2014年8月31日(日)
新聞屋さんからもらったチケットが今日までなので、涼しいのを幸い出かけてみた。
台北の博物院だというので、台湾のものが多く含まれるかとは全くの誤解、宋・元・明・清、各王朝の皇帝らが営々と収集した大中国のコレクションのうち、いま台北に存在するものが来日したのである。
ということは蒋介石一党が大陸から携え来ったということで、その経緯と労苦の方に相当の関心を惹かれるが、今回そのことの解説は特にないようだ。

高校入試の前に、春秋から始めて中華民国成立まで、王朝交代の年号をしっかり覚えておいたのが今でも役に立っている。とはいえ、各王朝の特色・個性などは極めて抽象的にしか理解していなかったのが、こうして「物(ブツ)」を見せられると大いに具体的に納得される。
青磁や山水画に象徴される宋の枯淡と風雅は、日本人に理解しやすい。我々自身の感受性のひとつの源がここにあるかとも思われるが、北宋の山水画などは中国の知識人が極度に珍重したため、日本にほとんど伝わっていないのだそうである。科挙は隋唐に始まるが唐はまだまだ門閥の時代、宋に入って科挙の階梯を実力で昇ってきた士大夫(したいふ)らが政治のみならず文化の中心になる。
元代に入って、景徳鎮を中心とする白磁への青の図柄は鮮明と精緻を増す。文学において、幻想性と内省性が増したことと通うだろうか。モンゴル王朝のもとで政治的に抑圧された漢人のエネルギーが、学芸の方向へ活路を見出したと言えるかもしれない。
明といえば永楽帝と鄭和、その積極外交によって中国の文物が中東やヨーロッパに伝わり、逆に西方からもたらされた技術が中国美術の水準をいっそう押し上げる。青花龍文大瓶の画像はネット上でも見られるが、どの一枚も実物の息を飲む鮮やかさに遠く及ばない。
そして清である。

先人に憧れるのは普遍的なことで、絶大な権力を一身にまとう中国の皇帝とて例外ではない。文人のレベルでは、元の趙孟頫(ちょう・もうふ)が宋の蘇軾に深く傾倒したというが、スケールの大きいのは清の乾隆帝が宋の徽宗(きそう)を崇敬したとの逸話である。
徽宗は画家として超一流であり、コレクションのみならず自身の作品を後世に残した。『桃鳩図(とうきゅうず)』は日本の国宝となっている。(真筆を疑う説もあるらしい。)政治的には非業の人で、勃興する金に惨敗して北宋の滅亡を招き、一族と共に金へ連行され彼の地で没した。しかしその芸術性を、清の絶頂期を体現する乾隆帝が己の範とした。

清はその末期の衰退が歴史上近い過去に属し、辮髪・纏足などの印象もあって何となく侮られがちだが、その最盛期を見るなら実に驚くべき大帝国だった。康熙(在位1661-1722)・雍正(1722-35)・乾隆(1735-95)の三代134年間は、中国史上もっとも繁栄しよく治まった時代ではなかったか。清の治世下、それまで数千万人であった中国の人口が3億人超にまで急増するが、これは領土拡張(世界帝国であった元を除き、清の版図は歴代王朝中最大で、現在の中国よりもモンゴルなどの分だけ大きい)もさることながら、水田耕作技術の向上普及、そして平和で安定した統治によるものだ。そこで弾みのついた人口増加が後年、中国を苦しめることになるのは皮肉なことだけれど、展示の掉尾を飾る清朝の文物は、技術の巧緻といい、意匠の奇抜といい、色彩の華麗といい、ほとんど人智の到達点を示しているように思われる。
三代の栄華の最後を飾る乾隆帝は創造・生産を奨励するとともに、その蒐集にたいへんな情熱を傾けた。『康熙字典』を編纂させた祖父に対し、乾隆帝を象徴するのは『四庫全書』である。これは当時存在した、そして存在に値するすべての書物を筆者保存しようとした途方もない企画で、経・史・子・集4部に分かれ、36,000冊、230万ページ、10億字に及ぶという。
ちょうど今夜Eテレでこの展覧会の解説番組をやっており、浅田次郎が台湾・中国を訪問して『四庫全書』を実見し説明を受ける場面があった。それによれば、その量にもまして驚かれるのが編集方針である。他民族を包含する中国王朝の良き君主として、乾隆帝は日本やベトナムからもたらされた良書をも偏りなく採用した。日本からは山井鼎(やまのい・かなえ、1689-1728)による『七経孟子考文補遺』が再録されている。その一方で、周辺民族や異民族に対する侮蔑的な言辞を含むものは、再録対処から除外あるいは表現修正のうえ再録されたという。こうした乾隆帝の精神のスケールこそ、真に驚くべきものだ。
そして紫檀多宝格。高さ20㎝ほどの紫檀の小箱に、無尽蔵ともいえる蒐集品の中で最も心に適うものどもを、ミニチュアのコピーとして収めたものである。大宇宙のレプリカを掌中に置きたいという乾隆のこだわり、比べちゃ申し訳ないが分からないでもないのだ。いっぽうで彼は過剰装飾を好まず、禁令すら発しているという。何かが伝わってくる。

