散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

突然、浮かぶこと

2014-08-26 08:44:22 | 日記
2014年8月26日(火)
 何がどういうタイミングで頭に浮かぶかは、ほんとうに分からない。

 「カンガか、あの人は才女じゃないや、でもルーかわいさに、何とかしちゃうだろ。」

 分かる?
 これ、プークマの親友のコブタ君が、洪水に降り込められて思案をめぐらす場面の台詞なのだ。
 「才女」とか、「〇〇かわいさに」とかいった表現を、僕は石井桃子さん訳のこの箇所で覚えたのである。
 それから半世紀も経って、波の音とカモメの声を開いた窓の向こうに聞きながら、浦河の宿で荷物をまとめているときに、このフレーズがふと浮かんでくる。
 解釈?
 くだらない。ありがたいことに、今朝も僕は生きている。
 そういうことだ。

浦河第一日: 当事者研究/インタビュー

2014-08-26 07:16:05 | 日記
2014年8月25日(月)
 あっけなく眠り込んで、朝まで波の音は気にもならなかった。意外に平気なものだ。ときどきカモメの声が混じっている。
 制作会社の女性ディレクターSさんと東京から帯同、金曜日にAAで会ったばかりだ。札幌から派遣されたカメラ&音声の男性2人は昨夕合流した。昨日のうちにざっとの下見、一緒にいると彼らの行動様式が次第に分かってくる。下見をロケハンというのは、location hunting の略だと教わった。どこでも業界用語があって面白い。
 今朝は8時45分の始動。
 9時から朝のミーティング、掃除などを挟んで11時から圧巻の当事者研究。これは別に書くことがある。
 ぶらぶらカフェでたっぷりの昼食をとり、ついでにTシャツを1枚買った。気温が思いのほか高いので、買ったシャツを水曜日には着用して帰京のつもり、そうなると悩んでしまい、「治りませんように」のロゴはついに買うことができなかった。
 午後は昆布の袋詰め作業を見学、同じ部屋で機を織っている人々があり、「さをり織り」の和やかな風景に思わず見とれる。
 夕方はカフェでインタビュー。忙しい向谷地さんは札幌NHK(僕らとは全く別系列)の取材で開始がだいぶ遅れたが、これが役得というもので取材にこと寄せてかねての疑問を直接いろいろと尋ねることができた。
 川村先生のクリニックを見学したいというと、向谷地さん、快く了解してくださる。浦河日赤から今年離れて開院されたばかりのクリニックへ伺い、ミーティングに陪席させてもらった。ミーティングというが・・・(以下、また後で)

浦河入り

2014-08-25 00:11:14 | 日記
2014年8月24日(日)
 5時半起きで空港へ、JAL505便で札幌に着いたのが12時過ぎ、高速バスで2時間あまりかけて浦河に入る。札幌を出た直後から、左手にはどこまでも続く原生林と道沿いの広々とした牧場、時折そこに2~3頭連れの馬の姿、右手にはいつの間にか海原が広がっている。この眺めだけで気持ちが寛いでくる。
 思いがけず、向谷地夫人が車でバス停まで迎えに来てくださった。向谷地氏と御長男はじめ、ベテルの高名な面々とお初にお目にかかり、オリエンテーションから車での要所案内まで、きれいに流れができている。年間の訪問者が3千人とのことで、広報作業が今のベテルの大事な役割のひとつになっている。
 投宿するホテルの名を言うと、皆申し合わせたように「えっ?」と表情を改める。「あそこしか、なかったんですか?」などとも。
 「行ったらびっくりしますよ」と向谷地さん、確かにびっくりした。まあいいや、寝具が清潔でありさえすれば・・・うん、清潔、かな。

 夕食を済ませてテレビを点ければ『軍師官兵衛』、何であんなに唾を飛ばしてしゃべるのかな、高解像度の画面では、官兵衛の口からシャワーみたいに唾が飛び続けるのが遠目にもはっきり見える。汚いんだってば。『竜馬伝』あたりから、大河ドラマの美的感覚がヘンになっている。リアリズムという言葉を勘違いしてないか?
 ニュースは道内の豪雨を報じている。T君の故郷の雄武町なども記録的な雨量のようだが、礼文島では土砂崩れが起きて死者が出ている。美しい島が、ここもまた災難だ。
 先日来、自分の行く先が決まって大雨で、北海道までそれを引きずり何だか申し訳ない気がすると思ったら、大阪でも豪雨のニュースだ。イヤな予感がしていたところ、案の定、長男から急を知らせてきた。先日以上の床下浸水である。

 しかし、どうも今年は気象がおかしい。浦河は牧馬と漁の街だが、目玉のひとつのイカ漁が今年はさっぱりだという。獲れるはずの魚が獲れず、サンマが高騰して今や高級魚、いっぽうで獲れるはずのないサバがむやみに獲れたりしているらしい。
 ホテルの部屋の真向かいが海岸で、打ち寄せる波の音が落ち着きなく騒々しい。眠れるかな、今夜は・・・

 

友達よ、これが私の

2014-08-24 00:21:59 | 日記
2014年8月23日(土)
 いろんなことがあって書きたいことがたまるほどに、書く時間は取れなくなる。根本的なパラドックスで、それが目下いちばんのストレスだ。
 詳細な日記を遺している偉人たちの、筆まめには実に驚かされる。

