散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

命名の由来

2014-08-02 18:57:18 | 日記
2014年8月2日(土)

> コメント: 散日拾遺の意味

> 先生のブログをRSSリーダーに登録して
> 毎回,拝読している者です。

> 時々思うのですが,「散日拾遺」は,どういう意味なのでしょうか。

> 「日々の出来事で印象に残ったものを書いておく」
> みたいな意味ということで,よろしいのでしょうか。
> お教え頂けると幸いです。

「ぐうたら三昧」さま
コメントありがとうございます。
はい、おっしゃる通りです。

ブログに名前をつける時、初め「日々録」とか「日々雑感」とか平凡に考えたら、同名の既存サイトがたくさん出てきて弁別できなくなっちゃったんです。

なので、その沿線で少しだけ捻ったものをと考えまして。
日の字を一つ足して「日日日録」にすれば弁別はできるでしょうが、ちょっとあんまりバカみたい。
「日」が三つになったから「三日録」?これじゃ始める前から三日坊主みたいだよ。
そうか、「三」を「散」に変えれば、「その日とりちらかしたものを、かき集めて記録しておく」感じが出るかなと。
「取り散らかしたものをかき集める」ことを「拾遺」といえばカッコよさげで、私、『宇治拾遺物語』の大ファンだったりするところから、めでたく「散日拾遺」に落ち着きました。

というわけで、引き続きよろしくお願いいたします。
(ぐうたら三昧さんは、きっとあの人だ・・・)

散日拾遺 亭主敬白

「ありのまま」でいいか悪いか?

2014-08-02 17:34:24 | 日記
2014年8月2日(金)
自由連想の達人、Oさんが今日もやってきて、新聞の切り抜きコピーを渡してくれた。

 日本中が熱唱「レリゴー」

超・評判の『アナと雪の女王』の主題歌のことだ。

 「読んで、どう感じましたか?」と定番の質問。
Oさん、ニヤニヤ笑っている。案の定、「若干、抵抗がある」というのである。

 「現に熱狂してる人たちをクサす意味じゃないんですよ、あくまで私の感じ方は、ということなんですけど」
と慎重に前置きして、
 「『ありのままの自分』っていうのは、見方を変えれば『わがまま』ってことにもなりますから」

わがままな自分と向き合い、これと格闘してきたOさんにとって、「ありのままの自分を認める」ことは別段嬉しくもなく解放でもない。逆にいえばこうして熱狂する多くの人は、自分とはまったく違った悩みを悩んでいるのだろう、「ありのままの自分」を認めることができず、そうではない何かになろうとして無理を重ねてきているから、それでこれほど反響があるのだろうと。

以上、てきぱきと答えるが早いか、
 「先生は、どう思われますか?」
と突っ込んできた。イタズラ目をして笑っている。これが聞きたかったのだ、Oさんは。
精神分析的な定式では「答えない」のがイロハのイ、「私の意見は・・・」などとやるとスーパービジョンでたちまち教育的指導である。でも、そうじゃないんだもんね、ここは。
 「私はですね」と、思わず身を乗り出した。
といっても別に奇抜な意見があるわけではなし、だいいち、まだ見ていない。
そう断ったうえで私の予断と偏見は・・・
 「概ねOさんと同感です。」
な~んだ、それだけ?とOさんは物足りなさそうだが、これはこれだけですね~。

言いがかりをつけようと思えば、「ありのままの自分」がどんな醜い不完全なものかって、考えたことないですか?それを経由しないって、ずいぶんペラい「ありのまま」だこと、とか何とか云えもするだろうが、それは野暮というもので。
記事に「抑圧された感情」とか「自己肯定感の低さ」とか書いてある通り、情緒レベルの問題なのだ、たぶん。
ただ、「私たち30代は就職難で仕事選びに妥協し社会人になった。だから『自分らしさ』に強いあこがれをいだきつつ、それを貫けない」とかあるのは、やや首を傾げるかな。
「仕事選びに妥協を強いられつつ社会人になる」のって、いつでもどこでも「フツー」だったと思いますよ、内田樹先生ではないけれど。

