散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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マッハステムと被爆クスノキ

2014-09-15 16:42:51 | 日記
2014年9月15日(月)
 ほぼ一か月前のことだが、これも忘れないうちに。
 8月18日(月)に長駆帰京したその晩、NHKスペシャルで長崎原爆が扱われた。
 広島はウラニウム型の「リトルボーイ」、長崎はプルトニウム型の「ファットマン」、核分裂のメカニズムが違うというぐらいのことだけ知っていたが、それと関連することかどうか、何しろ人とモノに対する破壊作用のあり方が違ったらしい。
 広島では熱線と放射能禍が主体であった。長崎のそれは凄まじい爆風が、すべてを一瞬になぎ倒すほどの力を発揮したらしい。しかもそれが爆心よりも外側で強まっているという。正確に再記できないが、上空で爆発した爆弾から吹き出す直接の衝撃波と、直下の地面にあたって外側へ吹き出す「反射波」とが干渉を起こして増強され、進むにつれて破壊力が強まるという悪魔的な現象が起きるのだと、あらましそんなふうに理解した。
 「マッハステム」と呼ばれるのだそうだ。
 投下前の計画段階で、この方式の爆弾が「爆心からどの程度の距離まで人を殺す威力をもつか、厳密に検証する」ことが求められたとある。緻密なものである。
 これだけ入念に準備したものであれば、むざむざ使わずに日本に降伏されたくはなかったろう。広島との比較も行いたかったはずである。わずか三日目に二発目の原爆を投下した心理は、容易に想像できる。

***

 話が逸れるけれど、「一発目はともかく、二発目は不要だった」という説 ~ 逆に言えば、少なくとも一発の原爆がなければ戦争終結は著しく遅れ、米兵はもとより日本人にもより多くの死傷者が出ただろうという説は、僕にはまったく同意できない。義戦 just war を信じなければ自らを支えられない、多くのアメリカ人がそれを主張したがるのはともかく、日本人までがそれを言うのはバカバカしさも度を越している。
 東京・大阪・名古屋を含むすべての大都市とほとんどの中小都市が「通常爆撃」で完全に壊滅し、艦船も航空機も銃器弾薬も底を尽き、食糧難から国民全体が飢え始め軍事教練もそこそこに芋を植えねばならない状態で、どんな抵抗ができたというのか。ただ放っておくだけでも、1945年の冬には大量の餓死者が出たことだろう。日本の表も裏も調べ上げていた米軍の指導者が、それを知らなかったはずがない。相手がノックダウンする前に、せっかく鍛えたパンチの威力を試したかった、それだけのことだ。

 そうは言っても、判断不能状態の日本の指導者にポツダム宣言受諾を決断させるには、他に方法がなかっただろうという反論も聞こえたりする。そんなこともない、方法はいろいろあったのだ。
 ポツダム宣言は「無条件降伏」を要求していた。これを文字通り取れば、どんな恐ろしい可能性もあり得ることになる。そして、当時の軍指導者が最も恐れたのは天皇の身の安全であったこと、想像に難くない。天皇が処刑されるぐらいなら、それこそ最後の一人まで死を賭して戦うことを、少なくとも軍人は辞さなかったはずである。
 だから、
 米軍主体の占領が早期に実現されれば、天皇の身の安全は守られることを、中立ルートを介して密かに伝達することが、たぶん最も早道だった。ついでのことに降伏が遅れてソ連が参戦し、先に東京に入るようなことが仮に起きたら、彼らは直ちに天皇を拘束し極刑を求めるであろうことも追加すれば、なお効果的だったろう。現にアメリカは、日本統治のために天皇制を維持することを早い段階から構想し、逆にソ連は、東京裁判でも天皇を戦犯に問うべく運動した。現実に起きるであろうことの予測を伝達することが、たぶんいちばんスマートな切り上げ方だったはずである。

 もちろん、アメリカにそんなことをせねばならない義理はなく、ルーズヴェルトは御親切にもソ連に参戦を要望している。僕が言いたいのは「他に方法がなかったというのはウソだ」ということ、それだけだ。
 念のために言うなら、嘗て「日本が非白人国家なので原爆を落とされた」という主張があったことについては、不賛成だ。アメリカでナチ・ドイツの扱われ方を見て確信したが、原爆がドイツ降伏前に完成していれば、必ずやそこで使ったはずである。その場合も、「必要であったかどうか」に関しては多くの疑問が残ったことだろう。

