散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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「アイヌ」のこと、つまり我々のこと

2014-08-27 23:46:29 | 日記
2014年8月27日(水)
 
I先生:

 札幌観光への御助言、ありがとうございました。3時間の散歩を、おかげさまで大いに堪能できました。

 実は札幌、事実上はじめてだったんです。なので「時計台」が何なのかも分かっちゃいませんでしたから、拝観料200円で内部をゆっくり拝見し、決して失望しなかったです。
 北大のキャンパスは特に素晴らしい!ましてポプラ並木が台風で傷む前は、どんな眺めだったことでしょうか。父方の祖父が大正年間に北大で学んだはず、そのことを散策中にふと思い出したりしました。北海道は良いところですね。

 それだけに、なんですが・・・
 いい年して子供みたいな物言いで恥ずかしいんですけれど、先生、「アイヌ」って何なんでしょうね?
 「アイヌ」と呼ばれる人々がどういう存在か、という意味ではなくて(むろんそれもありますけれど)、この人々を過去においてこんな風に遇し、 そして現在に至っているということ、今の「アイヌ」を作りだした私ら日本人て何なんだろう、ってことです。
 先生なんか、その問いとずうっと対峙してこられたことでしょう。

 今年は4月に面接授業で沖縄を久々に訪問し、琉球/沖縄と「日本」についていろいろ考えさせられたのでしたが、沖縄とアイヌでは、疎外と取り込みの次元がまただいぶ違ったりして、そしていずれにしても「日本人って何だ?」というところに来てしまうわけです。
 浦河訪問でそれに直接触れる体験があったわけではないんですが、例えば浦河はべてる以前からアル中の多いところだったそうで、当然そこにアイヌの問題が透けて見えるのは、向谷地さんも書いていたし僕などにも容易に想像できます。そのことひとつとってもね。
 明治以降の日本人入植者の刻苦勉励と創意工夫は賞賛すべきもので、しかしそれがアイヌを滅亡に至らせるプロセスと連動してるというか共役してるというか、ひとつ事の裏表なわけですから・・・

 あの有名な祈りにあるような「変える勇気」と「見分ける知恵」が、どうしても必要なのだと思います。「彼ら」の問題ではなくて「我々」の問題なのですから。祈りそのものは「受けいれるおちつき」によって、より鮮やかに記憶されているようですけれども。

訃報: 米倉斉加年

2014-08-27 23:32:24 | 日記
2014年8月27日(水)
 米倉斉加年さんが昨日亡くなった。いろんな意味で魅力的な人だった。

 福岡県人と知って、合点がいった。
 7月22日に「白蓮事件」を取り上げた時、『花子とアン』で「筑豊の男」伊藤伝衛門を演じる俳優がいかにもそれらしい顔立ちで良い、棋士では三村智保九段と同じ輪郭だと書いた。米倉斉加年も、確かに同系統なのである。

 ・・・博多あたりの男性に特徴的な顔立ちというのがある(と僕は思う)。囲碁ファンなら、三村智保(みむら・ともやす)九段を考えてもらうと話が早い。おでこが張っているわりに顔の下半分は細め、口と唇は小さくてやや引っ込んでいる。ぐっと唇を結ぶと、いかにも感情は飲み込んでガマンガマン、不言実行、結果を出さねばといった気負いが似合って見える。

 でしょ?
 惜しい人が、また一人亡くなった。『坂の上の雲』で大山巌を演じたのが僕の記憶では最後だが、その後も精力的に活躍していたようである。大動脈瘤の存在を知っていたのかどうか、どうも残念だ。

***

米倉 斉加年(よねくら まさかね、1934-2014)、俳優・演出家・絵本作家・絵師。

福岡県福岡市出身。福岡県立福岡中央高等学校でバスケットボール部で主将を務めた。西南学院大学文学部英文科在学中に演劇に目覚め、大学を中退して1957年に劇団民藝入団、俳優としてだけでなく演出家としても活躍、2000年退団。

もとの本名は正扶三(まさふみ)だったが、幼い頃に旅の僧侶により「斉加年」と命名されて以降この名を名乗り続け、後に戸籍上も改名した。

著書『おとなになれなかった弟たちに…』は、中学1年生の国語教科書(光村図書)に採用されている(挿絵も本人によるもの)。第1回、第23回紀伊国屋演劇賞、第11回「新劇」演技賞。