***

 実はOさんがこれを持ち出したのには伏線がある。前の回に、まさしく「このままではいけない」かどうかがテーマになったのである。
 その時の面接でOさん(と僕)が見出した「解」というのが、「現状そのままで良いはずはないが、現状を改善しようと努力を尽くしている今のあり方はそれで良い」というものだった。
 「今のままではいけないけれど、今のあなたはそれで良い」・・・禅問答みたい?そうでもないでしょう。
 これは面接の中で、違う人々の口から繰り返し出てきた「解」だったように記憶する。
 「理想の固定状態」はないが、「理想的な運動様式」はある、魂の永久革命論とでもいうようなものだ。
 患者さんたちは、実に真剣である。
 
 

Every Friday is a good Friday

2014-08-02 12:29:22 | 日記
2014年8月2日(土)
 キリストが十字架にかかった日とされる受難節の金曜日、いわゆる聖金曜日を、英語では Good Friday という。(Good である。決して「不吉な」金曜日ではない。)
 それを踏まえて、アメリカのラボでは技官たちが
 "Every Friday is a good Friday, actually."
 などと笑っていた。もちろん、ウィークエンドを前にしたハナ金(すでに死語らしい)の楽しさを言ったのである。
 金曜日を診療にあてるようになってから、僕にとっても毎週が Good Friday になっている。事の性質上、おいそれとブログに書けないのが残念だけれど。

***

 人の足の形に三つあるんだと。第1趾が第2趾より長いのがエジプト型、逆に第2趾が第1趾より長いのがギリシア型、ほぼ同長なのがポリネシア型だそうだ。いろんなことがあるものだ。僕はどうやらギリシア型で、それが日本人として珍しいことなのかどうか分からない。
 そういえば、日本人は手も足も「ゆび(指/趾)」と呼ぶけれど、英語人は足の趾を finger とは呼ばず、 toe という。手足あわせて僕らは20本の「ゆび」をもつが、彼らは10本の fingers しかもたないわけだ。
 ついでに言うなら、日本では人も猫もヒゲを生やすけれど、英米のネコは whisker をもつ。うっかり、ラットの beard がどうしたとか言ったら、こちらがタマゲるぐらい笑われた。
 7月11日朝の学びと回想である。

***

 昨夏に召された教友 ~ 年齢は両親に近く、敬愛する先輩と言った方が良いけれど、この方の思い出を御家族と話すことがあった。
 「昨夏の、暑い日でしたね。そういえばこの夏は、いわゆる新盆ですか、教会でお盆も妙ですけれど。」
 そう言ったら、相手がしばらく考えるようなしぐさをした。
 「やっぱり妙なんでしょうか」と微笑している。

 ここは家族全員が入信しており、人一倍忠実に教会生活を送ってきた人々だから、そういう意味でのブレは全くないのである。けれどもその先輩が、たとえば早起きして昇ってくる太陽に向かって祈るようなところがあったと、初めて知って驚いた。
 これを不徹底とか矛盾とか難ずる見方があるだろうか、僕にはそうは思えないのである。何も太陽を拝んでいるのではあるまい。前にも書いたように、なべて地上の生命エネルギーの源である太陽は被造物の中にあって別格の存在であり、それを「善人のうえにも悪人のうえにも等しく昇らせる」(マタイ5:45)神慮をも象徴している。
 これをしも創られた神を思いつつ太陽に祈るということは、いったい異教的だろうか。
 つでながらこの御家庭では、迎え火もすれば送り火もするのだという。
 素敵な人々だと思う。

