散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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形容詞[A] あった!

2014-09-23 20:51:40 | 日記
2014年9月23日(火)
 僕は、ほぼ春分の日に生まれたから、秋分の日はちょうど「裏」になる。
 それにどういう卦があるのか見当もつかないが、何だか好きな日ではあるのだ。分(equinox)というのが意味ありげで良い。

形容詞[A]、どうやらこれだ。
עני

そしてその名詞化されたもの[B]がこれ。キーワードはこっちだったかもしれない。
ענך

 どんな発音か真似すらできないし、よく似て見える字母の取り違えをしていないとは断言できないが、「これ」が「それ」であることは間違いない。This is it!
 そして、問題の意味である。
 手元の辞書は Hebrew-English で、それで見る限り形容詞[A]には、poor, week, afflicted, humble といった意味しかなく、名詞[B]にはそのような者という意味しかない。貧しく、弱く、苦悩のうちにあり、謙遜なもの、神に依り頼むほか、身の立てようのない者たち。
 これを「柔和」と訳すとしたら問題だ。「誤訳」の問題が旧約と新約の間で起きることは当然あり得るが、現実には考えていなかった。『七十人訳』が手元にないけれど、これはやっぱり手に入れないといけない。

 それにしても厄介な言語だ。だいいち右から左へ書くのである。ヘブライ語のフォントはそのコマンドを組み込んでいるらしく、通常通り左から右へ(つまり、先に打った文字の右に次の字を)打ち込むと、それが先に打った文字の左側に次々に現れる。一連の文字の右端を消そうとして back space を叩けば、左端の文字が消える。混乱すまいことか!

岡村昭彦という人物

2014-09-23 19:08:37 | 日記
2014年9月24日(水)

 今月12日・・・ではない、8月8日の金曜日か。Oさんがいつものように近況を語りに来て、「岡村昭彦文庫」を訪れたことを話してくれた。高齢の母上の強い希望だったそうである。

 「昭彦」はわが父と同じ名で、生まれた時代の空気を彷彿させる。
 反射的な論評は控え、こういう人物が存在したことだけをとりあえず覚えておこう。

*** Wikiのコピペ ***

 岡村 昭彦(おかむら あきひこ、1929年(昭和4年)1月1日 - 1985年(昭和60年)3月24日)は、日本のジャーナリスト。東京出身。ベトナム戦争を撮影した報道写真で知られる。

【経歴】
 1929年(昭和4年)1月1日、大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男として生まれる。父方の曾祖父に明治天皇侍従の堤正誼、父方の祖父に大審院判事・弁護士・中央大学学長の岡村輝彦がおり、母方の曾祖父に日本赤十字社創設者で伯爵の佐野常民、母方の祖父に海軍少将で子爵の田村丕顕がいる。伯父に医学者緒方知三郎、弟に、後の俳優岡村春彦がいる。
 学習院初等科から学習院中等科に進むが、教練の時に菊の紋章入りの木銃を叩き折って退学となり、東京中学校に転じて卒業。伯父の緒方知三郎が学長を務める東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に進む。
 敗戦後は父親の公職追放に伴って困窮生活を送り、輪タク屋などの肉体労働を経験。1947年、学費値上げに反対して演説を行い、東京医学専門学校から退学処分を受ける。
 その後 医師法違反で逮捕され釧路刑務所に収監される。その際に渡辺淳一著『阿寒に果つ』の主人公である逸材の画家 加清純子(19歳)の面談を受ける。加清純子が自決する前に会った最後の人であった。
 修道院の客室係や書店員などを経て三池闘争に参加し、三池の炭鉱労働者街に住み込む中で被差別出身の炭鉱労働者や松本治一郎と出会い、問題への関心を形成[1]。1959年頃、解放同盟に参加しオルグ活動を行う。荒川区や木下川(東京都墨田区東墨田)に住んで皮革工場で働くうちに、上本佐倉(千葉県印旛郡酒々井町)の出身労働者と出会い、1960年から上本佐倉で食客として民の家を転々と移り住みながら冤罪事件や下水問題などの差別解消に尽力[1]。しかし『週刊実話』に上本佐倉出身の若者の集団による輪姦事件が詳細に報じられた折、同誌への情報提供者とみなされて民から吊し上げを受け、1961年に上本佐倉を去る[1]。
 その後、総評の週刊誌「新週刊」編集部を経て、1962年(昭和37年)PANA通信社の契約特派員となる。当時、岡村はPANAの東南アジア、韓国などの国々に契約特派員として派遣されていた。ベトナムではベトナム戦争を最前線で取材し、韓国ではミサイル基地で起きた少年殺人事件と李承晩ラインを取材。ベトナム取材の成果は『ライフ』誌上に「醜いベトナム戦争」と題して9ページの写真特集が掲載され、大きな反響を呼ぶ。
 翌1965年(昭和40年)、単身、ベトコン(南ベトナム解放戦線)支配区に潜入し取材する。しかし、このことは南ベトナム政府の忌避を買い、5年間の入国禁止処分を受けることとなった(この潜入取材の前後でPANAとの契約を解除しフリーになっているが明確な時期は不明)。ベトナムから追放された岡村は、ドミニカ革命やナイジェリアのビアフラ内戦、ジョン・F・ケネディのルーツであるアイルランドを取材する。
 1971年(昭和46年)ラオス侵攻作戦に無断で従軍取材後、再度の入国禁止処分を受ける。
 1980年(昭和55年)ごろから生命倫理、精神疾患、ホスピスなどに取材の対象を拡げた他、中国の水利事業に関心を抱き、揚子江(長江)を取材している。
 1985年(昭和60年)3月24日敗血症のため死去。56歳。

