散日拾遺

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赤ん坊の泣き声/アレルギー

2014-08-06 23:43:32 | 日記
2014年8月6日(水)
 1週間ほど前だったか、朝の通勤電車の中でどこから赤ん坊の泣き声がした。
 赤ちゃんも親御さんも、朝から御苦労さんなことである。思わず苦笑する僕の前で、髪を短く刈り込んだ40がらみの男性が、いまいましげに顔をしかめた。
 赤ちゃんがもう一声あげると、男性は握った拳でドアをゴツンと叩いた。憎々しげに、歯ぎしりする表情が見える。心底、腹立たしそうである。
 次の駅で男性は降りていき、赤ちゃんの声もほどなく止んだ。
 南の島や北の大陸で、泣き声を敵に聞きつけられるからと周囲が責めたて、赤ん坊がしばしば「黙らされた」ことを僕らは聞いている。同胞こそが最も仮借ない敵になる状況のあることなど、電車に揺られながらぼんやり考えた。
 何が、あの男性をあんなにも刺激したのか、よくわからない。

***

 日曜日は教会の後、ケニアから里帰り中のドクターKと、ランチで歓談。

 帰宅して、録っておいた囲碁番組をみようとテレビをつけたら、ちょうど『かたりべさん』をやっていた。青年の軽薄さがあまりに強調され過ぎ、作り物らしく見えてしまうが、修学旅行の中学生が語り部さんに私語を注意されて「死にぞこない」と悪態つく時代であれば、これが案外リアルなんだろうか。
 中村嘉葎雄 ~ エンドロールを見るまでそうとは分からなかった ~ の好演に引き込まれ、ついつい見てしまった。
 最後はやや冗長に感じる。
 「アラキさんはアメリカを憎んで亡くなったかもしれないが、若い僕らは少し違った見方ができるはずだ。人類が人類にしたこととして、それを受け止め伝えていきたい。」
 一皮むけた青年のスピーチは御立派であるけれど、そのようにきれいに成形されるプロセスの中で、何かがこぼれおちて棘を失っていく。原爆メッセージのきわだった特質は、理解や受容をどこまでも拒絶するやりきれなさではなかったか。
 父・長兄・次兄は次々に戦死し、母は爆風で倒壊した家の下敷きになった。ひとりだけ残った妹の死をみとった少年の耳に、石油をかけられて燃えあがる遺体群の中から子どもの声が聞こえてくる。幻に違いない、しかしアラキさんには生涯にわたって現実であった声。
 アラキさんが服の中に頭をうずめてしまう。
 「子どもの声が聞こえると、街中で、そこらで、子どもの声が聞こえると、かなわん、かなわん・・・」
 電車の男性、よもやアラキさんではなかったのだろうが、あれは憎しみではなく、悲しみの表現であったのかもしれない。

***

 吉永小百合さんが、「日本人だけはいつまでも『核アレルギー』をもち続けてほしい」と語っている。
 同感だ。つやつやと健康であることが、常に正しいとは限らない。

 広島は今朝は雨模様で、ビニールの上衣を羽織っての出席が目立っていた。
 首相は「非核三原則堅持」を明言したが、「持ち込ませず」は過去において既に破られている可能性が小さくない。
 昨年に続き、憲法の平和主義に関しては何の言及もなかった。この点に関しては首尾一貫しているようである。