散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

言った私がバカでした

2014-09-26 21:21:37 | 日記
2014年9月26日(金)
 診察室の窓に青空が広がる気持ちの良い一日、さほど忙しくもなく淡々たる診療が続いた。
 うつの遷延をきっかけに転職を決意した40代男性のKさん、一日も早く休養に入りたい気持ちを抑え、今日もこの足で残務整理に出かけるという。
 Yシャツの背中に、
 「行ってらっしゃい」
 を声をかけると、嬉しそうに振り向いた。
 「いいですね、それ、元気出して行ってきます。」
 「ははは、来週来たときは、『お帰りなさい』ってとこですか。」
 「いやあ嬉しいな、メードカフェみたい。」
 め、めーどかふぇ・・・

 頬を引きつらせる僕を残して、K氏はさっさと出かけていく。
 行ってるわけ?そういう場所に。道理でこの人のフェミニンな感じ、何だか鳥肌が立ってきたよ。
 言いつけてやろうかな、奥さんに。
 着ている白衣が不意にコスプレの衣装みたいに感じられ、何とも落ち着かないのだった。

足入れ婚からつながる連想

2014-09-26 07:58:27 | 日記
2014年9月26日(金)
【足入れ婚】
1 婚姻成立祝いをしただけで嫁は実家に帰って、婿が泊まりに通う妻問(つまど)い婚の形を一定期間とったのち、嫁が婿方の家へ移るもの。あしいれ。
2 内祝言の後、嫁が婿方に移り住む風習。あしいれ。
(デジタル大辞泉)

 これじゃ、かえって分からない。一般的にはそういう説明になるんだろうが、むしろ個別の(特殊の?)例を挙げた方がわかりやすい。
 1は平安文学などで馴染みの形式だが、ここで気にしているのは2の系列である。「内祝言の後、嫁が婿方に移り住」んだ後が重要で、たとえば、めでたく挙児に成功した暁に、初めて正式の妻として認められる(本祝言?)というものである。これは「三年子なきは去る」と同系列の発想で、つい最近まで確かに例があった。
 
 実は、北海道に住んだことのある人に聞かされたのだけれど、アイヌ系の女性が倭人の男性に嫁いだ場合、生まれた子どもがアイヌの身体的特徴を強く現していると、母親ごと実家に帰される例があったというのである。未確認の伝聞情報であり、内容もあまりに露骨で痛ましいことなので、いくら何でもと疑う気持ちがあった。しかし、この極端な話の手前に「足入れ婚」の風習を置いてみれば、実はそこにわずかな隔たりしかないのに気づく。
 「子どもを産めなければ、正妻と認めない」
 のが上記のタイプの足入れ婚だとすれば、
 「然るべき条件を備えた子どもを産めなければ、正妻と認めない」
 のが上記の伝聞情報の意味するところだからだ。

 いつの、どこの世界の話をしているかと言われそうだが、そうでもない。
 タイ人の代理母の出産した双生児のうち、「健常児」だけを引き取ってダウン症児の引き取りを拒絶したオーストラリアの依頼人、まるで製造物瑕疵の論法だけれど、これも「一定の条件を満たした子どもでなければ存在を認めない」という点で上記と共通している。
 このニュースに憤った人は少なくないと思われるが、それと「出生前診断によって受精卵を選別する」発想とが、これまたわずかに一歩を隔てるに過ぎない。

 「授かるものを受けとる」という原則から一歩踏み出したが最後、遠い奈落に至るまで、僕らの我欲には歯止めのかけようがないのだ。

海の向こうの懲りない面々

2014-09-26 07:58:14 | 日記
2014年9月25日(木)
 アメリカが、またやっている。

 敵Aを倒すために、Aと対立するBにテコ入れする。
 首尾良くAを倒したときにはBが巨大化しており、今度はこれを敵としてCをテコ入れする。あるいは倒したAにテコ入れして復活させる。
 彼の国の「外交」は、この式の連続で、歴史的な連鎖の最初のAとBが日本と中国であったことを以前に書いた。
 それで当方の失敗や落ち度を正当化するつもりはないが、このやり方自体は実に拙劣かつ迷惑なもので、特に中東では次々に大きな悲劇を育ててきたこと疑いない。