【エピソード】
 アイルランドを取材した際には、イギリスの支配下にあったアイルランドに来て、同じように外国の干渉を受けてきたベトナムの民衆の気持ちを理解するようになったと回想している。後に岡村は一家でアイルランドに移住している。

【顕彰】
 岡村は読書家であり、生前多くの書籍を所持していた。岡村の死後、遺された蔵書は静岡県立大学のベトナム文化人類学研究者、比留間洋一の尽力で、静岡県立大学附属図書館が引き受けることとなり、1989年に1万8000冊が移管された[2]。大学図書館別室に「岡村昭彦文庫」が設けられ、写真や生前のTV出演の映像を見るコーナーも設けられ、岡村の業績が顕彰されている[2]。また、1993年には「AKIHIKOの会」が結成され、毎年シンポジウムや講演といった会合を開催するとともに、会報の発行などを行っている[3]。なお岡村の母方のゆかりの地は、遠州浜名湖の舞阪町である。

【評価】
 本多勝一とは互いに無名だった頃から面識があったものの仲が悪く、「石川文洋と本多勝一は出版社から借金して逃げまわっている」と沖縄県人会の会長に発言したことがある[4]。これに対し、本多は「岡村氏自身の常習行動を他人にかぶせている実例でしょう。私は出版社に借金したことなど金輪際ありません。(逆に貸したこと──つまり私への印税滞納はよくあります。)」「岡村氏は、出版社から『前借り』として大金をせしめ、それっきりネコババをきめこむことなど常套手段でした。朝日新聞出版局も、当時の金で50万円か60万円の被害にあっています」と反論している[4]。本多はまた、岡村のことを「他人のフィルムを自分のものとして発表したり、サイン以外は編集部の文章だったりといったことを平然とやる」人間であった、とも批判している[5]。

【著書】
著作[編集]
『南ヴェトナム戦争従軍記』(岩波新書)
岡村昭彦報道写真集(集英社)

【脚注】
1.^ a b c 白石忠男「佐倉時代の岡村昭彦 上本佐倉の解放運動に風穴を開ける」(岡村昭彦友の会編『シャッター以前』vol.3、p.60-71、1999年)
2.^ a b 「『岡村昭彦文庫』について」『岡村昭彦文庫:静岡県公立大学法人 静岡県立大学』静岡県立大学。
3.^ 「AKIHIKOの会とは」『AKIHIKOの会』AKIHIKOの会。
4.^ a b 本多勝一『貧困なる精神X集 大江健三郎の人生』p.208(毎日新聞社、1995年)
5.^ 本多勝一『貧困なる精神X集 大江健三郎の人生』p.205(毎日新聞社、1995年)

【リンク】
岡村昭彦文庫:静岡県公立大学法人 静岡県立大学 - 岡村昭彦文庫を紹介する静岡県立大学の公式ウェブサイト
AKIHIKOの会 - AKIHIKOの会の公式ウェブサイト

 

著変なし/座敷わらしと空いたイス

2014-09-23 18:30:54 | 日記
2014年9月22日(月)
 午後から医科歯科の消化器外来で、検査結果の説明を受ける。
 著変なし、まずは安堵した。

