散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

阿吽のこと

2013-05-20 14:52:52 | 日記

阿吽の呼吸という。

「こまいぬさん あ、 こまいぬさん うん」と昔の教科書にあった(そうだ)。

阿は口を開き、強く息を吐き出す姿

吽は口を閉じ、ぐっと力をためる姿

東大寺南大門の仁王像はじめ、阿吽一対の対照はダイナミックで力強い。

 

「阿・吽」はまるで擬音のようだが、源は梵語(サンスクリット語)であるらしい。

「阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音、そこから、それぞれ宇宙の始まりと終わりを表す言葉とされた」と wiki にある。

ギリシア・アルファベットのアルファとオメガを連想させるし、音価も近い。サンスクリット語はヨーロッパ諸語ときわめて近いらしいから、「阿吽」と「アルファ・オメガ」との間に語源的な関連があってもまったく不思議はない。

 

 

日本全国どこへいっても、狛犬や仁王像などは阿吽一対と決まっている。そうでないものを見たことがない。

以前これに関連して、勝沼さんが『狛犬かがみ』という楽しい本を探し出してくれたことがあった。

狛犬かがみ―A Complete Guide to Komainu (Japanesque)ISBN: 978-4902930047

 

それでますます好奇心が募る、というのが、

日本列島全域にわたってかくも徹底した阿吽の対称構造が、どうやら中国や韓国では見られないようなのだ。

試しに横浜や神戸の中華街を覗いてごらん。

それらしい一対のおシシはときどきあるけれど、阿とも吽ともつかない曖昧な口の構えで、二頭がまったく同じ顔をしているからね。

いっぽう日本の文化圏内では、どうみても欧米風を装った日本橋の麒麟(僕はずっとこれを西洋風のドラゴンだと思っていた)まで、律儀に阿吽の対位法を墨守している。

 

昨日はクスリの勉強会を日本橋のルノワールでやったので、帰りに皆で散歩がてら写真を取りに行った。

はい、この通り。(見づらくてごめんなさい、首都高が邪魔だね~、左が阿、右が吽、わかる?)

 

 

いつの時代から、なぜ、どういう機微で、日本文化の中に「阿吽」形式が定着したのだろう?

「中国や韓国では見られない」といったが、不勉強な自分の知る限りでしかない。

本当はどうなのだろう?

本当だとしたら、これは日本の文化のシンボルとしても良いようなものだ。

「力を発する阿」「力をためる吽」・・・王銘琬さんなら、「碁は殴るか、構えるか」というところ。

 

誰か、教えてください!

 

 

 


ペンテコステ

2013-05-20 14:42:06 | 日記

日曜日の朝は、毎週やってくる。

 

「足を踏み替える」ことについて、Y君からコメントがあった。

「使わせていただきます」と一言。

Y君は水泳の達人だけに、「体」から入ることについては感じるところがあるのだろう。

精神保健福祉の厳しい現場で、何かの助けになることを祈る。

 

宮部みゆき『荒神』連載は坦々と進行中。

「患者たちも、今朝はほどけてくつろいでいる様子」

「轡虫(クツワムシ)のように喧(やかま)しい女」

ひとつひとつの表現が良い。

このようにふさわしく用いられた言葉は、それだけで心をほどいてくつろがす。

 

*****

 

昨日は、また碁を打ちに行く時間があった。

相手は同じ五段のOさん、強い人だが、相性が良いので勝たせてもらっている。

しかし今は自分の碁がいけない。

いつもながら立ち上がりは悪くない。筋や形は悪くないから、局地戦で遅れをとることはあまりない。

問題はその後だ。昨日の場合、大いに地を稼いだので当然相手の石は厚くなる。その勢いをそぐにはそれなりの作法があり、まずはおっとり打ち進めればいいものを、勝手に危機感を高めて性急にかかっていき、弱い石を作ってしまった。こうなると力自慢のオジサン達の思うつぼである。追及され、ノックアウト寸前。

一局の碁は長い。最終盤、Oさんが慎重を期したためにかえって大きな隙ができた。乾坤一擲の逆襲、死にかけていたこちらの石が息を吹き返し、大石同士の攻め合いとなって逆転満塁ホームラン。

Oさん、ごめんなさい。内容は私の完敗でした。

 

どうもな~、性根の座らない打ち方になっちゃってるのだよ、このところ。

今の精神状態を表しているんだろうな。お恥ずかしい・・・

 

*****

 

先週から本因坊戦挑戦手合いが始まっている。

島根県大田(おおだ)市での開催は何でかなと思ったら、4世本因坊道策の出身地なのだな。

石見銀山跡とあわせ、同地の呼び物である。(知っている人には、だ。)

今年好調の高尾紳路さん、厚く打って追い込む棋風はわがお手本だが、第一局は残念ながら井山本因坊に黒番4目半の負けに終わった。

「たかお日記」にさっそく敗戦の弁。


>  途中までは、難しい碁でしたが
> 突然、暴発してしまいました。

> 精一杯、打った感じはありますが、
> やはり、肩に力が入り過ぎていたかも。

 

