも、なお御前を逃れはしない。不謹慎かな、孫悟空が御釈迦様の掌の中から飛び出せなかったのと並べたら。

 ジョルダノ・ブルーノが火あぶりにされたのは、地動説が原因ではなく「宇宙の無限」を主張したからだと読んだことがある。無限は造物主のみの属性であって、被造物である宇宙の側にこれを求めるのが瀆神とされたのだ。考えるヒントがここにもある。遊鵾が絳霄をまんまと飛び越えた時、そこに何を見たのだろう?古代の中国人はどう考えていたんだろうか?
 「無限の外側」を考えようとすると狂気に囚われそうで、いつでも胸をかきむしられるような不安があった。それは、神の領域に踏み込もうとする者への、内側からの警鐘だったのかもしれない。
 カモメの話は後で追加しよう。ちなみに同行のSディレクターは、「むげん企画」の所属である。「夢幻」ではなく「∞」だそうだ。