繊細な奇人芸術家、または善良だが内気なインテリといった役柄を得意とする。NHKへの出演は多く、大河ドラマではしばしば大役を演じた。『風と雲と虹と』では国司でありながら将門の乱をたきつける皇族・興世王を演じ、『花神』の桂小五郎などは、民放や現在のNHKでは考えられない起用であり、高い知性やリーダーシップと神経質さをあわせ持つ桂像を構築してみせた。『明智探偵事務所』での準レギュラー、博多訛りの怪人二十面相役も知られている。善人としての持ち味は山田洋次監督に愛され、『男はつらいよ』シリーズに2度、恋敵役で登板したほか、端役でもしばしば顔出ししている。山田監督の愛弟子・高橋正圀が脚本を書いたNHKドラマ『僕の姉さん』二部作では、倍賞千恵子の夫となる美術教師役。これも善良なインテリであった。

絵師としては、ボローニャ国際児童図書展にて、1976年『魔法おしえます』で、1977年『多毛留』で、2年連続グラフィック大賞を受賞。この展覧会で大賞を2年連続で受賞したのは彼が初めてである。

「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めている。

2014年8月26日午後9時33分、腹部大動脈瘤破裂のため、福岡市内の病院で死去。80歳没。通夜・葬儀は、近親者や親族のみで執り行われた。

(Wikipedia より)

札幌観光/蒲田で足止め

2014-08-27 21:34:22 | 日記
2014年8月27日(水)
 11時のチェックアウトぎりぎりにホテルを出て、型通り札幌市内観光。アイヌ文化センターは是非行きたいと思ったが、札幌市南区のその地まで車で40分とある。さすが北海道、札幌だけでも広いのだ。スーツケースを引きずって歩ける範囲を歩き回る。土地っ子のI先生に助言ももらってあるので。
 旧北海道庁は雰囲気のある建物だが、門から玄関あたりを、いかにも頭の悪そうなビジネススーツの若い一団が埋めている。こんなところで何してるんだろう、風景そっちのけで「カラオケ行こう」だの「ゴディバがいい」だの声高に囀っている。男女取り混ぜ30人ほどの大集団、ほんとに何なのかな、「他所でやってくれないかな」なんて、もちろん言わない。
 次に時計台。I先生は「案外つまらないんで、失望しに行ってきてください」と書いたが、そんなこともない。200円払って中に入ると、札幌農学校の関連資料が手際よく展示され、明治初年の当地の雰囲気が彷彿される。新渡戸稲造はじめキリスト教の感化を受けた者が出身者中に多いこと、島根・愛知・東京・岩手など広い地域から生徒が集まってきていることなども面白い。面白いといえば、外国人観光客がこんなに多いとは思わなかった。英語・ロシア語も聞かれ、特に中国語がかなりの頻度で耳に入ってくる。彼らには面白いんだろうか。アメリカ人は時計がボストンのハワード商会製と知って、大いに誇らしげだったけれど。
 
 ついで電波塔から大通公園、歩車分離式の交差点に慣れず、車両用の信号が変わると反射的に歩き出しそうになって、何度かたたらを踏んだ。ここで踵を返して植物園脇を北上し、線路を越えて北大キャンパスへ。
 保育所脇の搦め手から入り込み、中心部の視界が開けて小歓声。樹木の林立する涼しげな草地のそこここに、コロニアル風の平屋が点々と覗かれる。中央のポプラ並木は「台風で傷んで往時の面影がない」とI先生がおっしゃるけれど、どうして十分素晴らしい。
 クラーク博士の胸像の背後が、いかにも心地よげな草原で、その底に清流が音を立てている。「サクシュコトニ」という川の名は、「くぼ地を流れる川のうち、豊平川に最も近いもの」という意味を持つのだそうだ。アイヌ語とは、どんな言葉なのだろう。もとはこの一帯を潤した豊かな川だったが、1950年代以降の上流域の「開発」以来、しだいに細って現在は大半が枯れたという。ベンチの若い男女が語らう言葉は、中国語のようだった。
 
 新渡戸夫人寄贈のハルニレを横目に正門を出れば、JR札幌駅は200mの至近である。3時間の散歩はこれで切り上げ、エアポート急行で新千歳空港へ。いったん席を取ったが、通路の向こうの女性が連れと並べるよう交代を申し出たら、別の女性が脱兎の勢いで駆け込み、僕の席を奪った。昨今は、ニホンザルでももう少し礼譲を知るように思ったが。
 札幌から北広島を経て恵庭、この地名は1962年から67年の「恵庭事件」で記憶に残っている。生業を妨害された酪農家が自衛隊の通信回線を切断し、これが自衛隊の違憲問題にまで発展したが、札幌地裁が憲法判断を回避したケースだ。
 空港でラーメンを食べる。今回のカメラマンもI先生も、異口同音に推薦のエビ味の店、午後3時を回り、北海道ラーメン道場と称する一画のこの店だけが行列している。15分ほど待って食べてみた。確かに美味しいが、他とこれほど差のあるものかどうかは、比べてみないと分からない。
 