「たかお日記」は高尾九段のブログで、棋譜を示しながらの日々の記録がファンの好評を呼んでいる。

実は「散日拾遺」を始めるとき、「たかお日記」に励まされたところもあったのだ。

 

今日のNHK杯は小松英樹九段が王立誠九段相手に粘って逆転の1目半勝ち。

局後の「私の一手」で序盤の見損じを挙げたのが好印象だった。どうしたって自慢の一手を挙げたいものだが、アマでも気づくような錯覚を挙げ、「お恥ずかしい、失礼しました」とカメラに向かって頭を下げたのは立派ナリ。

そういえば数週間前、山城宏九段も同じコーナーで反省の一手を示してたっけ。小松九段も山城九段も中部総本部の所属棋士である。羽根康正・直樹父子に小県真樹、中野寛也、彦坂直人など、中部総本部には個性派が揃っていて、名古屋の中学を出た僕には嬉しいことだ。

 

*****

 

教会では、今日はペンテコステ(聖霊降臨節)だ。

イースター(復活節)から50日目、復活の後、天に去ったキリストの約束の聖霊が、弟子たちの上に注がれた日、「教会の誕生日」とも称される。クリスマス、イースターと並ぶキリスト教の三大祭とされながら、いちばん影が薄い。

 

ただ、それは西方教会(カトリック+プロテスタント)の話で、東方教会は事情が違う、らしい。

正教会では聖霊の働きと聖霊への信仰をきわめて重視するという。

「光」のイメージとも重なるだろうか。

 

東西教会の分裂(いちおう1054年としておく)にはさまざまな原因があったが、神学的にはフィリオクエ論争というものが伏線として挙げられる。ニカイア信条の正文を確定するにあたり、聖霊は父と子から発出する(ローマ公教会)のか、父なる神のみから発出する(ギリシア正教会)のか、この点をめぐる論争があったのだ。「と子(= filioque)」を付けるかどうかの問題なので、公教会側から見てフィリオクエ論争と呼ばれる。

不毛な神学論争と言ってしまえばそれまでだが、裏返せばそれほど往時の教会が聖霊のあり方を重視した証拠でもある。特に東方教会において、だ。

 

小学科礼拝で子どもたちにペンテコステの話をする。

成人礼拝では、聖歌隊がペンテコステにちなんだ讃美歌を歌う。21の腰の抜けた歌詞でなく、54年版なのがうれしい。

「慰め主 御霊にまします神よ 力ある歩みもて 主の証しを立つるため わが身にも満ちたまえ」

こども讃美歌にも良いものがあった。

「おことば信じ でしたちが ともに二階にあつまって ひたすらいのっているときに 神のみたまがくだります」

聖霊か

聖霊だ

いま必要なのは聖霊だ

それが欠けてたんだ

 

聖霊だ


足を踏み替える/ブタが塩辛

2013-05-18 10:07:09 | 日記

「足を踏み替える」

 

という表現を患者さんから教わった。

生活の中で、あるいは心の中で、重みの置き方を変えてみる。

これまではAのことに心のエネルギーの多くを注いできたが、それをBの方に移し替えてみる。

そんな意味だったようだ。

小中学校の朝礼で、校長先生の長い訓話の最中に、「休め」の軸足をときどき交代させた、あんな感じだろうか。

 

「少し、足を踏み替えてみようと思います」

 

この患者さんは、ヨガ、野口体操、フラダンスなど、体を動かすことをさまざまなやり方で長年続けている。なので、心の問題を考えるときにも、こんな表現が自然に出てくるのである。

心の問題に対して体の方向からアプローチするのは、実は不易の王道だ。現代の精神医学はこのことを見失い、その埋め合わせのように安易にむやみに薬を使う。

 

きのうは信仰についても面白いやりとりがあったが、事の性質上とてもじゃないがブログには書けない。

残念・・・

 

*****

 

突然ですが、

 

「ブタが塩辛を舐めたような」って、どんな状況だか分かる?

この表現は、手許の国語辞典類には載っていない。

ネットで引いても出てこない。

「おにぎりの名店、手前が豚キムチ、奥が塩辛」・・・ちがうってば!

 

では、御覧いただこう。

 

「1957年の十一月、水が涸れた。旱魃である。ライオンの獲物の草食有蹄獣の数が急激に減った。そうしたある晩のこと、ある狩猟監督官は、ブタが塩辛をなめたどころのさわぎでない深夜の悲鳴にたたき起こされた。サファリカーのライトを照らし、現場にかけつけてみると、なんとあのクロサイが二頭の雄ライオンに襲われ、引き倒されている。頬と首筋を一頭ずつにくわえられ、一トン半もあるサイが半死半生のありさまだった。」

 

ね、あったでしょう?

