2003年頃から毎年、春と晩秋~初冬にかけての2シーズンに城館跡調査といいますか探訪をひとつのライフワークとしておりましたが、昨年辺りから郷土史関連への興味が薄れてきたのか?徐々に探訪回数も減少傾向となって、この春の探訪はゼロとなっておりますし、地元遠野市内もまだまだ未踏の城館跡があるにもかかわらず市外へ飛び出して探訪をしていたりと、とにかく今はライフワークと呼べる内容ではなくなっております・・・
そんな中、北上方面に行く道すがら、どうみても城跡と思しき形状が道路からみえ、以前から気になっておりましたが、撮り鉄ついでに道すがら、遂に立ち寄って来たということで、ご紹介いたします。
浮牛城(上口内館)・・・ふぎゅうじょう
北上市口内町松坂
大手側
本丸
空堀跡
帯郭
水堀跡
口内町内・・・旧城下
国道107号線沿いの産直施設の南側に小高い公園風の丘がみえるのですが、浮牛城跡かな?程度ですが、それでも気にしておりました。
そのうちに探訪しようとも実は考えてもいたのですが、城館跡探訪熱も冷めてきた昨今ということで、なかなか実現に至ってませんでした。
浮牛城は平山城ということで、比高もなく、公園風に整備されてますので歩き易く、それでいて空堀や枡形虎口、帯郭・・・といった遺構もよく残っております。
築城は天正年間(1573-1592)葛西氏配下で江刺郡主で岩谷堂城主、江刺兵庫頭重恒の三男と伝えられる口内帯刀隆朝が住していたと伝えられる。
今は北上市の内ですが、中世当時は和賀氏の領域ではなく江刺氏(葛西氏)の統治するところで、西側で北上市、北側で花巻市東和町の旧和賀郡を領有する和賀氏と隣接していた地域で葛西氏の北辺での要害で軍事、交通の要衝だったことが伺われます。
豊臣秀吉の治世となると主家葛西氏が没落すると江刺氏一族も没落、江刺重恒は南部信直に仕官したため、口内氏も江刺氏と行動を共にし、南部信直から現花巻市東和町毒沢、黒沢に500石余を拝領したと語られるも仔細は不明。
口内地域は木村氏を経て伊達政宗が治めるに至り、南部氏と境を接することになる。
初期においては口内地域と北で隣接の南部領は、旧主江刺一族が配されており、伊達家側では防備等の面で城の改築や防御上の工事をすすめ、今見られる遺構の多くは江戸期に整備されたものと推測され、城主城代歴代6氏が代わった後、元禄8年(1695)中島堅物利成が2千5百石余で転封され入部し、以来明治維新まで中島家が城主を勤めていた。
本丸梵字池跡
口内地区では、毎年8月に浮牛城祭りを開催しているようです。
地域の史跡としての城館跡と共にその歴史を大切にするという心、これからも受け継いでいただきたいと思います。
手前は帯郭、向こうにみえるのが国道107号線沿いの産直施設
いずれ、12月中頃まで積雪が無く、天候等が安定してましたら、花巻市東和町や奥州市江刺区の城館跡を若干探訪しようかな?とも思っております・・・が、どうなるかはわかりませんがね・・・
おまけ・・・
ぶっきみ~ワンダーランド
何故か子供用の自転車が増えている・・・?