***

 日曜日の聖書箇所は、エフェソ2章11節以下、「心に留めておきなさい」の原文にあたりたい。
 ⇒ 項を改めて書く。

 18日(月)は関西・関東双方で渋滞にかかり、地震で東名をおろされた時よりも時間がかかったが、夜には猛暑の東京に着いた。夜、一杯やりながら点けたテレビ(NHKスペシャル?)で、長崎原爆のマッハステム効果について知った。いろんなことが腑に落ちた。
 ⇒ 項を改めて書く。

 19日(火)・20日(水)は放送大学の雑務処理と、昨年12月に聖学院大学で行った講演録の校正。校正というよりも推敲か。原稿をいじりだすと、他のことが手につかなくなる。ほんとはブログなんか書いてるヒマはないのだ。

 21日(木)は校正の続きと診療。
 22日(金)は昨日は診療の後、都内某所のAA(匿名断酒会)でテレビロケを行った。T先生からいただいた袋一杯のゴーヤをぶら下げ、歓楽街を通り抜ける図が傍から見ればおかしいだろう。
 ミーティングは18名、予想にたがわぬ度肝を抜かれる話の連続。概して女性の話が凄まじい。
 無事に終わって、TVカメラマンが機材を片付けながら問わず語り。
 「うちの親父もアルコールで死にました。酒やめないと死ぬよと言われて、それでも飲んで、肝硬変で。」「だから僕は、酒はいけません。」
 高松の人だそうである。今日の仕事に、あらためて感謝。
 帰り道に怪しげな客引きが頻りに声をかける。カモに見えるかな。ネギしょってないよ、ゴーヤなんだから。

 23日(土)、次男の出身高校を会場に、教員免許更新講習。これは去年も書いたんだったかな。
 講習なんてバカバカしいことだ、学校の先生たちをもう少し休ませないと、日本の教育はほんとに潰れるだろうに。
 終了後、前校長のHN先生、現副校長のHZ先生に久しぶりに会う。
 HN先生は稀代の名校長だったが、どうやら荷卸しの虚脱状態らしい。偉丈夫の貫録のある人なのに今日は妙に目がくぼんでいる。春には慰労・送別の宴が続いたあげく、痛風発作を起こしだんだと!それでも釣りや酒を止める気配はなさそうだ。ここにも一人、予備軍がいる。魚の実験のことなど、知性豊かな人の常で話し始めると止まらない。
 HZ先生は僕と同年で、お嬢さんが大学生、息子さんが高校生、お子さんたちの消息を問うと、待ってましたと熱弁をふるって、こちらも止まらない。確信犯的な親バカが何とも微笑ましい。
 さらに相棒講師のHS先生(みんなHだな、僕はIの人だ)、挨拶もそこそこに最近の監訳本、御恵贈あり。これが面白そうなのだ、えらいなあ。

 いちいち丁寧に書きとめておきたいが、明日は早朝に出て北海道へ。AAに続き、今度は『浦河べてるの家』ロケである。もう休まなくちゃ身がもたない。
 そういいながら、ついつい三男の三角関数の問題に巻き込まれてしまった。数学の問題を解くのは、いつだって楽しいものだ。詰碁よりも精神衛生には良さそうだし。

今週のこと ~ 戦責告白と水害

2014-08-22 08:03:35 | 日記
 5日間もブログを更新しないって、初めてかもしれない。
 無事でいるんですが、帰京後に締切過ぎの推敲作業があり、これに入り込むと他のことができなくなってしまういつもの弊である。ざっと振り返ると・・・

2014年8月17日(日)
 関西に晴れ間が戻り、午前中は駅4つ向こうのK教会の礼拝に出てみた。映画『阪急電車』の舞台になった今津線である。あれは僕の周囲では概ね不評だったが、ただ熱血院生のOさんは「えらい感動しました」「オレ、しっかりしよ思いました」と、涙目して言ったっけ。
 説教はゲストスピーカーで、同教会出身の女性宣教師がアメリカから戻り、体験を交えて語っておられる。
 アメリカで催されたメソジストの集まりにフィリピン人の牧師がいて、A先生の出自を知るや「父は私の目の前で、日本兵に斬り殺された」と声高に語った。騒然、しかし誰も言葉がない。A先生はその晩、日本の教団本部にファックスを入れ、日本基督教団戦責告白の英文を送ってもらい、そのコピーを会う人ごとに配った。
 数日後、件の牧師が自分から近寄って来て、抱きしめんばかりに詫び、和解を求めてきた。「私の言葉が、あなたを傷つけたことを、赦してほしい」と。

***

 出かける前に確認したら、「床下浸水」が実は継続進行中である。さっそく工務店に連絡し、午後には技術者がやってきた。奈良の現場から回ってきたのだそうで、盆の連休に彼らも大変である。
 
 しかしこれを書いている時点で、この件を「災難」などとは言えなくなった。
 広島市の死者・行方不明者が90人に増えた。それこそ言葉がないが、なぜ今こんなことが起きるのか。
 気象の根本的なありようが、大きくゆっくりと変化しつつあるということ?
 だとしたら、その対策にこそ叡智と資源を結集するのでないと。

 あとは後で。「戦責告白」の邦語原文を転載しておく。

***

○ 第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白

 わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
 まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて白覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
 わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。
 明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。
 わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
 「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すぺきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
 しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。
 まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
 終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。

1967年3月26日復活主日

日本基督教団 総会議長 鈴木正久