そして、ひどく臨場感を感じません?感じの出た、良い表現でしょう?

 

出典は『猛獣もし戦わば ~ 地上最強の動物は?』

昭和45(1970)年発行のワニのマークの新書版で、360円の定価が付いている。

中二の同級生が学校へ持ってきて、夢中になって読みふけった。

その時、さまざまな動物の姿と共に「ブタが塩辛」という表現が頭に焼きつき、わが語彙のうちに確固たる地位を占めたのだ。

 

しかし、

 

この表現には、その後二度とお目にかかったことがない。

気に入ったので自分はときどき使うんだが、すると誰でも笑うと同時にヘンな顔をする。

「聞いたことないよ、どこかの方言?」

 

で、昨年アマゾン古書で取り寄せ、確かにこの表現が使われていることをP.162に確認したのだ。

この小さな名編の著者は小原秀雄さんといって、昭和2(1927)年生まれのれっきとした動物学者。

哺乳類の研究や野生動物保護に果たした赫々たる業績については Wiki に譲る。

そしてこの方は東京生まれである。

東京のローカルな表現であるなら、この40年間に耳にしなかったわけがない。

 

んじゃ、どこから降って湧いたんだろう?

 

 

 


ユーモア

2013-05-16 11:44:48 | 日記

ユーモアって、何だろう?

 

いつになってもよく分からないが、ユーモアの中にこそ突破口があり解決の鍵があるはずだ。

真のユーモアには、まさしく回天の力がある。

 

『エスプリとユーモア』 河盛好蔵 (岩波新書)

『ユーモア』 フロイト

聖書はユーモアに満ち満ちているのに、日本の説教者でこれを分かっている人に会ったためしがない。

 

仕事中の呟き・・・


カフェラテ、モルタル、修学旅行、バラの日

2013-05-16 07:36:02 | 日記

カフェラテとカフェオレの違いは・・・

「イタリア語とフランス語」は裏回答、

カフェラテはエスプレッソ、カフェオレは通常の珈琲を、それぞれミルクと混ぜたもの。

エスプレッソは高い圧力をかけて短時間で抽出するもので、深煎りの苦みの強い豆を使う。

結果としてエスプレッソは旨味が凝縮されて濃いけれど、カフェイン含量は少ないんだって。

「多い」のかと思っていた。

 

*****

 

「木造モルタル2階建て」などというときのモルタルとは・・・

セメントと水に、砂(細骨材)を混ぜたもの。

セメントと水に、砂利(粗骨材)を混ぜたものがコンクリート。

モルタルの方が加工しやすいが、高価で扱いに熟練を要し、亀裂が入りやすい。

なので建材の標準から今は外れている。

 

*****

 

三男が二泊三日の修学旅行に出かけていった。

定番の京都・奈良だが、けっこうなことだ。

「アルカイック・スマイルを見てくるぜ」と宣言して出かけたが、あそこは隣に映画村があるんだよな。

彼はそれを知っているはず。あやしい、あやしい。

 

僕は名古屋の中学校から東京方面への修学旅行だった。富士山麓を回り、鎌倉を訪ね、国会議事堂に入れてもらったが、楽しみにしていた富士急ハイランド観光は雨で流れた。だからというわけでもないが、消灯時間後に女子部屋に集まってトランプをやっていて、当然見つかりこってり油を絞られた。

高校は東京だったから、めでたく京都・奈良へ。この時も女子部屋ゲーム大会はあったが、早い時間帯の健全なものだった。

昨年急逝した親戚のDおじさんが、自由行動の晩に連れ出して天ぷらを奢ってくれたのはこの時だ。

 

長男は確か中学が京都・奈良で、高校は長崎など。

彼が九州にいる時に稲尾どんが亡くなった。大分では福沢諭吉に匹敵する郷土の偉人だった。

滝廉太郎、南こうせつ、野上弥生子、大分も人は多く出ている。

 

次男は中学では岩手に出かけ、ものすごく感動して帰ってきた。そういえば、岩手に旅して失望したという話を聞いたことがない。

陳腐なようだが、京都・奈良とは別系統の「日本のふるさと」なのだろう。

高校は京都・奈良、新型インフル事件のため途中で引き返し、後半旅程を後日やり直した。

 

奥方は・・・いろいろなところへ行きすぎて、いつがどこだったか覚えていないという。

京都・奈良は遠足の距離、いいなぁ!

 

*****

 

S君から、「今日はバラの日だそうです」と朝のメール。

NHKラジオ、今朝の一首は

バラ百本いただきにけり はずかしいできごとなどはかくして匂う

(鳥海昭子)

先日はライラックだった。花を詠む(あるいは花に託す)達人と見える。

 

*****

 

一件訂正、孵化直後のカマキリは緑とも茶色ともつかない淡い色で、それが時間と共に緑になっていったという。

 

さて、仕事だ。