あとは、つらつらと追記:
王莽といえば漢朝を奪った悪人というのが通り相場で、今に至るまでひどく評判が悪い。しかし、漢の立場から書かれた「正史」の筆法が王莽を糾弾するのは当然で、全国に儒学の学び舎を建てて勉強を奨励し、皇帝の即位儀礼を定めるなどの功績が、実はあるのだという。
今回は、王莽が作らせた度量衡の基準を与える器 ~ メートル原器に相当するもの ~ が展示されていた。後に清朝の皇帝らがその意義を学び、これに類似した「原器」を紫禁城の一隅に設置したという。
「題賛」というしきたり!
絵は描かれただけでは完成しない。それが人々の手を渡るにつれ、次々と賛辞が記載され押印される。ひとつの芸術作品が、こうして成長していく面白さを思う。
「魚」の字は「余」と同じ発音をもつので、魚は中国でしばしば富の象徴とされた由。初代教会の信徒たちは、ιχθυς(魚)に信仰告白をこめて暗号としたのだったっけ。
乾隆帝の肖像画にはろくな人相のものがないと思ったが、テレビで使用されたこれは良いものだ。穏やかに微笑む髭の間から、今にも動き出しそうな好奇心が覗いている。
新聞屋さんからもらったチケットが今日までなので、涼しいのを幸い出かけてみた。
台北の博物院だというので、台湾のものが多く含まれるかとは全くの誤解、宋・元・明・清、各王朝の皇帝らが営々と収集した大中国のコレクションのうち、いま台北に存在するものが来日したのである。
ということは蒋介石一党が大陸から携え来ったということで、その経緯と労苦の方に相当の関心を惹かれるが、今回そのことの解説は特にないようだ。


高校入試の前に、春秋から始めて中華民国成立まで、王朝交代の年号をしっかり覚えておいたのが今でも役に立っている。とはいえ、各王朝の特色・個性などは極めて抽象的にしか理解していなかったのが、こうして「物(ブツ)」を見せられると大いに具体的に納得される。
青磁や山水画に象徴される宋の枯淡と風雅は、日本人に理解しやすい。我々自身の感受性のひとつの源がここにあるかとも思われるが、北宋の山水画などは中国の知識人が極度に珍重したため、日本にほとんど伝わっていないのだそうである。科挙は隋唐に始まるが唐はまだまだ門閥の時代、宋に入って科挙の階梯を実力で昇ってきた士大夫(したいふ)らが政治のみならず文化の中心になる。
元代に入って、景徳鎮を中心とする白磁への青の図柄は鮮明と精緻を増す。文学において、幻想性と内省性が増したことと通うだろうか。モンゴル王朝のもとで政治的に抑圧された漢人のエネルギーが、学芸の方向へ活路を見出したと言えるかもしれない。
明といえば永楽帝と鄭和、その積極外交によって中国の文物が中東やヨーロッパに伝わり、逆に西方からもたらされた技術が中国美術の水準をいっそう押し上げる。青花龍文大瓶の画像はネット上でも見られるが、どの一枚も実物の息を飲む鮮やかさに遠く及ばない。
そして清である。

