「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

妄想遠野史・壱

2008-05-13 20:57:51 | 遠野史阿曽沼時代
 時折、遠野阿曾沼時代の通説を妄想交じりで考察して参りたいと思います。

 第一回は、「横田城」


 その前に、昨夜もジンギスカン。


 同僚達と少し遅い花見の宴
 街場の○まんにて



 こちらも遠野を代表するジンギスカンの名店、やはり美味かった。


 ジンギスカンの後は・・・・。



 アニメソングも少し新しいものを開拓しなければならないようだっ・・・笑


 翌日(13日)・・・


 午後から雲がさらに多くなり小雨もポツポツと・・・天候の回復は木曜日以降の予報とか。





◆妄想遠野史・・・横田城(護摩堂館)序章

 横田城址のある山野・・・松崎町光興寺



阿曽沼興廃記には・・・
 奥州平泉藤原氏征討の功により阿曽沼広綱は遠野郷を給され文治5年(1189)に築城とある。

阿曽沼家乗には・・・
 広綱の子、親綱が建保年間(1213~19)に築いて移住したとある。


 しかしながら築城年代も含めてこの時代の遠野における阿曽沼氏に関しては判然としていないが、伝承等含めて、最初は踊鹿山(八幡)を見出したが水の便が悪く、鶴音山麓の光興寺の護摩堂に築城したと伝えられている。
 城の背後の山は鶴音山と称されたが、清水が湧き出るところから高清水山と後に称されるなったとのこと。

 前面に猿ヶ石川が流れ天然の堀と成し、背後は鶴音山が控え、まさに要害といった場所柄でもあったと史家達は見解を残している。


 鎌倉時代、近年の見解では代官宇夫方氏を以って遠野を遠隔統治していたという説が主流となっており、私もその説を一応に支持はしているが、代官宇夫方氏は下駒木に仮館を築いて当初の遠野統治の拠点としたとされ、後に下向した宗家親綱と共に横田城を築いて本格的統治が始まったかのような通説になっている。

 遠野の中世期に築かれただろう館跡を探訪調査しているが、空掘やら土塁、段差のある平場をみても横田城は、室町期後半から戦国期にかけて築かれたと考察される他の山城とその基本的な構えは大差は感じられない。

 駒木にあったと云われる阿曽沼館、そして宇夫方氏が鎌倉期に築いたとされる綾織の谷地館は、平城の類で鎌倉武士団特有の館の構えであると考察しておりますので、横田城は後の時代の築、これでおそらく間違いないものと考えております。

 この続きは弐として、代官宇夫方氏の下向、阿曽沼氏の動向として詳しく見解を示したいと考えております。


主郭部分に建つ薬師堂


 



 
コメント (10)
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