 ウィルス量がカットオフラインよりわずかに高いが、ALT・ASTは余裕をもって低値で、僕自身いちばん懸念していた血小板値は正常域内で安定している。抗ウィルス剤服用の適応にあたらず、経過観察でよし。
 十二指腸の隆起性病変は、良性の過形成と半年前に診断がついている。
 膵鈎(コウ)部の小嚢胞にA先生は注意を払っていたが、これが半年前のMRIと変化していないので、まずはお咎めなしとなった。
 次は半年後に採血とエコーである。不愉快なMRIでないなら、通院先の変更はさしあたり据え置きにしておこうか。
 LDLが高めなのは相変わらずで、HbA1cや体重などとあわせ、メタボ対策が中心課題という立派な中高年。
 またせっせと歩こう。でも今日はいいや、受診しただけで何だか気疲れした。

***

 『愛しの座敷わらし』
 楽しめた。
 バラバラになりかかっている家族が、盛岡郊外の田舎家とそこに住む座敷わらし、それを抱いて暮らす人々の輪の中で「いろり/父親」を中心とする結ぼれを取り戻していく。そのストーリーは類型的と言えば言えるけれど、寅さんと同じくこういう類型は、マンネリを承知で定期的に味わいたい性質のものだ。
 水谷豊と安田成美の夫婦は手堅く、草笛光子が祖母を好演、橋本愛の姉役に名前を知らない弟も、その年頃の街の子供を自然に演じている。学校の先生に長嶋一茂、近所の出戻りに飯島直子など、それぞれハマっていたんじゃないかな。
 座敷わらしが「間引かれた子ども」と考えられてきたこと、座敷わらしの住む家には福が来るとされることなど、恥ずかしながら僕は知らなかった。そうでもあろう。
 祭りの晩に、祖母が「六ちゃんを駅に迎えに行く」と言い出す。六ちゃんは祖母の弟で、幼くして東京に里子に出され、空襲で亡くなったのだ。この祖母を説得しようとする息子を制し、嫁が義母に付き添っていく場面、来年の『精神医学特論』にいただこう。

 この映画に原作がある。読んでみたくなった。

 

***

 ラストで五人家族が六人のテーブルに着き、なぜかウェイトレス(スザンヌ!)が「6名様ですね」と言うところで、見えない座敷わらしが、ちゃんと一緒に来ていることを皆が知る。
 アメリカ時代に聞いたんだが、敬虔なユダヤ人は今でも会食の際などに、空席をひとつ用意する。生きながら天に挙げられた予言者エリヤが、いつ戻ってきても良いように、である。
 それを聞いて以来、ずっと気になっていた。同様にいつ戻られるか分からない主のために、自分は椅子を用意しているかと。

 宗旨は問わず、と、さしあたり言っておこう、宗旨は問わず、信仰者のリアリティは主の帰還に備える支度ができてるかどうか、そのことにかかっている。そのような存在として、常に主と共にあるかと言い換えてもいい。

Christ is the head of this house,
The unseen guest at every meal,
The silent listener to every conversation.

「柔和」と訳される形容詞[A]/寸前家族

2014-09-23 16:50:01 | 日記
2014年9月21日(日)
 M牧師の説教は、原典に沿って丁寧に言葉を解きほぐしてくれるので、僕のような者はお腹いっぱい満悦する。

 柔和な人々は、幸いである、
 その人たちは地を受け継ぐ。
 (マタイ5:5) 

 μακαριοι οι πραεις
 οτι αυτοι κληρονομησουσιν την γην.

「柔和」とは「性質がやさしくおとなしいこと」と広辞苑。
ただ、マタイの言う πραεις をそのような意味でのみ理解しては不十分になる。

マタイ得意の筆法で、この句は旧約に元ネタがある。

 貧しい人は地を継ぎ、
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
 (詩編37:11 ~ 新共同訳)

この「貧しい」という言葉がポイントで、

 しかし柔和な者は国を継ぎ、
 豊かな繁栄を楽しむことができる。
 (同上 ~ 口語訳)

 つまり、ここにヘブル語の形容詞があり ~ [A]と呼んでおこう ~ この形容詞[A]が「貧しい」とも「柔和な」とも訳せる多義性をもつわけである。いっぽう、ギリシア語のπραυςは、専ら「gentle, mild」の意味に使われるようだから、ここではマタイの(というより、マタイが依拠したであろう『七十人訳』の)訳の適切さが問われてよいだろう。
 というのもM師に依れば、この形容詞[A]は gentle とか mild とかいう性格上の属性よりも(あるいは、それだけでなく)、「神の前に砕かれた」という魂のあり方を指すものだからだ。

 傍証が民数記にある。
 
 モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。
 (民数記12:3 ~ 新共同訳)

 今度は「謙遜」がポイント、

 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。
 (同上 ~ 口語訳)