***

 以前、広島のアオギリのことを書いた。これに相当する被爆クスノキが、長崎にある。爆心地から800mの山王神社境内にある、二本が一体となった巨樹である。
 熱線と爆風で社殿は倒壊、社務所は全焼、社殿を囲む樹木もなぎ倒された。この大クスノキも幹に大きな亀裂を生じ、熱線で木肌を焼かれ、枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
 東のケヤキに西のクスノキ、生命のシンボルとして最高の樹木である。
  
 
 
 

人は城、人は石垣

2014-09-15 16:17:09 | 日記
2014年9月15日(月)
 また古くさい連想を、と言われそうだけれど。

 武田信玄は戦国時代屈指の名将で、特に軍事と民治の双方に長けていたという点で、他の追随を許さないのではないかと思う。その治世中、居城をもたなかったという驚くべき逸話が残っている。城郭を構えず、躑躅ヶ崎(つつじがさき)の館で生涯を過ごしたのだ。

 人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり

 信玄の境地を表すとされる歌である。
 見事なものだが、天才のみに為し得ることだった。勝頼はその末期に韮崎・新府城の建設を図り、完成を見ずに織田軍の侵攻を迎えて天目山に果てた。城の造営のため重い負担を課したことが、民心の離反をいっそう加速したともある。

 浦河でこれを思い出したというのは、「べてる」のような人のネットワークがあれば、精神科病棟という「城」なしでも、やっていけるかもしれないと考えたからである。しかし決して簡単ではない。
 精神科病棟がない状態を、人は「精神地域医療」と結びつけたがるが、考えてみれば精神病者監護法の時代には精神科病棟は事実上なきに等しかったのだ。今さら座敷牢に戻ることもあるまいけれど、病棟をなくすことが家族はじめ特定個人の負担を増やすこを意味するなら、必ずしも進歩とは言えない。

 天才のみに為し得る業でないことを願う。

「べてる」補遺

2014-09-15 15:40:16 | 日記
2014年9月15日(月)
 3週間経過、そろそろ「べてる」訪問の小括をしておかないといけない。
 といっても既に「べてる」はメジャーな存在だし、取材した表情報は放送教材に盛り込むんだから、ここでは行間の落ち穂を拾っておこう。
 同行のスタッフは、東京から一緒の女性ディレクターSさんと、札幌から合流したカメラのTさん、マイクのKさん、締めて4人。Tさん・Kさんのプロらしい仕事ぶりも印象的で、わずか数秒の風景撮影にもしっかり ~ 素人には長すぎると思われるほどの ~ 時間をかける。無論、彼らの頭の中には、できあがりの画面の候補映像がいくつも可能性として浮かんでおり、それを比較衡量し取捨選択する。プロ棋士が碁を打ちながら遂行する作業と酷似していると思う。マイクはマイクで、これまた別の周到さが必要に違いない。
 いっぽう、ディレクターは実行部隊の長ともいえる存在で、こちらがぼんやりしたビジョンとして提示したことを、次々と具体化しスケジュールに落とし込んでいく。気働きと配慮と全体的な展望が必要で、僕などにはとてもできない仕事であるが、職歴10年余りのSさんは終始冷静に、ほどよく緊張しつつ笑顔を絶やさず、これが天職という具合に充実している。名門の日大芸術学部だが、放送ならぬ映像学科を出てテレビ・ディレクターをしているのは、ちょっとした「裏切り」なんだそうだ。
 このSさんが、慧眼の持ち主である。

