(ほとけてに こもれびしづく なつしょうご)
至福から法悦へ
二行読むのにも、一週間。それでもまったく理解不能という超難解なマラルメという詩人がいる。そんな詩的な俳句も、おもしろいかなと挑戦!
初夏のある日、欝蒼とした庭でハンモックを楽しむ。木々の薫り・鳥のさえずり。室内からB・エヴァンスの「流れの下で」が流れてくる。ハンモックに身をゆだね、独特の浮遊感を味わう。さまざまな思念が、浮かびまた消えていく。至福の時である。正午を回ると、風がでて葉々が揺れ、薄暗き世界に木洩れ日が、雫となって降り始める。光の雨の中で、自分という存在が希薄になる。ハンモックも抱擁感だけになり、なにやら御仏の掌の中で、生かされ生きるという法悦を味わう。この法喜の世界を、「しづく」という多義語を用い、詩的な俳句で表現した。「しづく」は、若い時に出遭った語で、名詞として、雫の意味を持つ。また動詞として「①水底に沈む②水面に映っている」の意味を持つ。御仏の光の海に溶け沈んでいるのだが、ただ沈んでいるのではなく、水面にも映し出される我ともいえぬ法悦の我。独りよがりの極みの句だが、まあそれもよし。
(合同句集「天岩戸」より 佐藤吠冲記)
長年の付き合いではあったが、離れて暮らしているお子さん達の連絡先を知らずにいたので、警察、大学などに問い合わせたが、亡くなった状況も連絡先も一切教えてもらえなかった。理由は、個人情報保護法であった。
親しい独り暮らしの友人の場合、年齢に関係なく必ず親族の連絡先を聞いておくべきだ、ということを痛感した。
いずれにしても、テニス焼けした健康そのものの吠冲さんは、来年3月の定年後を楽しみにしていた。テニス三昧、旅三昧、旨いものを作る三昧、映画やジャズ、クラシックの音楽三昧・・・やること一杯あり過ぎてと、嬉しそうに話していた顔が目に浮かぶ。
ある時私は、棺の「なきがら」を見るのを止めた。「お別れをして行ってください」と言われても、頷きはしても、決して見ない。何故なら、必ず思い出すのは棺の中の顔なので、淋しい、悔しい、腹が立つ・・・からだ。
何処で何時どのように死んだのかも分からないが、吠冲さん、あんたを思い出すのは、酒も飲まないのによくしゃべり、明るく笑っている顔なのだ。ありがとう吠冲!!たまには夢の中で遊びに来いよ!!