 しかるに、

 イスラム国を打倒するため、これと対立する勢力に武器供与を推進する云々とオバマ大統領。これと全く同じ発想でフセインのイラクを育て、後に同じ相手を悪魔と見なして退治に大汗かいたのだ。またやるんですかと思いながら出かけ、帰って夕のニュースを見たら。
 大統領の国連での演説を、英・仏や日本はもちろん歓迎。いっぽう、ロシアや中国がこれに批判的なのも当然の流れとして、中国の軍事評論家の主張に少々注目。イスラム国の勢力伸長の背景を作ったのは他ならぬアメリカではないか、自分が蒔いた種は他人を巻き込まず、自分の責任で刈っていただきたい、というのである。
 
 たぶん、その通りなのだ。
 アメリカ主導の国際社会における中国の野党的役割が、珍しくも頼もしく見える一瞬であるが、おかげで話はかえってややこしくなる。頼もしい野党というよりは、乱暴者のゴリラ君なんだからね、実際。
 それはともかく、僕らが現実にどういう選択をするにしても、アメリカのやり方の危うさはよく知っておく必要がある。イスラム国が鎮静した後(それ自体、そう簡単にいくとも思えないが)、アメリカの手で強化された勢力が間違いなく次のトラブルメーカーになるだろう。際限のないマッチポンプの連鎖の背後で、笑いが止まらないのは軍需産業ばかりという悪魔の図式である。

祝! LPレコード復活の兆し

2014-09-26 07:57:59 | 日記
2014年9月25日(木)
 木曜午後のいつもの仕事の後、久しぶりにレコード店を覗いてみた。
 オイストラフ父のブラームス/チャイコフスキーが、これ一枚の愛蔵CDなんだが、そういうものに限って難に遭うもので、先日聞こうとしたらバリバリ雑音がするばかりになっている。CDにも劣化というものがあるのだ。こればかりは他に代え難くて買いなおそうと思ったが、残念ながら店舗にない。
 その代わり、嬉しい風景を見た。店舗の奥半分が昔懐かしいLP盤のコーナーに様変わりし、僕より少し年輩と見えるオールド・ファンたちが、人を寄せつけない熱気を放ちながらレコードを漁っている。再生機の見本も複数展示され、はっきりとLP人気の復活を現している。
 ついにこの日が来た!

 1980年代だろうか、CDというものが出現したときは、その手軽さを喜び歓迎したが、次に来る事態を予想していなかった。CDが非常な勢いで市場を席巻するにつれ、従来のLP盤があっという間に消えたのである。LPを再生するターンテーブルも消えていき、企業が原盤を潰し始めたと聞いたときは血も凍る思いだった。
 単なる懐古趣味ではない。音楽ファンなら誰でも知っていることだが、LPとCDではナゼか音がはっきり違う。CDのデジタル音は確かに細部まで(過剰なほど)精確で輪郭明瞭だが、裏を返せば聞き疲れするメタリックな音質で、むやみにダイナミック・レンジが大きくて、要するにジャカジャカドンドンの大騒ぎになる。
 ロックはこれでいい(これがいい?)けれど、クラシックには全く不向きで、殊にバイオリンやピアノの柔らかい音を聞くことができなくなった。ジャズも本当はCDでは聴けないように僕は思う。うるさ型が多く、層も厚い日本の音楽ファンが、なぜこの文化破壊に抵抗しないのだろうと不思議でならなかったのだ。

 良いもの、価値あるものは、必ず復活する。大事な盤どもを捨てないでおいて良かった。
 実に嬉しいけれど、ここまで30年は時間のかかり過ぎだろう。どうしてこうヒステリックに右往左往するのかな。この間に失われた逸材も少なくないはずだ。ヘンだよ。
 「現に手の内にある宝を大事にすること」が幸せの秘訣だと、どこの文化圏の格言も口を揃えて警告しているのに。