散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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朝の代々木、夕の市ヶ谷

2014-09-18 22:57:57 | 日記
2014年9月18日(木)

 午前中、放送番組収録のための打ち合わせ。Sディレクターの探してきた場所が代々木のTOMという喫茶店、これが外観と言い内装と言いレトロでシックな珈琲店でたいへん雰囲気が良い。聞けば1971年に開店したんだそうだ。僕が高校に入って上京する前年のこと、Sディレクターはまだ生まれていない。代ゼミがなくなってもTOMは残る。代々木で人と会うときは、ここを使うことにしよう。
 僕は500円のブレンドコーヒー、朝食をとらずに来たSディレクターと、朝8kmほど走って早くもお腹の減ったKプロデューサーは、770円のモーニングセットの分厚いトーストとゆで卵を頬張っている。午前中は客のない広々とした二階席で、2時間ほどもじっくりやりとりし、だいぶTV収録のイメージができてくる。
 先日、主婦が鬱病になった想定で簡単な架空のプロットを伝えたら、早くも3ページほどのイラスト(絵コンテ?漫画?)になって戻ってきた。その手際の良さと的確さに舌を巻く思い。できる人には何てことないのだろうか、僕自身にまったく欠けている才能であり、今や日本人が世界的に評価を得ている技芸であることが、いっそう眩しく感じさせる。ここに掲載したいが、貴重な未発表素材なので今はダメだ。
 Sディレクターは、浦河へ同道した(というか、連れて行ってもらった)例の利発な女性で、Kプロデューサーは昨年度の『死生学入門』でも世話になった話し好きの男性である。Sさんとあれこれ思案している頭の上で、K氏がひっきりなしにあれこれ喋っているのが可笑しいけれど、その話というのが実はタメになったりする。
 中でも近々、伊賀上野へロケに行く話は面白かった。忍者を生んだ山里が、今やちょっとした国際都市になっているんだそうだ。製造業に従事するペルー・ブラジル・中国・韓国の人々が多く住み、日本人住民に対する外国語教育も盛んになっているらしい。地方からこういうことが聞こえてくるのは、嬉しいことだ
 浦河ロケには同行し損ねたK氏だが、かつてキタキツネの取材で北海道へ行ったときには、周辺を俯瞰観察せよとのカメラマンの指示で近くにあったサイロの屋根に上ろうとし、外壁に取り付けられた垂直のハシゴを10mほども上ったところで腕がなまって進退きわまり、上がりも下がりもできず落ちたら死んでしまうというので心底怖い思いをしたそうである。
 その後、必死で屋根まで這い上がったものの、今度は家畜の糞尿溜から立ち上る悪臭でたちまち胸が悪くなり、20mのサイロの屋上で胃袋が裏返るほど吐いた云々。

***

 午後は診療。終了後に今日も靖国神社経由で市ヶ谷まで歩く。
 大鳥居の手前で狛犬を確かめた。間違いない。手前にある最初の一対は、右が阿、左が吽の定型だが、鳥居寸前の二つ目の対はどちらも阿型である。顔の彫りが浅く、四角張って平たい頭部も珍しい。
 のみならず向かって左の狛犬は、背に子犬を乗せ、左の前足にも子犬をじゃれつかせているように見える。右にはそれがなく、あるいは雌雄の一対かと思われる。この一対は明らかに他と違う。これがおそらく日清戦争の「おみやげ」なのだろう。異郷にあって、どんな魔を双眸で睨みすえるのか。

 例によって日本棋院の玄関ホールへ表敬。大画面には、今日から始まった名人戦第二局の経過が表示されている。5時30分にかかるところで、そろそろ打ち掛けだろうと思ったら、エレベーターから降りてきたのは紛れもない張栩九段。先日の高尾さんのこともあってためらわれたが、どこかほっとしたような涼やかな笑顔に釣りこまれて、つい挨拶してしまった。
 「ファンなのです、応援しています」と言うと、
 「ありがとうございます」と歯切れよく返事があった。
 トイレを借りてホールを出ようとすると、横から現れたのは長身の黄翊祖(コウ・イソ)八段、会館を出たところで並んだのが王銘琬(オウ・メイエン)九段、皆和やかな表情なのは、一日目が無事に終わった解放感だろうか。対局は遠く鳥取で進行中だが、緊張と弛緩に棋士団の全体が同調しているようだ。それにつけても先日の高尾十段の厳しい表情があらためて思い出される。

 ふと気づけば、今日見かけた三棋士はいずれも台湾出身なのだった。

先生の遺書(百五)/弟子への手紙 ~ 牛のススメ

2014-09-18 07:36:21 | 日記
2014年9月18日(木)

 私の良心はその度にちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早く御前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。

△ 英文学者の漱石は、ポーなどに対してどんな評価をもっていたんだろう?

