この句の着眼は、「聞きながら」としたところであろう。但し、作者が掃除していて、その音を作者が聞いている、のでは話にならない。そうではなくて、別の誰かが道路か庭などを掃除していて、その掃除の音を聞きながら、作者は別の何かをしているのだ。
仕事かもしれないし、料理や縫物、編物かもしれないし・・・・・と、読者は何を想像しても良い。つまりはっきり言わないことで、読者に想像の余地を与え余韻を残し、この句は成功している。俳句が、省略の文学と言われる所以である。
コフクザクラ(子福桜)
この句の着眼は、「聞きながら」としたところであろう。但し、作者が掃除していて、その音を作者が聞いている、のでは話にならない。そうではなくて、別の誰かが道路か庭などを掃除していて、その掃除の音を聞きながら、作者は別の何かをしているのだ。
仕事かもしれないし、料理や縫物、編物かもしれないし・・・・・と、読者は何を想像しても良い。つまりはっきり言わないことで、読者に想像の余地を与え余韻を残し、この句は成功している。俳句が、省略の文学と言われる所以である。
コフクザクラ(子福桜)