散日拾遺

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兩疏見機 解組誰逼 ~ 千字文 090/「責任」の向かうところ

2014-08-10 08:32:14 | 日記
2014年8月10日(日)
 台風11号は早朝に高知県安芸市付近に上陸し、時速15kmの超低速で北上中。台風の移動速度は、何によってこんなに左右されるんだろう?
 早々に松山へ移動の予定だったが、暴風雨が近畿一帯を覆い、淡路・鳴門も瀬戸大橋も通行止め。しまなみ海道は開いているが、そこまでの道が剣呑なので、しばらく日和を待つことにした。

○ 兩疏見機 解組誰逼(リョウソ・ケンキ カイソ・スイヒツ、となるのかな)
 両疏は二人の疏、疏広(ソコウ)と疏受(ソジュ)で、両者は父子あるいは叔父・甥の間柄。ともに前漢の武帝に仕えたが、機を見て同時に辞職したという。
 解組は「組みひも(印綬)」を解くことから、公的な権限を返上し職を辞するの意。その決断を「誰が責めるだろうか」と結句。逼塞(ヒッソク)の「逼」の字には、「詰問する」意味がある。

 「足るを知れば殆(あや)うからず、以て長久なるべし」
 「功成り名遂げて身退くは天の道なり」

 いずれも『老子』の教えを語り交わし、病気と称して帰郷のうえ、天子から下賜された黄金を故郷の人々の分け与えたという。

 この種の物語に見る古代中国人は、実に懐深く魅力的である。ただ、そうした「達人」らがこうした理由で政務を放擲するのは、国家社会の損失ではないかというみみっちい小市民的発想が、僕などはどうしても払拭できない。天道を語りつつ、実は勝ち組の処世訓に過ぎないのではないか。出世した人がどこまでも貪欲である ~ 秀吉のように ~ よりは、ずっとマシに違いないけれど。
 そうか、要するに「責任」の問題が抜けていると感じるのだ。人に対する、社会に対する、天に対する、小さな自分の小さな責任、それを古人はどう考えたのか・・・

***

 笹井氏は、僕と同じ年に医学部に入った。彼の卒業した高校は、僕が東京に移らなければ通ったはずの学校である。分かってみればそんな近さに存在していたのだ。
 もっとも面識があったわけではなく、世界に知られた俊英の彼は「雲の上」に所属をもつ異界人だった。
 そういう人物の悲報に接して、ここぞとばかり死者を鞭打つつもりは皆目ない。心理学的剖検法などの告げる通り、その時点では精神的変調をきたしていた蓋然性も高く、詰問よりも援助が緊急に必要な状態だったかもしれないのである。

 ただ、彼のことではなく、一般論として自死と責任の関連を考えずにいられない。端的に言えば、松本清張の世界で当たり前のように起きる「引責自殺」のことである。(清張ワールドのそれは、厳密には「引責」ではなく「しがらみ」自殺かもしれないが。)
 「それって引責辞職と同根だよね」と次男。確かにそうなんだが、いっそう深刻であるというのは、事件の核心に関わる人間 ~ しばしば真相を知る唯一の人間でもある ~ の自死は、真相解明を永久に不可能にするからだ。真相を知る人間は、現場から逃げてはいけない。「この世」という現場に存在し続けることが、すべての責任に先立つ(あるいは、あらゆる責任を可能にする)大前提だもの。
 せめて真相を明らかにするという作業において、故人には小保方氏のよき superviser であってほしかった。天才的な生命科学研究者であった笹井氏が、正しい責任の取り方を世に示す機会を逸したことを深く惜しむ。

 一般論として考えるなら、これは死生観の問題であり、死生学のテーマでもある。
 このテーマに固執することが、また別の責任をそこに生み出すことになる。