 2日目にSST(Social Skills Training: 社会技能訓練)を見学し、6人分のセッションからどれを選ぶかと聞かれ、2人分を挙げた。そのうちのひとり、キヨシさんは「べてる」創立以来のメンバーで、僕らの領域では全国区と言える著名人(著名患者?)である。そのキヨシさんが例によってちょっとした問題を抱え、午前の当事者研究でその発生メカニズムを解明し、午後のSSTで対策を検討するという流れになった。全体の構造が見え、申し分ない素材である。キヨシさんの紹介も兼ね、ぜひ使いましょう答えた。
 了解したSさんが、何だか言いたいことのありそうな表情である。やがて、
 「私は素人ですから、専門的なことは分かりませんが」と言葉を選んで、
 「キヨシさんは、自分が何を言えば皆が喜ぶか、よく分かって振る舞っているような気がするんです。」
 思わずSさんの顔を見てしまった。その通りだ。

 急いで念を押すが、キヨシさん達がまるっきり演技をしているとか、そんな話ではない。幻聴は常に彼の頭の中で響いており、それは10の中の2~3に退くことはあっても、決して0にはならない。常にこれと戦う日々が彼の日常なのである。
 だからこそ、長年を経て「戦いに慣れる」ということが起きる。ベテランとはもともと「古参兵」の意味である。
 キヨシさんは困難の処し方を身につけており、効果を熟知して当事者研究やSSTを活用している。それを見学者に見せることにも慣れている。僕は僕で、患者さんたちと30年近い付き合いの中で、彼らのそうした戦いぶりにも慣れている。それがSさんに敏感に伝わったのだ。
 Sさんの印象に最も残ったのは、発病まもない若い当事者さんが飲水衝動と戦いつつ、文字通り右往左往する姿だった。そうでもあろう。

 ***

 実はキヨシさんだけでなく、「べてる」そのものがある転換期にさしかかっているようだ。川村医師の語ってくれたことが、それをよく表している。
 その昔、向谷地ワーカーも川村医師も若く、「べてる」がまだ世に知られていなかった頃、本当に度肝を抜かれるようなことが毎日起きた。世界の誰もまだ知らないが、こんな凄いことが起きうるのだと、新鮮な発見の毎日だった。安定し、定式化され、世に知られて評価されるようになるにつれ、当然ながら新鮮味は薄れてきたかもしれないとおっしゃるのである。

 そんな「べてる」を取り巻く環境に、ある小事件が起きたのがちょうど僕らの訪問中である。
 浦河日赤病院の精神科病棟が、9月をもって閉鎖されることが本決まりになった。これまで、「順調に具合が悪くなった」時には「順調に入院することができた」頼みの綱である。浦河町内に他に精神科病床はなく、今後は離れた土地まで移送入院するか、それとも入院なしでこらえなければならない。
 大変だ?
 大変に違いないのだが、関係者の表情は緊張にこわばることなく、困りながらも笑っている。長年にわたって修羅場をくぐり続けてきた、まさしく歴戦のツワモノたちの微笑である。
 いわゆるバザーリア法のもとで、イタリアが精神病床を「捨てた」ことは大熊記者の著書などで知れ渡っているが、それはイタリアでも簡単なことではなかった。浦河は言ってみれば「バザーリア法施行下のイタリア」を他に先駆けて経験しようとしている。どういう条件があればできるのか、「べてる」ならばできるのか、新しいミッションを与えられた「べてる」新時代の始まりだ。

 ***

 考えてみれば、「当事者研究」とは面白い名称である。「当事者」はもともと「障害をもつ当事者」(放送大学の考査は「障害をもつ」を不適切とし、「障害のある」に変更するよう指示しているが、「障害のある当事者」はちょっとヘンである)のことであるわけだけれど。
 「障害」を「困難」と読み替えてみたらどうだろうか。誰でも人生の中で、一度は(あるいは一度ならず)何かしらの「当事者」になるだろうと思うのだ。そのように広げてみれば、「当事者研究」は人間が困難を生き延びるための一般的な方略を示すものになるだろう。
 
 実のところ、向谷地家の人々は「べてるの家」の一員として生活する中で、そのようなあり方を体現してみせているように思われる。
 向谷地氏自身の書いたものから引用しておく。
 「あきらめる」という「生き方の高等戦術」について書かれた章の末尾である。