先人に憧れるのは普遍的なことで、絶大な権力を一身にまとう中国の皇帝とて例外ではない。文人のレベルでは、元の趙孟頫(ちょう・もうふ)が宋の蘇軾に深く傾倒したというが、スケールの大きいのは清の乾隆帝が宋の徽宗(きそう)を崇敬したとの逸話である。
徽宗は画家として超一流であり、コレクションのみならず自身の作品を後世に残した。『桃鳩図(とうきゅうず)』は日本の国宝となっている。(真筆を疑う説もあるらしい。)政治的には非業の人で、勃興する金に惨敗して北宋の滅亡を招き、一族と共に金へ連行され彼の地で没した。しかしその芸術性を、清の絶頂期を体現する乾隆帝が己の範とした。

清はその末期の衰退が歴史上近い過去に属し、辮髪・纏足などの印象もあって何となく侮られがちだが、その最盛期を見るなら実に驚くべき大帝国だった。康熙(在位1661-1722)・雍正(1722-35)・乾隆(1735-95)の三代134年間は、中国史上もっとも繁栄しよく治まった時代ではなかったか。清の治世下、それまで数千万人であった中国の人口が3億人超にまで急増するが、これは領土拡張(世界帝国であった元を除き、清の版図は歴代王朝中最大で、現在の中国よりもモンゴルなどの分だけ大きい)もさることながら、水田耕作技術の向上普及、そして平和で安定した統治によるものだ。そこで弾みのついた人口増加が後年、中国を苦しめることになるのは皮肉なことだけれど、展示の掉尾を飾る清朝の文物は、技術の巧緻といい、意匠の奇抜といい、色彩の華麗といい、ほとんど人智の到達点を示しているように思われる。
三代の栄華の最後を飾る乾隆帝は創造・生産を奨励するとともに、その蒐集にたいへんな情熱を傾けた。『康熙字典』を編纂させた祖父に対し、乾隆帝を象徴するのは『四庫全書』である。これは当時存在した、そして存在に値するすべての書物を筆者保存しようとした途方もない企画で、経・史・子・集4部に分かれ、36,000冊、230万ページ、10億字に及ぶという。
ちょうど今夜Eテレでこの展覧会の解説番組をやっており、浅田次郎が台湾・中国を訪問して『四庫全書』を実見し説明を受ける場面があった。それによれば、その量にもまして驚かれるのが編集方針である。他民族を包含する中国王朝の良き君主として、乾隆帝は日本やベトナムからもたらされた良書をも偏りなく採用した。日本からは山井鼎(やまのい・かなえ、1689-1728)による『七経孟子考文補遺』が再録されている。その一方で、周辺民族や異民族に対する侮蔑的な言辞を含むものは、再録対処から除外あるいは表現修正のうえ再録されたという。こうした乾隆帝の精神のスケールこそ、真に驚くべきものだ。
そして紫檀多宝格。高さ20㎝ほどの紫檀の小箱に、無尽蔵ともいえる蒐集品の中で最も心に適うものどもを、ミニチュアのコピーとして収めたものである。大宇宙のレプリカを掌中に置きたいという乾隆のこだわり、比べちゃ申し訳ないが分からないでもないのだ。いっぽうで彼は過剰装飾を好まず、禁令すら発しているという。何かが伝わってくる。

あとは、つらつらと追記:
王莽といえば漢朝を奪った悪人というのが通り相場で、今に至るまでひどく評判が悪い。しかし、漢の立場から書かれた「正史」の筆法が王莽を糾弾するのは当然で、全国に儒学の学び舎を建てて勉強を奨励し、皇帝の即位儀礼を定めるなどの功績が、実はあるのだという。
今回は、王莽が作らせた度量衡の基準を与える器 ~ メートル原器に相当するもの ~ が展示されていた。後に清朝の皇帝らがその意義を学び、これに類似した「原器」を紫禁城の一隅に設置したという。
「題賛」というしきたり!
絵は描かれただけでは完成しない。それが人々の手を渡るにつれ、次々と賛辞が記載され押印される。ひとつの芸術作品が、こうして成長していく面白さを思う。
「魚」の字は「余」と同じ発音をもつので、魚は中国でしばしば富の象徴とされた由。初代教会の信徒たちは、ιχθυς(魚)に信仰告白をこめて暗号としたのだったっけ。
乾隆帝の肖像画にはろくな人相のものがないと思ったが、テレビで使用されたこれは良いものだ。穏やかに微笑む髭の間から、今にも動き出しそうな好奇心が覗いている。
