散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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金曜の夜 ~ 鱧(はも)を囲んで旧交を温める

2014-09-23 12:19:13 | 日記
2014年9月19日(金)
 診療を終え、四谷の鱧(はも)の店で会食。
 幹事役はいつものT君、新聞社のO君と僕は常連として、今日は役所へ行ったS君が加わる。彼も昭和50年入学ドイツ語7組、関楠生先生にドイツ語の手ほどきを受けた一人だ。同級生は何人いたんだろう、50名は下らない大所帯だったから、気の合う中小のグループに自ずと分かれていく。そのように親しくなった友人たちを僕の側から数える時、3人とも決して欠かすことのできない仲間だったし、お互いにそうだったのだろう。S君は役所勤めで海外も長く、何となく疎遠になって気がつけば30年以上経っていた。
 あの春、全国から集まってきた若者たちと知り合うのが、無性に嬉しかった。殊に、転勤族の息子として、嘗て自分が住んだ土地の出身者は懐かしかった。当時は個人情報などという言葉もなく、上級生らの配慮だろうか、生年月日・出身地・出身高校などが漏れなく記載されたガリ版刷りの名簿が配られ、それを頼りにせっせと声をかけて回ったものである。不思議なもので、そうして挨拶した前橋や山形の出身者とは、その後たいして親しくもならなかった。(松江出身者は、僕らのクラスにはたぶんいなかった。)当たり前だが、人の相性は出身地だけで決まりはしない。T君は北海道、S君は栃木の足利、O君は地元東京だが、父方の御先祖が僕と同じ愛媛、そんな風に友達の来歴を指折り数えていると、それだけで自分が何倍か大きくなったような気がした。

 逸話満載のその後の4年間はまたの話にして、卒業後のことである。O君やS君は大多数の友人同様、卒業と同時に就職した。T君は司法試験準備のため故意に卒業を延期し、これまた志を共有する友人たちと勉強に励んでいた。僕は同じく受験といっても双六を5コマ下がって出直しで、感じるところはいろいろありつつ、気楽で子供っぽい立場である。
 大人の階段を一つ上った友人たちは、それぞれの就職先で新たな交際が開けていくわけだが、僕がヒマなので折に触れて声をかけてくれる。のんきな立場から彼らを見ていると、その変化が鮮やかに見て取れた。役所へ行ったものは役人に、銀行へ就職したものは銀行マンに、新聞社へ勤めたものはブン屋さんに、それぞれ急激に変わっていくのである。
 当たり前?そうなんだろうね。しかし、それはこれほどにも当たり前なんだろうか。AとかKとかWとか、それぞれの個性を知り、そういう彼だからこそ親しくなった友人たちが、みるみる職業の色に染まっていくのが何だか口惜しかった。言葉遣いや口の利き方をはじめ、居ずまいや表情の作り方まで、会うたび確実に変わっていく。頭の中でも、同様の変化が進行中だろう。ただのAやKではない、役人のA、商社マンのKに変貌し、それが続けば「役人」や「商社マン」という属性が優勢になって、AだのKだのの個性は単なる付属品か脚注に切り下げられていくように思われた。いずれ医者になる時、自分ばかりはそうはなるものかと、力みかえったりもしたものだ。
 むろん、人間そう簡単ではない。就職当初、マジメに仕事に取り組もうと思えば、そうした変化が生じるのはまさしく「当たり前」のこと、人の真価が問われるのはその後である。O君にせよT君にせよ、与えられたものと懸命に取り組んで、やがてはそれを自分の中に取り込み消化吸収していく逞しさを、その後じっくり見せてくれた。
 S君はどうだったろう、どうなっているのだろう。それが楽しみでもあり、怖くもあった。

***

 S君はS君、変わってはいなかった。あるいは、変化を乗り越えてちゃんと自分を保っていた。
 「なるほどそうか、だからそういう層にしっかり課税しないといけない。日本のシステムのおかげで巨利を博した者が、税金逃れのために海外に資産を移すような卑怯なまねを許したらいけない。特に相続だ、王朝の継承を許すのは大きな不正じゃないか。」
 思わず笑った。それって、35年前に渋谷のパブで僕を相手に熱っぽく説いた、君の持論そのものだよね。まるで先週聞いた話みたいだよ。

 人は変わらないものだ。あるいは、変わらない者同士がこうして交わり続けるのだ。あるいは、あるいは、こうした交わりに支えられて、変わらぬ自分を保つのだ。
 もうひとつ、子は親の鏡であることが、友人たちを見ているとよくよくわかる。それぞれの膝下から出た若者たちの逞しいこと、そして何と親に似ていること!
 彼らを戦場に送らずに済む幸いを、今夜もまた思う。