 「謙遜」と訳され「柔和」と訳されるのが、同じ形容詞[A]であるらしい。
 ところでモーセの人となりを考えるとき、出エジプト記以下の伝えるその人物像、大エジプトのファラオに強談判をしかけて民を脱出させ、荒野では時に激情を表しながらこれを導く強力な指導者のイメージは、「やさしくおとなしい」という意味での「柔和」には到底おさまらない。神を深く畏れる者が、それゆえにこそ、人に対して恐れを知らないということがある。その最強の例がモーセであり、イエスであろう。
 そのように神の前に砕かれた者の、神への忠実ゆえのしなやかさを聖書は「柔和」と呼ぶ。そういう意味で柔和な者が地を相続し、従ってまた天の国の相続人になるというのである。
 それで腑に落ちた。

 ギリシア語は何とか食いつけるが、ヘブル語はまるで読めない。残念ながら僕の現状である。けれどもここは新約を正しく理解するためにこそ、ヘブル語が解きほぐせないといけない。形容詞[A]の正体が知りたいと切に思う。
 もどかしいが、今は無理だ。

***

 午後から三男の高校の文化祭へ。
 18R(じゅうはちルーム ~ この学校特有の呼び方で、1年8組)の演劇は『寸前家族』と言うのだそうで、息子はその中で「お父さん」役をやっているらしい。
 早めに出かけ、理科系サークルの展示をしばらく楽しんだ後でお手並み拝見。家では末っ子で、兄たちにいじられながら、ちゃっかり良いところをおさえる相場通りの役どころだが、どうやら学校では違う面が出ているらしい。委細は省略、和やかな気持ちで校舎を出た。
 良い季節だ。
 

タイムスリップ/逸ノ城

2014-09-23 15:40:40 | 日記
2014年9月20日(土)
 久々に、うみどり会に参加。10名の盛況。竹下通りから一本入って東郷神社の静寂は、ちょっとしたスリップ・インで、何度来ても不思議な感じだ。
 「今日は用心してきましたよ」
 と熊のような体躯に笑顔の優しいMさん。長袖の着衣に虫除けスプレー、デング熱のことだ。蚊の発生源と目される代々木辺りから、言われてみれば広大な一続きの緑地のようなものである。暑がりの僕は半袖、医者の端くれのくせに、これはまことに迂闊だった。
 集まった海自の面々が、僕の知らぬ人々の消息を交換している。御年百歳近い元パイロットのことが話題になり、この人はかつて重慶爆撃に加わり、真珠湾ではカンバク(艦爆?)隊長であったのだそうだ。
 「よく生き残ったね。ハワイ組はほとんどミッドウェーで死んだからね。」
 この人々には普通の会話、戦史書や歴史小説の中で知ったことをこうして耳にし、時間的にも一瞬スリップした感覚がある。

 多い人は7局打つ間に、僕は3局だけ。この人どうしてこんなに長考するんだろうと毎局思うが、いずれの相手も僕よりは多く局数を打っている、ということは僕が長さの原因なのか。でも何で?僕自身は長考しないのに。
 特に師範格のNさんとの対局は、昼飯もとらず約3時間に及び、脳がくたくたに疲れた。
 結果は3局とも勝ちだったけれど、ここに点数制の盲点がある。1局勝つごとにハンデが1点ずつ増えるが、負けてもハンデは減らないから、たくさん打つほど(=出席の良いものほど)条件が厳しくなる。確かNさんにもEさんにも前回は3子だったのに、僕が欠席を続ける間に彼らの点数が増したおかげで今日は4子。4つも置かせてもらって楽勝と思いのほか、何でこんなにもつれるかな、プロならともかく、いくら強いったって相手は同じアマなのに・・・う~ん・・・

 勝って憮然たる僕の歩みをよそに、東郷神社は今日も神前結婚の祝いの列が幾組となく続いている。
 並んで歩くNさんは碁に増して相撲が大好きで、東京で本場所のある一、五、九月は不参加のはず。不思議に思って訊けば、
 「切符が手に入らなかったんです。」
 笑顔を崩さずに言う。大相撲人気が復活模様なのだ。
 「今場所注目の力士は?」
 「逸ノ城(いちのじょう)ですね。」
 即答が返ってきた。駅まで歩く間、この力士の生い立ちや経歴、相撲っぷりなどをスラスラと話してくれる。さっそく帰ってみてみよう。

