後三年の駅・・・?
JR東日本 奥羽本線 後三年駅(秋田県仙北郡美郷町)
後三年の役の後半部分の主戦場
「後三年の役」の概要は説明板参照こと。↓
後三年の役(合戦)関連調べで、過去に2度程訪れたことがありましたが、当時は仙南村?だったような?・・・今回は歴史関連はちょっとで鉄関連もちょっと、さらに温泉にグルメ・・・と少しずつながらも今回と次回で横手辺りに出没して来たレポート含みでお伝えしたいと思っております。
その壱は「後三年の役」
後三年駅近くには、やはり後三年の役関連の史跡といいますか、歴史公園という位置付けの「平安の風わたる公園」がある。
こちらも、過去に何度か訪れておりますし、さらにもう少し行くと後三年の役での決戦場、「金沢の柵」跡があり、まさにこの界隈は後三年の役縁の地であることを物語っている。
雁がね橋・・・というそうです。
沼柵で源氏軍を破った清原家衡軍は、勝ちに乗じて家衛の加勢となった叔父である清原武衡の策を入れて、より堅固な要害、金沢柵(横手市)に籠城して源氏軍を迎え撃つ作戦をとる。
金沢柵攻撃のため源 義家率いる源氏軍は西沼辺りを進軍したとされる。
その西沼がこの公園辺りだと伝えられているらしい・・・。
中学の社会科教科書や高校日本史教科書?(私の時代はあったはず)に前九年の役、後三年の役の場面で、ある挿絵があったことを覚えている方もいるはず・・・それが・・・↓の絵・・・!
雁行の乱れ
源義家が金沢柵に進軍中、立馬郊付近にさしかかると、一行の雁(かり)が、俄かに列を乱して飛び散ったという。
これは何かあるなと思った義家は、かつて大江匡房から習った兵法を思い出し、「伏兵があるに違いない」と、附近を探させたところ、果たして西沼の附近から三十数騎の敵兵を発見し、これを全滅させたという逸話。
後半戦関連武将達
清原家衡
藤原清衡(平泉初代)の異父弟で、清原氏当主であった清原真衡(異母兄)に対し異父兄である清原清衡(藤原)と共に対抗、しかし真衡が陣没すると兄清衡との争いとなり、清衡には陸奥守であった源 義家が合力し、清衡、義家対家衡の大きな争いへと発展する。
出羽沼柵(横手市雄物川)にて源 義家率いる源氏軍を破るも、金沢柵へ移動し籠城。
源氏軍との激しい攻防戦を演じるが日本戦史初といわれる兵糧攻めに合い、遂に金沢柵は陥落、清原家衡は討死といわれる。
清原武衡
清原真衡、家衡の叔父とされる。
当初は日和見態度であったが沼柵で源氏軍を破った家衡に加勢し、より堅固な金沢柵への籠城を献策して自らも籠城する。
戦いは戦慄を極めたが、源 義家の弟、義光に密かに降伏を申し出るも義家に拒まれ、金沢柵が陥落の際は脱出するも後に捕えられて斬首された。
源 義家(八幡太郎義家)
後三年の役に先きんじた戦乱、前九年の役では父である源 頼義と共に安倍一族と戦い、出羽の清原一族の加勢により、安倍一族を滅ぼし武勇を称賛されたが、奥州、出羽の主権は源氏ではなく清原一族に与えられ、源氏は奥羽を去った。
前九年の役から25年、源 義家は陸奥守(陸奥国司)として返り咲き、清原氏の内訌に干渉して、清原清衡、家衡兄弟の争いに発展すると清衡に加勢して、遂に金沢柵にて清原家衡を討って勝者となる。
しかし、後三年の役は私戦と評され、朝廷からの恩賞がなかったばかりか、奥羽は清衡に与えられ、陸奥守を罷免され得るものは無かった。
源氏軍として戦った武士達には自らの私財を恩賞として与え功に報いた為、東国武士からは武家の棟梁としての名声を得て、強固な関係が築かれていったといわれる。
後三年の役では、女子供も容赦しない殺戮を行い、降人も許さず処刑したといわれ、天下一武勇の士と共に「八幡太郎恐ろしや」と言い伝えられるほど悪名も残している。
藤原清衡(清原清衡)
言わず知れた奥州平泉初代、藤原清衡・・・
概略は省略します・・・。
先の3人の武将の略歴とかで歴史的流れや位置付けは理解できると思います。