散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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俺って、怖い?

2015-01-19 22:50:10 | 日記

2015年1月19日(月)

 三男が帰ってきて、「俺って、怖いですか?」と祖父母に尋ねている。

 帰りの電車で、杖をついた高齢の男性が彼の隣りに立った。真ん前に座ったよその高校生は、気がついているのかいないのか、動く気配がない。

 どうしようかな、言ったもんかな、何しろここは席を譲るとこだろ、などと考えながら見ていたら、ふと相手が視線に気づいた。弾かれたように飛び上がると、荷物を抱えて隣の車両へ、逃げるように去って行ったのだそうである。

 

 「俺って怖いですかね~、取って食うつもりはなかったんだけど。」

 ほんとに気にしてるらしいのが可笑しい。180cm近い(そこまで高くないか)イガグリ頭(というほど短くないか)、それが上から睨んでいたから、ぎょっとしたのかもしれないね。

 僕なんか、そういう状況で少しは怖がられてみたかったけれど、ついぞ成功したためしがない。仕方ないから別の技法を使っているが、正味うらやましいよ。

 身体は自分のものだが、自分にとってひとつの所与でもある。それをどう使うかが、お人柄というものだ。若者たちのお手並み拝見である。

 


出歯亀 / 五寸釘の寅吉

2015-01-19 13:22:19 | 日記

2015年1月19日(火)

 ふと気になって、合間にネットで調べてみた。

 猟奇殺人事件でもあるのだが、それ以上にこれはかなり重要な冤罪事件である。

 出歯亀(本来は「出っ歯」の謂ではない、「どこにでも出張る」「出しゃばり」の意味で言われたらしい)の表象が生まれるに至るまでの、下級メディアの役割も無視できない。

 司法とマスコミ、それに無責任な大衆心理が雪だるまのように愚劣を積み重ねる中で、人柄としては決して褒められたものではない被疑者・池田亀太郎の人権のために戦った法曹家の存在が、かすかな光明を灯している。1908(明治41)年のできごとである。

 

 ネット上を転々とするうち、今度は五寸釘の寅吉に出逢った。

 「博物館 網走監獄」から転載する。(http://www.kangoku.jp/data7.html)

 まったく、すごい人間がいたものである。

 

***

 

監獄秘話「五寸釘 寅吉」


 ある時代の状況の中で、犯罪者が英雄視されることがある。時代の混乱がヒーローをつくり出すのである。

 明治の時代に生き、幾多の伝説を生み出した男がいた、その名を五寸釘の寅吉という。五寸釘寅吉こと西川寅吉は、安政元年3月(1854年)、現在の三重県に百姓の次男として生まれた。

 寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時である。

 賭場でイカサマがばれて殺された叔父の仇を討とうと敵の一家に忍び込み、親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。

 少年のため死刑を免れ、無期刑となって三重の牢獄に入れられた寅吉は、仇討ちをした相手がまだ生きていることを知り、牢獄を脱走。仇を求めて各地の賭場から賭場を渡り歩くうちに、すっかり渡世人の垢がしみついていった。世は一大転換を遂げ、年号は明治と改められていた。

 ある時、賭場が手入れをくらい、寅吉は逮捕されて三重牢獄に逆戻りしたが、二度目の脱獄をし、今度は秋田の集治監に移送された。しかし、寅吉は、ここもあっさりと脱獄してしまったのである。秋田から故郷の三重に向かって逃走する途中、牢獄でイカサマの手口を覚えた寅吉は、静岡のある賭場で荒稼ぎをした。元来指先が器用だったのでけっしてみやぶられることはなかった。しかし、一人であまりにも勝ちすぎたことから乱闘になり、数人に傷を負わせる事件を起こした。非常線が張りめぐらされ、巡回中の警官に発見された寅吉は、逃げる時に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまった。

 しかし、そのまま3里(12キロ)も逃走。結局、力つきて捕まったが、この時以来「五寸釘」の異名がつけられた。寅吉の身柄は東京の小菅監獄に移され、そこから遠い北海道の地に送られることになる。寅吉の名は全国に知れわたっていた。

  樺戸集治監では彼を畏敬する囚人たちの援助を得て、三度にわたって脱獄を繰り返した。一度目は明治20年夏、構内作業中、濡らした獄衣を塀にたたきつけ一瞬の吸着力を利用し、塀を乗り越えたという。人並みはずれた彼の脚力は捜査人を翻弄した。

