3月13日、山口まで走った。
14時からのスラップ裁判(中電によるいやがらせ裁判)傍聴には間に合わなかったけれど、そのあとの「上関原発現状報告とミーティング」と山口県庁前での上関原発建設反対デモに参加。3.11後のこの日本において、既存原発再稼働もとんでもない暴挙だけどそれをさらに飛び越えて、なんで新しい原発を建設せにゃならんのか、経済的価値ってやつから見ても、全く意味が分からない。なにか、ものすごく不気味なものを感じます。
参加してみて、やはりこういうミーティングとかデモに参加することは大事だなと改めて思いました。政治は裏切る、マスコミも自浄作用なし、企業もそしらぬ顔、専門家は全く公平性に欠ける、自治体もしがらみまみれでがんじがらめ・・・、となると、結局、良識ある普通の市民が声を挙げるしかないのかもしれないな、と。
それに「ノーと言わないで黙ってると、自動的にイエスってことになる」。
そんな馬鹿な、と思うだろうけれど、世の中そういう構造になっているのだ。「ノー」とちゃんと表明することによって初めてイエスではなくなる。その人数が多ければ多いほど、機会が多ければ多いほど「ノー」が強くなる。そうなると向こうもおいそれと好き勝手にはできなくなるし、個人はさらに別の個人と繋がり、やがて国境を越えた国際世論にも繋がっていく。物理的にそうなる。
だから参加できる機会を見つけてできるだけ参加したほうがいいと思った。
いや、本心ではそんなことしたくないと思っている。ぼくみたいな中途半端者だけじゃなく、たとえ反原発に命を張ってきたような人でも、本心ではきっとそう思っていると思う。人生は短い。たった数十年だ。みんな、ほんとはこんなことよりももっと自分の夢の成就や自己実現にエネルギーを使いたいはずなのである。そして、にこにこ笑いながら山紫水明を愛で、花鳥風月を礼讃したいのである。
そうじゃない時代、そういうわけにはいかない時代。。
「みんな原発なんて要らないと思ってるはずなのに、
なんでワシがこんなことせにゃならんのだ」。
そう思うのが、人情ってやつだ。
だけど誰かが声を挙げないと、体を張らないと、
「イエス」になってしまう。
ああ、なんちゅう時代。
そんなことを思いつつ、翌14日は反核シンガーの内田ボブさんらとご一緒させていただき、感動的なライヴを観せていただきました。ボブさんの歌は非常に分かりやすく、のびのびと自然体のようでいて、無駄な言葉が一語もなく「てにをは」まで徹底的に考え抜かれ鍛え抜かれた歌詞だと感じました。帰りの車の中でもカーステで歌詞をじっくり吟味しましたが、ますますそう感じましたね。
特に「おお チェルノブイリ」という曲の、
「おお、死の時代 だけど おれたちの時代 だから」ってフレーズ。
前後の歌詞の流れと「だけど」「だから」という言葉を使う時の呼吸、あるいは使わない時の呼吸が、「なんて絶妙なんだ」と感銘を受けました。