散日拾遺

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白鹿

2014-09-27 07:25:06 | 日記
2014年9月27日(土)
 古事記と日本書紀では、例によって少々叙述が異なっている。
 弟橘媛に対する哀惜が遅れて表現される点は同じで、難敵を一通り平らげて後に初めて、抑えていた悲しみが噴き出してくる。
 違うというのは白鹿のことで、書記では古事記よりもずっと遅れて関東平定の後、信濃路で難渋するところで現れる。その意味も明確で、「山の神、王(みこ)を苦しびしめむとて、白き鹿(かせき)と化(な)りて王の前に立」ったのだ。「吾妻はや」の絶唱は既に経過している。
 それでこそ日本武尊の反応も理解しやすく、
 「王、異(あやし)びたまひて、一つの蒜(ひる)をもて白き鹿に弾(はじきか)けつ。すなわち眼(まなこ)に中りて殺しつ。」
 という次第である。
 これで話は終わらず、白鹿が息絶えるが早いか「王たちまちに道を失ひて、出づるところを知らず。時に白き狗、自づからに来(まうき)て、王を導きまつる状(かたち)あり」云々と続く。

 何しろ古事記の簡潔な叙述を読んで、白鹿を弟橘媛の化身と思ったのは僕の浅知恵だったらしい。純白は神々の標徴で、鹿と狗との対照は、まさしく捨てる神あれば拾う神ありというところ。鹿はたおやかな印象があるが、なかなか逞しく危険でもある大型獣なのだ。浦河あたりでは、ときどきエゾシカが道に出てきて車と衝突する。本州の鹿よりも一回り大きく強いので、しばしば車の方が壊れると聞いたけれど、むろん鹿も無傷ではすまないのだろう。
 日本書紀は続けて、「この後はこの山をこゆる者、蒜を噛みて人および牛馬に塗る。自づからに神の気(いき)に当たらず」と記す。
 折しも御嶽山噴火、死者が出たうえ、なお40名余の登山者が山上に孤立している。神の気を逃れる、蒜の霊力あれかしと願う。