 先日、アメリカの公立高校に留学している長女からメールが来た。
 「お父さん、紗良は、ちょっとしたことで眠れなくなります。敏感なのかな。歴史の時間に広島の原爆のスライドを見せられて、廃墟にアメリカ兵が星条旗を立てる場面があってね。すると先生は誇らしげに『僕は、この場面が一番好きです』と言ったんだよ。戦争には、勝者も敗者もないはずなのに、悲しくなってずっと下を向いていたんだよ。それから、眠れなくなって。紗良は、ノイローゼになりやすいのかな。でも、いいさ、もし、本当にノイローゼになったら、べてるの家に行こうと思っているから大丈夫・・・」
 さすが、「べてるの家」のメンバーに世話になって育てられた娘だと思った。あきらめ方がうまい。
(向谷地生良『「べてるの家」から吹く風』)

飽きもせず碁について ~ 「捨てる」という叡智

2014-09-15 13:29:27 | 日記
2014年9月15日(月)

 ついでだから、もう一つ碁について書いておく。
 かねがね身につけたいと思っているのが、「石を捨てる」という発想である。
 碁は陣取り合戦だが、相手の石を取ればその部分は自分の地になるうえ、対局終了後に取った石で相手の地を埋めることができるから二倍の得、おまけに「討ち取る」痛快さがあるからだろう、碁会所などでは眼の色変えて相手の石を取りに行く力自慢が大勢いる。
 しかしこれは、碁の品としては下なのである。ガツガツして感じ悪いというのもあるが、戦略として必ずしも賢明ではないのだ。面白いことに、石を捨てて相手に取らせることで効率よく成形するという手法があり、その方がはるかに有効で発展性が大きい。その証拠に、プロはどう石を取らせるかを心血注いで考え、「取ってください」「とりません」という押し問答が頻繁に現れる。アマは石を取りたがり、プロは石を取らせたがると言っても過言ではない。しかしプロだろうがアマだろうが棋理は同じと考えるなら、アマもプロを見習って悪いはずはない。むしろ見習うべきなのである。事実、「捨て石」を活用できるかどうかがアマの技量の良い指標になる。1~2子のプチ捨てが使えれば有段者、まとまった大きな石を上手に捨てられるようになれば高段者、そんな感じかな。陣取り・石取りという碁の基本ルールからは、実に不思議なことだけれど。
 そんなわけで僕は「捨て石」の腕を磨きたくて仕方がない。もっとも碁会所などでもそのように言う人は稀で、たいがいは「捨てる」のではなく「取る」ことに熱心で、ひょっとすると自分の願望自体が予後良好の徴候かもしれないとほくそ笑んだりする。
 その「まとまった石を捨てる」ことが、先日偶々できたのである。封鎖を突破しようとしてもがく相手の石がこちらの石に覆いかぶさってくる、最初はそれを防ごうと思ったが、ふと思いついて万端の一団7子ほどを捨ててキカし、外側の相手石をカケて制した。途端、中央に素晴らしい自陣の鉄壁が出現、一瞬にして盤面の風景が一変した。会心の捨て石、碁を始めて以来、最高の瞬間だったかもしれない。勝ちたくて碁を打つのではないとは、ここのところなのだ。

 それでですね、

 この教訓が人生に役立たないはずがないと思うんだが、これがてんでまだまだなのだ。
 何をどう捨て、代償に何を求めればいいのか、碁では少しわかってきたが、実生活では皆目見当がつかない。
 まあいいや、「心に留めて」ゆっくり考えよう。

 ところで昨日のNHK杯、蘇耀国八段が痛快な布石を見せてくれた。
 棋界に台湾出身者は多いが中国大陸の出身者は珍しいようで、蘇八段はその珍しいひとり。台湾出身の張栩九段と仲良しであることを前から聞いている。その張さんが最近、星に五線からオオゲイマにカカるという大胆な発想を披露し、名人戦リーグでも大事なところで使って話題を呼んだ。蘇八段は親友・張九段の試みをさらに進め、四隅とも五線オオゲイマにカカったのだ。
 テレビ桟敷で「お?おお?おおお?おおおおっ!」と叫んで家族に笑われたが、画面では解説の小林光一名誉名人と下坂美織二段が「わあああ」と大騒ぎしている。(お二人とも北海道出身だ。)
 蘇八段は常識へのこだわりを捨てたのかな、何しろこれだから碁は面白いんです。

