散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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この夏のポポ ~ 黙示録、身代わり地蔵、魂のこと

2014-08-31 08:08:36 | 日記
2014年8月30日(土)

 「手張りとかもやってたみたいで、お金の苦労がしょっちゅうで、借金取りが押しかけてきたりして・・・」
 確かに「手張り」と聞こえたように思ったんだが、意味が分からぬまま面接を進めた。障子なんかを手で張るという以外に、そんな言葉があるのかどうか。
 帰って国語辞典を見てみれば、ちゃんとあるのだ。
 「勝負後に金を支払う条件で、ばくちを張ること」
 それで分かった。
 非常に危険な張り方であることは、僕にもわかる。頭に血が昇ると、懐に金もないのに「勝つんだから金は要らない」が当人の現実になるだろう。この状態の博徒からむしるのは、その道の人間ならいともたやすいことに違いない。
 今でも現に、あるのだ。

***

 Yさんはポポと二人三脚で、苦手な夏をどうやら越えつつある。(「手張り」の話は、たまたま思い出したから書いただけで、Yさんとは全く関係ない。)
 ポポも高齢で、夏は決して楽ではないのだそうだ。しんどそうなポポが、どうかすると涙の跡を目の周りに残していたりするのを、Yさんが優しく丁寧に拭うのが日課だそうである。
 胸のあたりが温かくうずく風景であるが、そこには目に見える以上の深まりがある。
 Yさんがポポの涙を拭う時、主がまたYさんの涙を拭っていてくださる、そんなふうに僕には思われるのだ。

 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録 21:3-4)
 
 いわゆる「身代わり地蔵」とか「身代わり観音」とかは全国に多くあるのだと思うが、首都圏のある寺院のそれについて調べた時、面白いことを知った。治癒を願う者は、御本尊の体の、自分が不調をきたしているのと同じ部分を、心を込めてなでさすることを求められている。そのようにして願いが伝わり、癒しが起きるのである。
 これと同じカラクリが心理臨床にも働いているのではないかと考え、駄文を桜美林の紀要に載せたことがあった。「共感」の能動的側面と言ってもよい。苦痛の中で癒しの手を伸べる者こそが、豊かに癒しを与えられる、そんなことではないだろうか。

 ちょうど次男が『動物に魂はあるか』という本を読んでいる。アリストテレス以来、デカルト経由の大問題を、今日の視点から論じたものであるらしい。
 ありやなしやを知的に論じることは、もちろん「あり」だろうけれど、今これを聞いて僕が思うのはポポのことである。家族の一員として労苦を共にし、不和があればそれを敏感に察知して調停の役さえ果たし、Yさんと癒しのループをつくり出すこの生き物に、魂が「ない」とは言えそうにない。少なくともYさん一家は、この一羽のウサギの中にはっきりと魂を感じている。
 実体としてあるかないかというよりも、それをあらしめ、あるいは否認する心理に注目した方が、現実には実り多いかもしれない。否認の心理が全開になるのが、戦場というところであろう。

訃報:龍虎

2014-08-31 07:30:52 | 日記
2014年8月30日(土)
 昨29日(金)、龍虎が亡くなった。
 現役時代は小結が最高位(1970年の春・夏・九州場所、1975年初場所)で、殊勲賞2回、敢闘賞3回、やんちゃ坊主みたいな親しみのある人気力士で、引退後はタレントとして活躍した。このあたりから、相撲取りという存在がこちら側に近づいてきた感じがする。
 相撲取りは概して短命である。肥満という点ではさほどでもなく健康体と思われた魁傑も、先ごろ66歳で亡くなった。龍虎の73歳は奇しくも大鵬さんと同年で、角界の人としては天寿を全うした組に入るかもしれない。
 家族旅行中に心筋梗塞で倒れたとのこと、御家族の胸中が察せられるが、みとってもらえた本人は嬉しくもあったろう。
 合掌

【追記】
 Wiki の記載で確認して、もう少し情報を付け足さなければ申し訳ない人であることに気づいた。
 ケガに負けずに幕下から小結まで戻ったのは、ものすごく立派なことだ。大関陥落・再昇進を果たした魁傑のことを今年ブログに書いたが、こうしてみると長く記憶に残るのがどういう人物であるか、よくわかる。最初の金星は「大鵬さんから」だったんだね。

 東京都大田区出身。都立大森高校を中退して花籠部屋に入る。
 新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げた(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっている)が新三役に昇進できず、翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗したが、その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持していた。ようやく1970年3月場所新三役(小結)。突っ張りを交えた気風のよい相撲振りと美男力士として人気を博し1970年9月場所、前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げた。
 しかし、翌1971年11月場所6日目に前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して3場所連続全休で幕下まで落ちた。このケガが1972年1月場所より公傷制度が設けられるきっかけとなったが(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎自身には適用されなかったため、世間の同情を集めた。
 しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、1973年7月場所に再入幕する。その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。1975年1月場所で小結となり三役にカムバックした(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。
 ところが、1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、その場所限りで現役引退。引退後は年寄放駒を襲名するも1977年に廃業し、タレントに転向した。
 放駒親方時代の1976年から映画やドラマに出演していた龍虎は、相撲協会退職後、四股名の龍虎をそのまま芸名とし、本格的に芸能界に進出。テレビ、時代劇などで活躍していた。また、『料理天国』(TBS系列)の名物試食人として活躍。「おいしいですね」の一言はそのまま龍虎のキャッチフレーズともなっている。以降、舞台(北島三郎公演)などを中心に俳優として活躍していた。また、大相撲のご意見番としてテレビ朝日のワイドショーを中心に出演していた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%99%8E%E5%8B%A2%E6%9C%8B)