2014年9月15日(月)
ほぼ一か月前のことだが、これも忘れないうちに。
8月18日(月)に長駆帰京したその晩、NHKスペシャルで長崎原爆が扱われた。
広島はウラニウム型の「リトルボーイ」、長崎はプルトニウム型の「ファットマン」、核分裂のメカニズムが違うというぐらいのことだけ知っていたが、それと関連することかどうか、何しろ人とモノに対する破壊作用のあり方が違ったらしい。
広島では熱線と放射能禍が主体であった。長崎のそれは凄まじい爆風が、すべてを一瞬になぎ倒すほどの力を発揮したらしい。しかもそれが爆心よりも外側で強まっているという。正確に再記できないが、上空で爆発した爆弾から吹き出す直接の衝撃波と、直下の地面にあたって外側へ吹き出す「反射波」とが干渉を起こして増強され、進むにつれて破壊力が強まるという悪魔的な現象が起きるのだと、あらましそんなふうに理解した。
「マッハステム」と呼ばれるのだそうだ。
投下前の計画段階で、この方式の爆弾が「爆心からどの程度の距離まで人を殺す威力をもつか、厳密に検証する」ことが求められたとある。緻密なものである。
これだけ入念に準備したものであれば、むざむざ使わずに日本に降伏されたくはなかったろう。広島との比較も行いたかったはずである。わずか三日目に二発目の原爆を投下した心理は、容易に想像できる。
***
話が逸れるけれど、「一発目はともかく、二発目は不要だった」という説 ~ 逆に言えば、少なくとも一発の原爆がなければ戦争終結は著しく遅れ、米兵はもとより日本人にもより多くの死傷者が出ただろうという説は、僕にはまったく同意できない。義戦 just war を信じなければ自らを支えられない、多くのアメリカ人がそれを主張したがるのはともかく、日本人までがそれを言うのはバカバカしさも度を越している。
東京・大阪・名古屋を含むすべての大都市とほとんどの中小都市が「通常爆撃」で完全に壊滅し、艦船も航空機も銃器弾薬も底を尽き、食糧難から国民全体が飢え始め軍事教練もそこそこに芋を植えねばならない状態で、どんな抵抗ができたというのか。ただ放っておくだけでも、1945年の冬には大量の餓死者が出たことだろう。日本の表も裏も調べ上げていた米軍の指導者が、それを知らなかったはずがない。相手がノックダウンする前に、せっかく鍛えたパンチの威力を試したかった、それだけのことだ。
そうは言っても、判断不能状態の日本の指導者にポツダム宣言受諾を決断させるには、他に方法がなかっただろうという反論も聞こえたりする。そんなこともない、方法はいろいろあったのだ。
ポツダム宣言は「無条件降伏」を要求していた。これを文字通り取れば、どんな恐ろしい可能性もあり得ることになる。そして、当時の軍指導者が最も恐れたのは天皇の身の安全であったこと、想像に難くない。天皇が処刑されるぐらいなら、それこそ最後の一人まで死を賭して戦うことを、少なくとも軍人は辞さなかったはずである。
だから、
米軍主体の占領が早期に実現されれば、天皇の身の安全は守られることを、中立ルートを介して密かに伝達することが、たぶん最も早道だった。ついでのことに降伏が遅れてソ連が参戦し、先に東京に入るようなことが仮に起きたら、彼らは直ちに天皇を拘束し極刑を求めるであろうことも追加すれば、なお効果的だったろう。現にアメリカは、日本統治のために天皇制を維持することを早い段階から構想し、逆にソ連は、東京裁判でも天皇を戦犯に問うべく運動した。現実に起きるであろうことの予測を伝達することが、たぶんいちばんスマートな切り上げ方だったはずである。
もちろん、アメリカにそんなことをせねばならない義理はなく、ルーズヴェルトは御親切にもソ連に参戦を要望している。僕が言いたいのは「他に方法がなかったというのはウソだ」ということ、それだけだ。
念のために言うなら、嘗て「日本が非白人国家なので原爆を落とされた」という主張があったことについては、不賛成だ。アメリカでナチ・ドイツの扱われ方を見て確信したが、原爆がドイツ降伏前に完成していれば、必ずやそこで使ったはずである。その場合も、「必要であったかどうか」に関しては多くの疑問が残ったことだろう。
***
以前、広島のアオギリのことを書いた。これに相当する被爆クスノキが、長崎にある。爆心地から800mの山王神社境内にある、二本が一体となった巨樹である。
熱線と爆風で社殿は倒壊、社務所は全焼、社殿を囲む樹木もなぎ倒された。この大クスノキも幹に大きな亀裂を生じ、熱線で木肌を焼かれ、枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
東のケヤキに西のクスノキ、生命のシンボルとして最高の樹木である。