***

 知り合いの子どもが友達の家で雨にあい、傘を貸してもらった。さして帰った傘を干しておこうとしたら。子どもがその必要はないと言い張った。
 「これ、濡れない傘なんだよ、ちいちゃんのお母さんが、濡れない傘貸してあげる、っていったもん。」
 「濡れないように」貸してくれた傘が「濡れないような」傘に化けたのだろうけれど、子どもの気持ちが可愛いと、Aさんが目を潤ませて笑っている。
 「天の国はこのような者たちのものである」(マタイ19:14)とは、このことだったろうか。

***
 
 精神科の診療は概して長期にわたり、どうかすると半生のつきあいになったりする。もっとも、地域で開業したりすれば何科でも同じことで、精神科に限った話ではない。科を問わず地域臨床の醍醐味というべきかもしれない。精神科は内心の問題におおっぴらに立ち会う資格を与えられることだけが、少々特殊である。
 ある女性が独身時代にちょっとした症状を抱え、年に1~2回来院して薬の処方を受けたりしていた。この人が嬉しそうにやってきて、結婚すると報告したのはもう5~6年も前のことである。症状というのが不安の範疇のものだったから、結婚すればいずれ通院も必要なくなるかもしれない。その意味でもおめでたいことと、こちらも心から喜んだ。以前は細身であったのが少しずつ様子が変わり、いかにも幸せそうなどっしりした奥さんになっていた。
 その後も通院終結には至っていなかったが、今回ずいぶん久々に姿を現したと思ったら、
 「離婚しました・・・」
 彼女の側は、最後まで望まぬ選択肢だったという。
 しばらくは喪の作業、失われた結婚生活のお弔いである。

end to end ~ 上達の瞬間

2014-08-02 12:11:39 | 日記
2014年8月2日(土)
 自慢話ではない、これからのヒントを掴みたいために、ある時の経験をことさら書き留めておく。

 医学部へ行き直そうとして4~5年ぶりの受験勉強に取り組んだ時、英語ができるようになっているのに驚いた。最初の受験の時は、カシコイ人々の中ではまず並みといったところ、それが今度はずいぶん点が取れるようになっている。
 最初の大学で特に英語に励んだわけでもないから不思議だったが、どうやら長めの文章を与えられた時、そこに何が書いてある「はず」かというヨミが、以前よりも少し確かになったようなのである。
 司馬遼太郎『竜馬がゆく』の中で、オランダ語の塾に出ていつも鼻クソをほじっているばかりの竜馬が、ある時「今の訳は違う」と講師に難癖をつける場面がある。オランダ語は少しも学ばぬ代わり、毎回の講釈を聞いているうちにそこで論じられる政治制度だか何だかについて、彼なりの一定のイメージが浮かぶようになった。そのイメージに合致しない訳を講師が述べた時に、「今のところは違う(はずだ)」と反応したのだ。
 これだと思う。
 今、学生に英文を読ませてみて、この種のイメージ形成の巧拙が読解の能力を決定的に左右することに気づく。よく読める者は、書かれている主題に関する仮説を早い段階でもち、それに沿って次を予測しながら読んでいく。意味の分からない単語に出会うと、「文脈から考えてこの語はこういう意味をもつはずだ」と推理し、それから辞書をひいて予測を確認ないし修正する。このやり方で使えば、辞書の価値もまた一段と高まるカラクリである。
 洋書をせっせと読んだわけではないが、むやみの濫読を大学でも続けたおかげか、イメージを描いて内容を予測することが少しは上達したらしい。ただし、こうした予測に裏づけを与えるのは細部に関する正確な理解で、竜馬流だけだと思いがけない「決めオチ」に陥る危険がある。