 東京は雨、電車が京急蒲田で止まってしまった。品川あたりで停電が起き、復旧の見込みが立たないと。東急蒲田まで歩き、池上線経由で帰宅。札幌と蒲田で合計16,000歩、まずまずよく歩いたのだった。

***

 最寄り駅のコンビニで、レジの姉ちゃんが品物と釣銭を手渡しながら、
 「浦河はいかがでしたか?」
 耳を疑った。
 「ど・・・」
 「どうしてわかったか、ですか?簡単です。スーツケースを引っ張って、いかにもお疲れの様子ですから、飛行機で帰っていらしたに違いありません。そして失礼ですが、ネギとニンニクと油の混じったこの香りから、ラーメンを召し上がったことが一目瞭然です。空港でわざわざラーメンを食べるとすれば、札幌のラーメン道場に決まっています。今は学会シーズンでもないのに、わざわざ札幌までいらっしゃるのは、何か特別の用事があったからに違いなく、精神科のお医者様がそうまでして出かける用事といえば、浦河の「べてるの家」訪問を置いて他にありません。」
 「しかし・・・」
 「精神科のお医者様だと、どうしてわかるか、ですか?お顔に書いてありますよ、でかでかと。御自分で気がついていらっしゃらないんですか?」
 「ど、どこに?」
 「ここです、ここ!」

 ・・・なんてことがあったら面白いのにな。

浦河第二日: 消防署/教会/SST/インタビュー

2014-08-27 10:46:23 | 日記
2014年8月26日(火)
 三日目の朝、ようやく清々しい天気。青空に白雲、海沿いなのにさらさらした涼気を通して、まっすぐな陽光。色とりどりの花々に、巨大な蕗の茎と葉と。
 9時に始動し、消防署のてっぺんから風景を撮影。ついで浦河教会を経由してセミナーハウスで昼食風景を撮影。2時からSSTを見学し、終了後に向谷地悦子さんへのインタビューを収録して全行程を終了。
 まとめてしまえばこれだけだ。撮影クルーの車に便乗させてもらい、6時30分に出て8時30分には札幌に着く。進行方向の海に夕陽が沈んでいくので、一瞬方向感覚を失った(「彷徨感覚」と変換したPCはエラい、そんな感じだ)が、しかしそれで正しいのである。海上に金色の道が、目の前の浜辺から太陽までまっすぐに開けた。アイヌの人々は海と太陽に何を見ていたのだろうか。
 

 昨夜までとはあまりに落差の大きい札幌のホテル、かえって寝そびれて無為に夜更かしする。
 まとめられない詳細については、後日書きとめる。この間、広島の復旧は進まず、宝塚の我が家も同様である。韓国も豪雨で釜山が惨状を呈している。そこでもかしこでも気象が「爆発」し、どうやら当事者研究の出番のようだ。

浦河第一日: 続き

2014-08-27 10:13:46 | 日記
2014年8月25日(月)
 川村先生のクリニックを見学したいというと、向谷地さん、快く了解してくださる。浦河日赤から今年離れて開院されたばかりのクリニックへ伺い、ミーティングに陪席させてもらった。
 ミーティングというが、スタッフと当事者とスタッフ兼当事者とが渾然となっての20数名が、まだ調度類が何も入っていない大部屋の床に思い思いに腰を据え、今週後半の「べてる祭り」の幻覚妄想大会で誰を受賞者に推すか、話し合っているようなのだ。スッと立って帰って行った当事者兼スタッフは、どうやら自分が「新人賞」か何かにノミネートする期待をもっており、自分が居たのでは議論が進まないのではないかと考えたらしい。中座することによってアピールしたようにも思われる。
 合間には、九月末で浦河日赤の精神科病棟が閉鎖となることへの対応も議論されているが、事の重大さに比してヒステリックな思い詰めた感じがきわめて乏しい。昨日、ある患者の所在が不明になり、皆で時間をかけて探し当てたことなども、穏やかな口調で常にユーモアを交えて語り交わされている。
 やがて川村先生が戻ってきて、いちだんと笑いの頻度が高くなった。蟻の巣のハタラキアリの20%(?)が実は「ハタラカナイアリ」であることなど、含蓄が深い。
 名刺をお渡しして挨拶すると、「はあ、こんなところまで」とボソッと言われた。ミーティング後に診察室へ通してくださり、自然木を生かしたごっつく温かいデスク越しに、しばし話を聞かせてくださる。7つ年上のこの先生に、二つの共通点を見いだして嬉しくなった。
 ひとつ、他大学を卒業後に医大に入り直したこと。
 ふたつ、研修の初期にソーシャル・ワーカーに鍛えられて医者となったこと。
 道理で。