ほぼ一か月前のことだが、これも忘れないうちに。
8月18日(月)に長駆帰京したその晩、NHKスペシャルで長崎原爆が扱われた。
広島はウラニウム型の「リトルボーイ」、長崎はプルトニウム型の「ファットマン」、核分裂のメカニズムが違うというぐらいのことだけ知っていたが、それと関連することかどうか、何しろ人とモノに対する破壊作用のあり方が違ったらしい。
広島では熱線と放射能禍が主体であった。長崎のそれは凄まじい爆風が、すべてを一瞬になぎ倒すほどの力を発揮したらしい。しかもそれが爆心よりも外側で強まっているという。正確に再記できないが、上空で爆発した爆弾から吹き出す直接の衝撃波と、直下の地面にあたって外側へ吹き出す「反射波」とが干渉を起こして増強され、進むにつれて破壊力が強まるという悪魔的な現象が起きるのだと、あらましそんなふうに理解した。
「マッハステム」と呼ばれるのだそうだ。
投下前の計画段階で、この方式の爆弾が「爆心からどの程度の距離まで人を殺す威力をもつか、厳密に検証する」ことが求められたとある。緻密なものである。
これだけ入念に準備したものであれば、むざむざ使わずに日本に降伏されたくはなかったろう。広島との比較も行いたかったはずである。わずか三日目に二発目の原爆を投下した心理は、容易に想像できる。
***
話が逸れるけれど、「一発目はともかく、二発目は不要だった」という説 ~ 逆に言えば、少なくとも一発の原爆がなければ戦争終結は著しく遅れ、米兵はもとより日本人にもより多くの死傷者が出ただろうという説は、僕にはまったく同意できない。義戦 just war を信じなければ自らを支えられない、多くのアメリカ人がそれを主張したがるのはともかく、日本人までがそれを言うのはバカバカしさも度を越している。
東京・大阪・名古屋を含むすべての大都市とほとんどの中小都市が「通常爆撃」で完全に壊滅し、艦船も航空機も銃器弾薬も底を尽き、食糧難から国民全体が飢え始め軍事教練もそこそこに芋を植えねばならない状態で、どんな抵抗ができたというのか。ただ放っておくだけでも、1945年の冬には大量の餓死者が出たことだろう。日本の表も裏も調べ上げていた米軍の指導者が、それを知らなかったはずがない。相手がノックダウンする前に、せっかく鍛えたパンチの威力を試したかった、それだけのことだ。
そうは言っても、判断不能状態の日本の指導者にポツダム宣言受諾を決断させるには、他に方法がなかっただろうという反論も聞こえたりする。そんなこともない、方法はいろいろあったのだ。
ポツダム宣言は「無条件降伏」を要求していた。これを文字通り取れば、どんな恐ろしい可能性もあり得ることになる。そして、当時の軍指導者が最も恐れたのは天皇の身の安全であったこと、想像に難くない。天皇が処刑されるぐらいなら、それこそ最後の一人まで死を賭して戦うことを、少なくとも軍人は辞さなかったはずである。
だから、
米軍主体の占領が早期に実現されれば、天皇の身の安全は守られることを、中立ルートを介して密かに伝達することが、たぶん最も早道だった。ついでのことに降伏が遅れてソ連が参戦し、先に東京に入るようなことが仮に起きたら、彼らは直ちに天皇を拘束し極刑を求めるであろうことも追加すれば、なお効果的だったろう。現にアメリカは、日本統治のために天皇制を維持することを早い段階から構想し、逆にソ連は、東京裁判でも天皇を戦犯に問うべく運動した。現実に起きるであろうことの予測を伝達することが、たぶんいちばんスマートな切り上げ方だったはずである。
もちろん、アメリカにそんなことをせねばならない義理はなく、ルーズヴェルトは御親切にもソ連に参戦を要望している。僕が言いたいのは「他に方法がなかったというのはウソだ」ということ、それだけだ。
念のために言うなら、嘗て「日本が非白人国家なので原爆を落とされた」という主張があったことについては、不賛成だ。アメリカでナチ・ドイツの扱われ方を見て確信したが、原爆がドイツ降伏前に完成していれば、必ずやそこで使ったはずである。その場合も、「必要であったかどうか」に関しては多くの疑問が残ったことだろう。
***
以前、広島のアオギリのことを書いた。これに相当する被爆クスノキが、長崎にある。爆心地から800mの山王神社境内にある、二本が一体となった巨樹である。
熱線と爆風で社殿は倒壊、社務所は全焼、社殿を囲む樹木もなぎ倒された。この大クスノキも幹に大きな亀裂を生じ、熱線で木肌を焼かれ、枝葉が吹き飛ばされ丸裸となった。一時は枯死寸前を思わせたが、その後樹勢を盛りかえし、現在は長崎市の天然記念物に指定されている。
東のケヤキに西のクスノキ、生命のシンボルとして最高の樹木である。