 ***

 帰り道、電車の中で。
 「守ろうよ 私の好きな街だから」
 この標語、ヘンだよ。

 「守ろうよ 皆の好きな街だから」
 「守ります 私の好きな街だから」
 どっちかでなくちゃ。

 私(=あなた)の好きな街だからって、何で私が守らなきゃいけないの?
 ケチつける訳ではないけれど、ボタンの掛け違いはこんなところからも起きるものだ。だいいち、聞いて背筋がゾッとしないかな・・・

 *** 以下、Wikiのコピペ ***

 逸ノ城 駿(いちのじょう たかし、1993年4月7日 - )は、モンゴル国アルハンガイ県バットツェンゲル郡出身(遊牧民)で、湊部屋所属の現役大相撲力士。本名はアルタンホヤグ・イチンノロブ。身長192cm、体重199kg[2][3]。最高位は東前頭10枚目(2014年9月場所)。

【来歴】
 モンゴル在住時代は遊牧民であり、ウランバートルから400キロ離れた草原でヒツジやヤギなど家畜を飼いながら、季節によって移動して生活していた。「ヒツジを狙ったオオカミがやって来たときなど、夜中に起きなければならなかったのが大変だった。でも馬に乗って走ることとか、楽しかった」と母国での少年時代を本人は述懐したことがある。
 幼少期よりブフ(モンゴル相撲)に親しんでおり、14歳の時にアルハンガイ県大会で優勝した実績を持つ。来日直前は柔道もしていたが、2010年に鳥取城北高校相撲部監督の石浦外喜義に才能を見出されて来日し、同高校に相撲留学した。2年次、3年次に合計5つのタイトルを獲得。卒業後は当時外国人力士枠の空いていた大相撲の湊部屋に入門すると一部で報じられたが、この時点では入門はせず高校に残って相撲部のコーチを務め、また鳥取県体育協会に所属して自身も実業団選手の立場でアマチュアの大会に出場していたが、2013年に全日本実業団相撲選手権大会で優勝して実業団横綱となったことで、大相撲の幕下15枚目格付出の資格を取得。翌月に行われた東京国体で1回戦敗退した際には入門について考えていないと語っていたが、直後に湊部屋入門決定が報じられた。

 新弟子検査に合格した直後の11月場所は興行ビザが発給されていないため出場できなかったが、12月2日付でビザが発給され、同月20日には相撲協会の理事会で幕下付出が承認されたことから、2014年1月場所で初土俵を踏んだ。初土俵の時点では部屋に幕下以上の力士が他に在籍しておらず、入門即部屋頭になった。
 モンゴル人力士の中でも逸ノ城は初めての遊牧民出身者であり、外国人としても初めての幕下付出力士である。初土俵前には、新弟子としては異例の出稽古を行い、佐渡ケ嶽部屋や貴乃花部屋などへ赴き稽古相手を求めた。2日目の錦木との取組がデビュー戦となり、本人も緊張したと語る中小手投げで勝利してプロ初白星。8日目にプロ初黒星を喫したが、13日目には既に場所後の十両復帰が確実な状況となっていた十両経験者の阿夢露に力強い相撲で勝利するなど実力を発揮して6勝1敗の好成績。
 翌3月場所は関取目前の西幕下3枚目へと躍進し、再び6勝1敗の好成績を収めて3月場所後の番付編成会議にて新十両に昇進することが決定された。新十両に際して「自分も1場所で幕内にいきたい。遠藤関に追い付けるように頑張る」と話し、幕内の遠藤に対するライバル心を見せた。幕下15枚目格付出から所要2場所での昇進については「普通だと思う。将来は横綱までいきたい」と悠然と話していた。新十両昇進後も遠藤の例と同じく関取の特権を行使せずに2014年9月場所まで相撲教習所通いを続ける意向を示している。
 因みに逸ノ城は外国人力士に課される初土俵の場所後1年の教習所通所期間が終わる前に関取に昇進した初の例である。

 新十両の2014年5月場所は、初日から4連勝をするなど実力を存分に発揮し、11勝4敗で4人による優勝決定トーナメントに進出。1回戦で琴勇輝、決勝戦で鏡桜と、この場所の本割で敗れてしまった幕内経験者を相次いで倒して、新十両優勝を果たした。翌7月場所も白星を重ね、13勝1敗で千秋楽を迎えたが、2敗の栃ノ心に本割・決定戦で連敗、2場所連続の十両優勝はならなかった。それでも13勝2敗の好成績を挙げ、翌9月場所で新入幕。
 幕下付出から所要4場所での新入幕は史上2位タイのスピード出世。モンゴルからの新入幕は、2014年5月場所の荒鷲以来。