 私はその新しい墓と、新しい私の妻(さい)と、それから地面の下に埋められたKの新しい白骨を思い比べて、運命の冷罵を感ぜずにはいられなかったのです。

△ 「新しい」という形容詞がつなぐ三つのもの、その連関と対照が鮮やかで恐ろしい。

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 漱石は筆まめだった。生涯で約2500通の手紙を残している。亡くなる年の夏、門下生の芥川龍之介と久米正雄に、続けて3本も手紙を書いた。
 「勉強をしますか、何か書きますか。君方は新時代の作家になるつもりでしょう。(略)しかしむやみに焦ってはいけません。ただ牛のように図々しく進んでいくのが大事です」(8月21日)
 「牛になる事はどうしても必要です。われわれはとかく馬にはなりたがるが、牛にはなかなかなり切れないです。(略)あせってはいけません。頭を悪くしてはいけません。根気ずくでおいでなさい。世の中は根気の前に頭を下げることを知っていますが、火花の前には一瞬の記憶しか与えてくれません。うんうん死ぬまで押すのです」(8月24日)

 ~「漱石こんな人」より

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 Le talent n'est qu'une longue patience. Travaillez!
 (才能とは長い忍耐以外の何ものでもない。精進せよ!)

 フローベールがモーパッサンに与えた励まし・・・確かそうだ。

 

温泉ロシアン・ルーレット/「異文化交流としての結婚」補遺

2014-09-18 07:07:20 | 日記
2014年9月18日(木)
 朝のシャワーを浴びた三男が、こんなに涼しいとは思わなかった、風邪ひきそうだと鳥肌立てながら話すのに、もう何年も前の帰省中、郷里の温泉でやったのだそうである。
 熱い湯、ぬるい湯、冷水をそれぞれ桶に汲んでおき、そのままでは湯気で分かってしまうので後ろ向きになって「右か、左か、真中か」で運試しをする、これぞ温泉ロシアン・ルーレット。
 「誰がそういうこと考え出すわけ?」
 訊かなくても分かっている。こういうのは長男の思いつきに決まっている。そしてこの時は、日頃ゲームやジャンケンに強い次男が、珍しく冷水を被るハメになったんだと。
 親の知らないところで着実に「歴史」を作っているものだ。

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 結婚が「異文化交流」だと感じたのは、ひとつには自分自身が以前と少し違った存在になっていることを意識するからだが、もうひとつは他でもない息子たちを見ていてのことだった。
 家内と僕とは、育った家庭の奉ずる「文化」に不思議と共通のものが多かった。地域も職業も違うのに考え方の基本がよく似ているのは嬉しいことで、宗教だけではない、そうした共通性の源となる大きな「文化」が、同世代の日本人の少なくとも一部に強い影響力をもった証左である。放送大学で死生学の科目を起こしたりするのも、そういう文化の水源への郷愁と畏敬に駆られてのことかもしれない。
 話を戻せば、そのように似たものの組み合わせであっても、むろん微妙な違いがいろいろとある。大本が似ているだけに、微差がかえってよく浮き彫りになるというカラクリで、さらにそれが子ども達の言動の中に現れるのを見つけると不思議に楽しいものだ。
 
 え~っと、

 実例はまた追々に。
 ただ、上に記した長男のトリックスターぶりは、明らかに母方から受け継いだものである。
 昨夜、長距離バスで帰京した彼が、財布を車内に置き忘れ無一文で新宿の路頭に立ち尽くしたのは、間違いなく父方の遺伝だ。
 それは文化の問題じゃないって?
 ごもっとも。