800 仇討に拍手喝采年の暮
(あだうちに はくしゅかっさい としのくれ)
元禄14年3月14日、江戸城、松乃大廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本・吉良上野介義央に、刃傷(にんじょう)に及んだ。
殿中での刃傷に対して、征夷大将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。それに対して、吉良義央には何の咎めもなかった。喧嘩両成敗とはならなかったのである。
元禄15年12月14日、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助義雄は、赤穂浪士(四十七志)と共に、本所松坂の吉良邸を襲い、吉良上野介義央の首を上げたが、四十七志は全員切腹となって決着した。
この一連の事件を「元禄赤穂事件」と言うそうだが、その後、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』として上演され、今日まで日本人の「仇討」礼賛へと発展してゆく。
現在、映画、テレビでこの忠臣蔵は大人気であるが、私はその人気の所以がどうも理解できない。何故なら、刃傷に及べば、お家断絶によって親族、家臣が路頭に迷うのは分かっていたはずで、それを無視して行動した浅野内匠頭長矩は、どうしょうもない馬鹿殿だったのである。
そんな馬鹿殿に忠義を守り、死を覚悟しての仇討に及ぶことは、私には理解できない。更に、そういう映画やドラマが、現代人に人気があることも理解できない。
本当に 大馬鹿もんの殿様ですね。吉良の殿様も、そこまで追い込んだというのも、大馬鹿モンですよね。
人間 後になってみると、ああすればよかった、こうすればよかった、と思うことだらけではないでしょうか?
浅野の長矩さんは 武士道を重んじ礼節を大切にし、正義感が強く、家臣をとても可愛がり、奥様も愛しておられて、家臣から慕われる いい殿様。
浅野家の台所は火の車で大借金。そこで、新しい人を登用し、新しい産業を起こし、やっと品質改良した真っ白い塩の生産に漕ぎ着け、売り出した矢先。
吉良様の方も塩の産地。ところが赤穂の塩は品質が良く、吉良の塩が売れなくなって来た。
吉良様にすると、さぞや浅野は儲かっているだろうし迷惑を掛けているので、饗応役のあいさつには立派な貢物を持ってくるだろうと思っていた。
浅野さんは、贈り物など賄賂に通じるもので、武士にあるまじき行為と拒否したいが家臣になだめられて、家老が貢物を届ける。
そのあたりからすでに波乱含みです。
吉良の殿様も領民に慕われるいい殿様。いい人といい人がなぜ??ですよね。
徳川幕府の初めの頃、多くの大名が改易や切腹になっていますね。みんな一矢報いて死にたいんだけどそんなことは出来ない。徳川家と言うのは非情なんですよね。
何故、浅野の家臣だけが討ち入りを行ったのか?そこには山鹿素行の存在が大きくかかわっていると言われますが、そのことはドラマでは全く出て来ませんね。山鹿流陣太鼓くらいしか出て来ません。
山鹿素行の軍楽書は発禁になり、島流しにされるのですが、その流された先が 赤穂に預けられ幽閉されることになります。
浅野長矩さんのお父さんの時代ではなかったかと思います。
山鹿素行の軍楽書は 後に明治維新の立役者になる本です。乃木さんなどは何べんも書き写しています。
書きだすと長くなってしまいますが、歴史の一点に、何かが集まっていくんですよね。
風さそふ花より団子我はまた春のスイーツいかにとやせむ
いやいや、またしても 馬鹿なことを書いてしまいました。私が一番の 大馬鹿モン でした。
訂正します。
軍楽書 → 軍学書 ですね。
「間違いだらけの車海老!」 でした。
山鹿素行の軍学書が明治維新にまでかかわるとは、知りませんでした。
いづれにしても、江戸時代に学ぶこと、おおいにありますね。