2014年9月16日(火)
ああ、清々しい朝だ。
「烏(カラス)」という字は、何でこういう作りなのか。先週はじめて教わった。
「鳥(トリ)」はもともと象形文字である。件の横棒はトリの目をデフォルメしたもので、カラスは黒い羽に黒い目だから、遠目にはどこが目だか分からない。それで横棒一本が省略されたのだと。
何とまあ、これが漢字の素晴らしさだ。写実とユーモアが緻密な体系の中に、ちゃんと場を得ている。漢字を知らない国に生まれなくて、本当に良かった。
そうとも知らず、アメリカでたまたま出会った日本での宣教経験をもつという牧師は、「カナで全部書けるのに、何であんな複雑で膨大な漢字なんてものを使い続けるのか」と呆れ顔で訊いたものだ。その程度の異文化理解だから、宣教が進まないんだよ。ああそれなのに、韓国よ、君も漢字を捨てるのか。知らないぞ、一度捨てたらもう二度と戻らないんだから。
漢字ではない、カラスの話。
実はこの生き物は、聖書の中でかなり重要な役割を演じている。三つ例を挙げよう。
① まずは創世記、洪水が引き始めた時、ノアが最初に放った鳥は?
ハトではない、カラスなのだ。
四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。
彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
(創世記 8:7-12)
ほらね、ほんとでしょ?
分からないのはノアの魂胆で、なぜ最初がカラス、次がハトなのか。
カラスが出たり入ったりしたのは、まだそこらじゅうが一面の水だったからで、カラスの落ち度ではない。なぜ二度目からカラスは出番がもらえなかったのか。
② カラスの大事な役割、その二。カラスは荒野でエリヤを養っている。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
(列王記上 17:1-6)
なんてお利巧なんだろう。こんな気苦労と体力の要る仕事はハトにはできない、カラスでないと。
③ その三はオマケ、例の「野の花、空の鳥」だ。マタイでは鳥とあるところ、ルカはカラスである。ルカは美文家だというが、一面リアリストでもあるんだよ。根がお医者だからね。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
(ルカ 12:22-23)
最後の部分、するりと「鳥」に言い換えられ、いかにも存在感が薄い。
「へえへえ、どうせわしらは価値がありませんよ」とカラス旦那のヘソを曲げる表情が目に見えるみたいだろう。
そういうカラスっていいなあと思うのだ。大事な役割を、それも裏方風にじっくり演じながら、美味しいところはハトにもっていかれて、注目されず褒められもせず、サウイフモノニ ワタシハナリタイ・・・
***
碁の別名の一つが烏鷺(ウロ)、黒石と白石をカラスとサギに譬えている。
『星空のカラス』なんていう漫画も書かれているみたい。
カラスといえばエスキモー民話、今はイヌイットと言うのか。
『カラス旦那のお嫁取り』に出てくるカラスは、欲張りで見栄っ張りで悪知恵が半端に働き、それでいて憎めず意外に愚直でヒト(?)が良い。陸(おか)なら誰の役どころだろう、タヌキともキツネとも微妙に違う。
カラスはカラスだ。

ああ、清々しい朝だ。
「烏(カラス)」という字は、何でこういう作りなのか。先週はじめて教わった。
「鳥(トリ)」はもともと象形文字である。件の横棒はトリの目をデフォルメしたもので、カラスは黒い羽に黒い目だから、遠目にはどこが目だか分からない。それで横棒一本が省略されたのだと。
何とまあ、これが漢字の素晴らしさだ。写実とユーモアが緻密な体系の中に、ちゃんと場を得ている。漢字を知らない国に生まれなくて、本当に良かった。
そうとも知らず、アメリカでたまたま出会った日本での宣教経験をもつという牧師は、「カナで全部書けるのに、何であんな複雑で膨大な漢字なんてものを使い続けるのか」と呆れ顔で訊いたものだ。その程度の異文化理解だから、宣教が進まないんだよ。ああそれなのに、韓国よ、君も漢字を捨てるのか。知らないぞ、一度捨てたらもう二度と戻らないんだから。
漢字ではない、カラスの話。
実はこの生き物は、聖書の中でかなり重要な役割を演じている。三つ例を挙げよう。
① まずは創世記、洪水が引き始めた時、ノアが最初に放った鳥は?
ハトではない、カラスなのだ。
四十日たって、ノアは自分が造った箱舟の窓を開き、烏を放した。烏は飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、出たり入ったりした。
ノアは鳩を彼のもとから放して、地の面から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし、鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来た。水がまだ全地の面を覆っていたからである。ノアは手を差し伸べて鳩を捕らえ、箱舟の自分のもとに戻した。
更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。
彼は更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。
(創世記 8:7-12)
ほらね、ほんとでしょ?
分からないのはノアの魂胆で、なぜ最初がカラス、次がハトなのか。
カラスが出たり入ったりしたのは、まだそこらじゅうが一面の水だったからで、カラスの落ち度ではない。なぜ二度目からカラスは出番がもらえなかったのか。
② カラスの大事な役割、その二。カラスは荒野でエリヤを養っている。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。
「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、また夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。
(列王記上 17:1-6)
なんてお利巧なんだろう。こんな気苦労と体力の要る仕事はハトにはできない、カラスでないと。
③ その三はオマケ、例の「野の花、空の鳥」だ。マタイでは鳥とあるところ、ルカはカラスである。ルカは美文家だというが、一面リアリストでもあるんだよ。根がお医者だからね。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
(ルカ 12:22-23)
最後の部分、するりと「鳥」に言い換えられ、いかにも存在感が薄い。
「へえへえ、どうせわしらは価値がありませんよ」とカラス旦那のヘソを曲げる表情が目に見えるみたいだろう。
そういうカラスっていいなあと思うのだ。大事な役割を、それも裏方風にじっくり演じながら、美味しいところはハトにもっていかれて、注目されず褒められもせず、サウイフモノニ ワタシハナリタイ・・・
***
碁の別名の一つが烏鷺(ウロ)、黒石と白石をカラスとサギに譬えている。
『星空のカラス』なんていう漫画も書かれているみたい。
カラスといえばエスキモー民話、今はイヌイットと言うのか。
『カラス旦那のお嫁取り』に出てくるカラスは、欲張りで見栄っ張りで悪知恵が半端に働き、それでいて憎めず意外に愚直でヒト(?)が良い。陸(おか)なら誰の役どころだろう、タヌキともキツネとも微妙に違う。
カラスはカラスだ。