 今日札幌に現れたかと思うと、次の日は留萌と、神出鬼没で、しかも豪商の土蔵から盗んだ金は、バクチで湯水のように使う一方で貧しい開拓農民や出稼ぎ夫の家に投げ込んだりしたため、一躍有名になったばかりでなく、庶民からもてはやされ一種のヒーローになっていった。

 しかし、半年後、釧路の賭場でついに捕まった。二度目はこの年の冬、吹雪のあとの除雪作業中、仲間が投げる雪煙にまぎれるように脱走。しかし、三ヶ月後に函館で逮捕され、再び樺戸に連れ戻された。三度目は仲間が食事の飯の中に隠して差し入れた特製の合い鍵で錠をはずして逃亡。警察当局の裏をかいてまんまと北海道を脱走し関西の大都市、大阪の人混みの中に姿を消した。

 全国に張りめぐらされた捜査網から逃れることはできず福岡で捕まり、再び北海道に送られて今度は空知集治監に収容された。だが、ここも間もなく脱走する。さすがの寅吉もこの時は40歳の峠を越し体力も衰えていたものと見えわずか一週間で逮捕され釧路集治監に収容された。そして、釧路の集治監が網走へ移動する時に、他の囚人たちと一緒に網走入りをしている。

  寅吉の脱獄は計6回におよんだ。前代未踏の脱獄歴である。

 しかし、14歳の少年期から悪の道を極めてきた彼も、網走に来てからは沈黙した穏やかな生活に入る。寅吉は監獄で働いて得たわずかな金を、捨てるように残してきた故郷の妻子に送金し続け、季節の変わり目には必ず手紙を書き送っていたという。大正13年9月、ついに寅吉の長い長い獄中生活に終止符が打たれる日がやってきた。

 寅吉はすでに72歳になっていた。

 彼の出所を手ぐすね引いて待ちかまえていたには、興行師たちだった。それを知った刑務所側は、彼が利用されるのを心配し、釈放日をずらし、秘かに出所させるなど配慮を払ったが、興行師の手を振り切ることができず、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。

 寅吉は幾人もの興行師に利用されたあげく、最後には捨てられた。昭和の初め、故郷の三重県に帰り、息子に引き取られて、平穏な生活に入り、畳の上で安らかな往生を遂げている。

 

 


第八戒 ~ 共同体規範としての

2015-01-18 16:52:16 | 日記

2015年1月18日(日)

 小学科の礼拝は、第八戒『盗むなかれ』。

 ただし、主題聖句として下記を引いている。

 「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。」
 「食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」(テモテⅠ 6:6-10)

 

 テモテのそれは死生観に関わる金言だが、概ね個人道徳に訴える形で書かれている。第八戒を守れない理由を貪欲に求めるのも至当、ただし、これには別の展開の方向がある。

 「貧困」だ。

 我々が豊かに恵まれているとき、掟を守るのは難しくないし、敢えて犯す者の貪欲を心安らかに糾弾することもできる。しかし現実には、この禁を犯さずには生きていけない者が存在する。ジャン・バルジャンは象徴だが、何も19世紀のフランスに戻る必要はない。この世界に、わが社会にすら、実例には事欠かない。

 

 午後の餅つきに、お腹を空かせた、よその子どもが来たらどうする?

 「分ける!」

 と20人の子供らが迷わず答える。

 君たちもお腹が空いていたら?相手の子どもが怖い顔をして、脅かすように要求したら?

 「・・・分ける!」

 子供らは天使のようなものだ。事実、彼らはそうするだろう。大人が、できないのである。

 

***

 

 話していて気がついた。モーセの掟は個人に対して与えられたのではない、旧約の共同体に対して授けられたのだ。共同体の全員が戒を犯さず、ひとりも盗むことなしに生きられるためには、全体が分け合うことができなければならない。

 「皆が分け合わないと、誰かが盗まなければならなくなる」

 この認識から貧困との闘いが始まる。ユダヤ人の中から多くの社会主義者が出たことを、彼らの疎外状況や国際的連帯の方向からばかり考えていたが、さらに素朴にして深い淵源がここにあったかもしれない。

 もちろん、キリスト教が継承したはずのことでもあるのだ。

 

 「十戒はひとりで守るものじゃなくて、皆で守るものなんだよ」

 分かりましたか、石丸君?

