一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

1635   屠蘇祝う余命もとより長からず  進

2016年01月02日 | 

  この句の「もとより」とは、「本来、余命に長短があるとしても、全ての生けるものは余命を生きている」のであって、単に年取って「自分の長からぬ余命」のことだけを言っているのではない。

  そして今、正月の儀礼とはいいながらも、作者は「屠蘇延命散」とも言われる長寿の薬酒を飲んでいる。この観念と現実の狭間に俳味がある、といっていいだろう。

  さて、長いと思う二十才の余命も、短いと思う八十才の余命も、実は同じ長さなのである。なぜならば、人には現在があるのみで、過去や未来は知識や観念の中にはあっても、現実には存在し得ないからだ。つまり余命など存在しないのだから、長いも短いもへったくれもないのである。

2016.1.1.6:59

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