「心に留めておく」という叡智/未完了過去

2014-09-15 11:44:46 | 日記
2014年9月15日(月)
 飽きもせずに碁を語るというのも、たかがボードゲームの一種でありながら、人生について考えさせられるところが非常に多く豊かに含まれているからだ。家康が、初めは「時間の無駄」として嫌ったが、後には戦(いくさ)についての好個の思考訓練として(?)奨励したという。さもありなん。
 先日、圧倒的に優勢の碁で、一隅に微妙な攻め合いが生じた。盤面全体で不確定の場所がそこだけだったので、最善手がよく分からないままに手をかけ、その間に他所を先着されて形勢が一気に混沌となった。盤側で見ていた高段者に依れば、手を入れなくても勝っていた攻め合いを、かえって負けにしたのだという。

 攻め合いの読みは僕の最も苦手なところで、そこを補強して読み切れるようになれば最善だけれど、この場合もうひとつ別の発想がありえた。
 「分からないところは、とりあえず放っておく」というのである。
 これがまた僕の盲点で、「分からないものも、分かるようにしなければ気が済まない」という強迫的な構えが抜けない。それは向上の原動力ではあるのだが、分からないことの多い人生で全てをこれ式でやっていると、必ず大きな破綻をきたす。
 分からないことも自分の技量ではやむなしと心得て、分かるところから打ちながらゆっくり考える、あるいは情勢が変わって自ずと分かるようになるのを待つ、それが賢さということだ。僕はこの賢さが足りない。

 そんなことがあった後で、カトリックの信徒向け雑誌のバックナンバーを眺めていたら、こんな記事が出てきた。筆者は大阪教区の松浦悟郎司祭、どこかの元・女子高生らは今でも「ゴローちゃん」と呼んで親しんでいるらしい。

***

 聖書はいつもいつも感動する言葉や話が載っているわけではありません。時には、理解しがたいところ、反発さえ感じることもあるのではないでしょうか。このように聖書の中でよく分からない箇所が出てきたとき、皆さんはどうしていますか?
 人によっては自分が理解しやすいようにこじつけて解釈したり、逆にその言葉に躓いて聖書から遠ざかったりもしています。そんなとき、一番大切な心構えは、ちょうどマリアのように分からないままでいいから「心に留めておく」姿勢かもしれません。その箇所についていろいろな説明を聞いたり、人生の体験を積んだりする中で、いつか少しずつでも「腑におちて」いくと思うからです。
 分からないために「心に留めている」箇所が多ければ多いほど、実は少しずつでも分からせてもらう歩みができるし、その分、人生の楽しみが多いということにもなります。
(『あけぼの』 1999年6月号)

 マリアのようにとは、イエスの誕生に際して天使が羊飼いに顕現したことを聞かされて、母マリアが「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ 2:19)とあることを指している。
 η δε Μαριαμ παντα συνετηρει τα ρηματα ταυτα συμβαλλουσα εν τη καρδια αυτης.

 「心に納めて」と訳されるのは συνετηρειで、これは動詞 συντηρεω の未完了過去。
 「思い巡らしていた」は συμβαλλουσα で、こちらは動詞 συμβαλλω の分詞。
 直訳すれば、マリアは「これらの出来事を思い巡らしつつ、すべて心に納めた」のだ。
 え~っと、分かりにくいのだが、「思い巡らす」行為と「心に納める」行為が別々なのではなく、「思い巡らしながら心に納める」というセットになっている。これが第一の要点。
 もうひとつ見逃せない第二の要点は、「心に納めた」とあるのがアオリストではなく、未完了過去であること。未完了過去は、一回完結を表すアオリストと対照的に、「過去進行形」ないし「過去の反復動作」を表す。ここは「進行」ではなく「反復」と取るべきで、「思い巡らしていた」というよりも「繰り返し思い巡らした」としたほうが、たぶんぴったりする。

 「思い巡らしながらすべてを心に納める」という動作を、マリアは何度も繰り返した。繰り返しはいつまで続いたか、おそらくマリアの人生の全長にわたり、その最後の日まで繰り返されたのだろう。
 そのように不明の聖句を味わい続けよと、ゴローちゃんの勧め、15年前に書かれたものを今朝発見している。