 


センター試験

2015-01-17 15:16:25 | 日記

2015年1月17日(土)

 センター試験、ご苦労さま。

 受験生もご苦労さまだが、あれは試験監督も疲れるのだ。日頃の学内試験の比ではない。不安や緊張がかくも鋭敏かつ強力に伝わることを、会場校の教員として協力した桜美林の数年間にとっくり経験した。問題を配布し始めてから用紙の誤配に気づき、補助の学生たちと学内の試験本部まで息を切らして往復したこともあった。

 

 ある年、何か事情があったのだと思うが、殊の外気を遣って一日目の監督にあたった。定員250だか400だかの大教室だったと思う。窓際と廊下側では採光も暖房も条件が違うから、こまめに室内を巡視して適宜調整する。むろん、足音は忍者のように秘めて歩く。

 支給されたマニュアルは、念が入りすぎて少なからずくどい。

 「毎時間、同じアナウンスを聞かされて『またか』と思うでしょうが、それでも間違える人がいるからね、辛抱しておつきあいください」などとおっとり語りかけると、それだけでも空気がなにがしか緩む。

 いっぽうで、

 「リスニングのトラブルで最も多いのは『装置の不具合』ですが、昨年の報告では『不具合』の99%が実は操作ミスでした。今から説明するとおり、落ち着いて操作しましょう。」

 などと、マニュアルにない言葉を加えてみたり。

 

 実は、こういう配慮は文科省的には「×」かもしれないのだ。そういう配慮を受けた会場と受けない会場では、受験生のパフォーマンスに差が出るかも知れない。公平性の観点からは、決められたこと以外なにも言わず、なにもしないのが正解である。

 こういう場面で(何も考えずにマニュアルを墨守するものは別として)、公平性を重んじて厳格にマニュアルを遵守するタイプと、軽微な逸脱の危険を犯してでも目前の受験生に配慮するタイプと、人が二つに分かれるのではないかと思ったりする。僕は葛藤しつつ後者に傾く性格で、だから医者だの教師だのが性に合っているのだろう。

 ただ、数百名の殺気だった若者が集まった空間では、些細なきっかけで思いがけないトラブルが起きることも考えられる。彼らの殺気をいくらかでも鎮めておくことは、単なる親切だけでなくトラブルを防止する意味をもった、僕なりのピラト的保身でもあるのだけれど。

 

 何しろ一日が終わった。外は真っ暗である。忘れ物、特に受験票に注意を促し、ねぎらいの言葉で締めくくると、空気がホッと緩んで人が流れ出す。

 その中から、男子が一人こちらへやってきた。正面から僕に向かって、

 「今日はありがとうございました」

 そう言うと丁寧に頭を下げた。

 

 この青年にとりたてて便宜を図ったわけではない。会場を埋めた多数の受験生の一人である。その中から彼一人が、こうしてやってきた。

 祝福された青年よ!このように感謝する力をもった君は、人生の成功者となる資質を豊かに与えられている。今頃、どこでどうしているだろうか。

 


紀伊の国坂

2015-01-17 14:02:51 | 日記

2015年1月17日(土)

 

 東京の赤坂通りに、キイノクニザカと呼ばれる坂がある ー それは紀伊の国の坂という意味だ。なぜ紀伊の国の坂と呼ばれるのか、わたしは知らない。この坂の片側には深くて大へん広い古い濠(ほり)があり、青々した高い堤の上は、どこかの屋敷の庭になっている。 ー 道の反対側は、御所の高くて長い塀がつづいている。街灯や人力車のないころ、このあたりは日が暮れるとごく淋しいところだった。だからおそくなって通る人は、日が沈んでからひとりで紀伊の国坂を登るよりも、むしろ何マイルも廻り道をしたものだ。

 それはみな、よくそのあたりに出るむじなのためであった。

 "Mujina" by Lafcadio Hearn / 中西秀男訳

 

 ・・・ 紀尾井坂じゃなくて、紀伊の国坂だった。紀尾井坂は清水谷の方の、大久保利通が暗殺されたところだ。 

 やっぱり出るんだ、坂道なんか通るんじゃなかった。

 怖!