 ある時の英文和訳問題である。
 「一つのコロニーを形成するバクテリアの数は天文学的なもので、これを一列に並べると地球の周りを何周かする」といったような、いかにもありそうで面白い内容が出題された。
 その中に end to end というフレーズが出てくるのを、まずは「(一直線に並べたバクテリアたちの)端から端まで」と訳してできた気になっていたが、何だか落ち着かない。
 落ち着かない理由を思いめぐらすうちに、「端から端まで」なら from end to end とか何とかなるはずで、from 抜きの end to end はおかしいだろうと考える。さらに、その意味だったら from one end to the other となるから、これはまったくおかしいのだとようやく気づく。
 で、初めて思い当たった。これ、face to face、nose to tail、hand in hand などと同型の end to end、つまり「(ひとつひとつのバクテリアの)端と端を合わせて」の意味なのである。後で訊いたら、周りはほとんど全員「端から端まで」とやっていた。
 急いで付記するが、「自慢にもならない」というのはここのところである。たとえばH君のような本当の英語通なら、はじめっから「端から端まで」なんてスジの悪い訳は浮かびもしない。僕はそこまでできはしないが、何だかしっくり来ないところを誤魔化さずに考えたら、出口が見えた。鈍物にも悟りあり、このあたりから外国語を読むコツをわずかに掴んだような感じがしている。
 
 碁については(またか!)、たぶんこの部分がクリアできていない。局部的なヨミの裏づけが乏しく、イメージと希望的観測で打つから接近戦で足をすくわれる。「攻防究精(攻防は精を究む)」と囲碁十訓の五にあるのが耳に痛い。他のことも同じで、イメージを活用した大きな展望と、精緻な論理的裏づけは、いつだって不可欠の一対なのである。

 「立国は私なり」を「愛国心は国民の義務」などと読み替えて平然としている人々には、どだい関わりのない話。

コメント感謝/ゼミ伝説? ~ 生めよ増えよ、地に満ちよ

2014-08-02 10:13:31 | 日記
2014年8月2日(土)

> 私だけではなかった!!
> (福池 久恵)
> 2014-08-01 21:10:51

> 石丸先生ご無沙汰しております。
> といいましても私の方は先生のブログを拝見させて頂いておりますので
> 何となく先生の身近にいる感覚ですが。

> 先生のブログが超難解に感じていました。
> 読むに値しない読解力だと…
> 「私だけではなかった!!」と、ちょっと安心しています。

> どうしてもこのことを伝えたくて、コメントしてしまいました。
> 静かなる読者でいる予定でしたが。
> それでは失礼いたします!


 福池さん、コメントありがとうございます。
 う~ん、チョー難解・・・ですか、それって書き手の側の問題ですよね、う~ん・・・

 まあ、自分の書けるように書くしかないので、どうぞ大目に見てやってくださいませ。
 それより福池さん、ずっとフォローしてくださってありがとう。ちょっと相当、感激してます。

 この場で御紹介しましょう。福池久恵さんは大阪の歯科衛生士さん、2013年度に私のもとで卒業研究を履修した個性派6人の一人です。昨年は下記のテキストも上梓され、引き続き御活躍中です。以後よろしくお見知りおきください。


『写真でよくわかる正確なシャープニング安全なスケーラー操作
― 教えて!先輩のチエとワザ! 』

 そういえば福池さん、今年のゼミ生は8人全員女性ってこと、お話ししましたよね?
そのうちの2人が年度内に出産予定だったんですが、つい最近3人めが御懐妊と判明しました。なんという高率!
 この分だと、「石丸ゼミを履修すると子宝に恵まれる」なんて都市伝説が生まれ、ゼミがわんさか盛況になるかも。(それともドン引きされるか・・・)
 私、思うんですが、これって福池さんのゼミ仲間だったカリスマ助産師Mさん(実名を明かしたい!)のオーラではないでしょうか?
 文京SCの教室の床に、新聞紙をちぎって山のように積み上げ、その中で代わる代わる胎児役になって「出産体験ワークショップ」なんてやりましたよね。あの時と同じ講義室3で、今年度も毎月ゼミをやってるんです。きっとそうに違いありません。
 
 Mさん、これを読んだら実名でコメントください。あなたが某誌に連載中のエッセイの宣伝もできますよ!