「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

四戸三平

2005-07-30 11:40:52 | 歴史・民俗
本日から山稼ぎ四連戦がはじまる。
私が言う山稼ぎとは、その名のとおり山仕事である・・・といっても木の切り出しとか枝打ちとかではないっ・・国土調査での地籍調査絡みでのこと、初日は夕方から所有山林の境の確認兼下草刈、翌朝は小、中父兄会の草刈作業、一日仕事に行った明けの日は大沢不動尊の宵宮での山道の下草刈、翌日、翌々日はいよいよ地籍調査で本格的に山に入るという予定です・・・嫌・・・ちなみに葬儀での墓穴堀も山稼ぎと呼びます。(住んでいる地区の班は戸数が少なく、不幸がありますと必ず山稼ぎの役目となります)


 さて、幕末~明治初期にかけて「遠野に過ぎたるもの二つ有、四戸軍馬に文武御宿」過ぎたるもののひとつ、四戸軍馬とは、四戸三平の馬術を評したものである。
 三平は遠野の町家の出であったが、幼い頃から馬が好きで、馬術の素質があったということで、遠野南部家士、馬術師範の四戸家の養子に望まれ、以後馬術の腕は天才的なことながらさらに磨きがかかり、遠野家中では肩を並べるものはなし・・とまでいわれました。
 遠野に四戸三平正之あり、この噂は盛岡藩主の耳に届き、三平は盛岡藩馬術指南役に抜擢され、以後盛岡藩士として生きることになります。
 江戸参勤にも藩主に付き従い、その馬術の腕は江戸でも評判になるほどだったと伝えられております。
 明治維新が成りますと新政府軍、近衛騎兵隊の教官となり、この時来日のロシア皇太子、明治天皇、各国要人の前で馬術を披露、一躍その名を高め、後に曲馬サーカスで名を上げている名人達の師匠筋はこの四戸三平に通じるともいわれ、画像の顕彰碑は、三平の弟子といわれる曲馬サーカスの草分け、石川清馬の建立となっている。
石川清馬もまた幼い頃から馬術の天才といわれ仙台藩重臣の馬術指南役となっていた人物であり、若い頃に四戸三平に見出され弟子入りしたといわれております。
石川は徳川慶喜と面識があり、東京芝の愛宕山の石段を愛馬にまたがり至難の業とされた石段の上り下りを成功させ、慶喜から葵の御紋の使用を許され、石川の生家である現宮城県唐桑には三つ葉葵紋の家が存在するとされる。

四戸三平先生記念碑
陸前國本吉郡唐桑村
門人石川清馬建之

遠野八幡宮境内・・・

ネットで知り合った曲馬関連で高名な先祖を持つ方と知り合い、四戸三平について少し調べた経緯がありました。数年前、その方と遠野八幡宮を訪ね記念碑をお見せした経緯もございました。
今後も機会あるごとにこちらも調べを続けたいと思います。
コメント (4)
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