「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

「遠野保」再び

2009-01-28 19:19:04 | 歴史関連コラム?
 ブログ更新、毎日更新は無理ながらも、3日を置くということは極めて少なく、ネタを探せなくても、それでも何かしらエントリーして参りましたが、今回は5日程の間が空いてしまいました。
 これよりまた平常に戻りたいと思いますのでよろしくお願いします。


 ということで、それほど内容的には変わり映えしませんが、かなり冷え切った遠野地方の朝、陽が高くなると青空が広がり、まずは近場の景色から・・・。


薬師岳、早池峰山





 見える範囲の大地に積雪は、ほとんどない・・・。


六角牛山



天ヶ森




 さて本題・・・遠野保について

 以前にも「遠野保」についてエントリーした経緯がありますが、やはり遠野は遠野保であった・・・という結論に近づいた形として結んでいたと記憶しております。


 そもそも遠野保とは・・・となりますが、歴史的公文書という位置付けでは、遠野という地名が登場するものとしての最古の文書は以前も記してますが・・・「遠野南部文書」陸奥国司北畠顕家から南部師行(又二郎)に宛てた、建武2年8月3日の国宣が存在している。




 阿曽沼朝兼からの訴えにより陸奥国司北畠顕家から北奥羽を管轄する建武新政下の奉行、南部又二郎師行にその対処について指令する内容であるが、この中に「遠野保」という文字があることから、少なくても建武新政以前から岩手県遠野市は遠野保であったとする紛れのない史実としている。

 しかし、以前にも笛吹童子氏がご紹介した内容、遠野保ではなく「遠野係」という説が存在し、「係」の草体を「保」と誤解し、それを「遠野保事」(遠野保のこと)と誤読したことによるものとしている。
 本来は「遠野係事」(遠野のあらそい事)ということらしいが、このことを指摘する学者先生が居たようです。


 さて、中世遠野の歴史を語る上で一応に鎌倉時代以降は下野国(栃木県)の阿曽沼氏が遠野の地頭だったとする説が通説であり、ほぼ史実といいますか、少なくても何かしら阿曽沼氏が遠野に関わりがあっただろうと思われます。
 しかし、それ以前の平安期は・・・平泉藤原氏の勢力下の時代は平泉に関わりある封主が居たものと想像はつくが、具体的に誰が・・・となれば全くの不明といった内容でもあると思います。

 遠野は「郡」でもなく「郷」「荘」でもない、「保」とされるのがなんとも興味深い。

 保とは特別な土地であり、本来は公領であるが社寺や朝廷、国衙の用にあてるために朝廷や国衙の承認を得て設定された土地という意味がある。
 平安中期以降に荘園制の変形版といった内容で成立といった考察がなされ、荘園が廃れた鎌倉期に成立した内容ではないのは確かで、遠野が遠野保ならば平泉の藤原時代以前かその中期には成立していたものだろうと推測される。

 しかし、本来は公領としての保、遠野保ならば何かしら封主一族の名やら或いは平泉に関わるものなら、平泉に関連した何かしらの伝承等も残されていても不思議ではないが、こちらも全く不明である。

 遠野は保だった、或いは前段に記しているように国宣の文中での誤読として「係」であったとしても、やはり私の住む遠野は昔から遠野と呼ばれる土地であったものと理解したい。

 建武新政下で北奥羽を管轄する検断職、南部師行は津軽地方から西は比内郡、そして南は閉伊郡まで管轄していたことは史料によっても明らかであり、遠野がその管轄の南限であっても不思議ではなく、国宣での処置に南部師行の名が出てもこちらもなんの不思議でもない。
 南奥州、いわきに遠野という地名があり、こちらの遠野保という説もあったようですが、南部師行との関連性からみれば、陸奥国遠野は現岩手県遠野のことであろう・・・・。

 おっと・・・汗・・・保、遠野保に関してまたもやウヤムヤになりそうですが、さらなる研究の加速に期待したいと思います。



 阿曽沼氏が遠野へ下向、遠野で最初に関わりをもった地域といわれる駒木地域



 その中心地、下駒木下村(堀の内)





※ 当ブログの内容として郷土史関連にて城館跡もエントリーしておりましたが、ウエブサイトリニューアルに併せて城館関連は全てブログに移転の方向です。
 よって、城館専門の新ブログを開設し、そちらで主に城館跡関連を展開して参りたいと思っております。
 一応、新ブログは仮ながらも開設しております。
 
 名称「遠野城館録」としております。
コメント (12)
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