この句の「もとより」とは、「本来、余命に長短があるとしても、全ての生けるものは余命を生きている」のであって、単に年取って「自分の長からぬ余命」のことだけを言っているのではない。
そして今、正月の儀礼とはいいながらも、作者は「屠蘇延命散」とも言われる長寿の薬酒を飲んでいる。この観念と現実の狭間に俳味がある、といっていいだろう。
さて、長いと思う二十才の余命も、短いと思う八十才の余命も、実は同じ長さなのである。なぜならば、人には現在があるのみで、過去や未来は知識や観念の中にはあっても、現実には存在し得ないからだ。つまり余命など存在しないのだから、長いも短いもへったくれもないのである。
2016.1.1.6:59