室町時代の宝徳年間(宝徳2年・1450)、鎌倉時代以来、阿曾沼氏の代官として遠野の統治を担っていた宇夫方一族の牙城、綾織町二日町の谷地館(館主・宇夫方守儀)が、金成右京太夫政実率いる葛西の軍勢数百の突如の攻撃を受ける。
谷地館跡
谷地館八幡
忽然と現れた葛西勢、その攻撃は凄まじくも、当時遠野でも富強の家とされる宇夫方氏、家臣郎党も多くなんとかその攻撃を凌ぐと、鱒沢館主、鱒沢守綱、宮森館の宮森主水が手勢を率いて宇夫方側の援軍として駆け付け、葛西勢も攻め倦んだ。
葛西勢は窮余の策として山谷川を堰き止めて谷地館を水攻めとすると城方、大いに困惑したと伝えられる。
落城も時間の問題かに見えたが、達曽部民部、さらに稗貫郡の大迫掃部が大兵を率いて葛西勢に攻めかかると城方も大いに力を得て、門を開けて攻撃に転じる。
敵総大将、金成政実は宇夫方郎党、強弓で知られた大野十郎が放った矢を受けて討死、葛西勢は散々に打ち破られ、大挙して敗走したといわれる。
この戦いで寄せ手の大将、金成政実の子、13歳で初陣であった松千代も陣中にあったが、敗走途中に討ち取られ時の人々が哀れんで弔ったと伝えられる。
後に松千代の母親がこの地を訪ねたが、悲しさのあまり淵に身を投げたと伝えられる。
谷地館は、現在は水田地帯と化し、当時の面影は皆無であるが、谷地館八幡が静かに鎮座し、古に遠野郷に武威を誇った一族の館があったことを偲ぶことができる。
鎌倉中期か?宇夫方広治或いは広治の弟広光が築いたといわれる。
鎌倉武士団特有の平城といわれ、谷地の名の如く、当時は周囲は谷地といいますか湿地帯が取り囲み、外堀には山谷川の水を利用して水堀とし、土塁等も設けていたものと推測されます。
宝徳合戦については本編サイトに掲載しております。
参考までにこちら
宝徳合戦での疑問
○何故に葛西氏は宇夫方氏の綾織谷地館を攻めたのか?遠野を我物とするならば主城の横田城を攻めるのではないのか。
或いは上郷や小友の境をまずは侵攻して葛西領に組み入れるのではないのか。
○葛西勢数百の大軍は、どのルートを辿って綾織まで来たのか。
○横田城をはじめ遠野東側からの援軍がないのはどうしてなのか、主家阿曾沼氏は何をしていたのか。
以上ですが、遠野の歴史を今後も精力的に探求する過程で色々と見えてくるものと思ってます。
今回の宝徳合戦もまたしかりです。
以前、この石碑を撮影したことがありましたが、自分の姿が石に映し出されてはおりましたが、黄色の上着にて撮影、しかし、画像には真っ赤な上着となって写っておりました。
以来、一応我が身には何も起こってませんが、遠野でも大合戦といわれる戦いが繰り広げられた古戦場跡でもあり、今回も八幡様含み石碑にも手を合わせて参りました。
なお、宇夫方氏は後に新里に西風館を築いて移動しておりますが、宇夫方一族の誰かが後も居たものと思います。
西風館が急襲され西風館一族が没落すると同じく宇夫方氏も没落、谷地館は阿曽沼一族、上野広吉に与えられ、南部時代となり上野氏没落後に西風館氏末裔である西風館大学が谷地館に帰参という伝えとなっている。
以来、その末裔は宇夫方氏を名乗り遠野八戸氏(遠野南部家)に仕えている。
遠野古事記、旧事記、八戸家伝等・・・・の古書は宇夫方氏代々によるものです。
まさに遠野の文官といったところですね。
おまけ
本日も快晴・・・午前中は国土調査関連の図面閲覧と確認ということで、近所の古老を車に乗せて共に行ってまいりました。
あれれ、以前の登記よりも面積がだいぶ減っているぞ・・・少し説明を受けるも反論のしようがない、頷くことのみ・・・・一緒に行った近所の古老は逆に面積が増えたと喜んでいる、しかし、耳が遠いので何を言おうとも通じない・・・愚痴のひとつも言いたくなったが残念・・・・笑
谷地館跡
谷地館八幡
忽然と現れた葛西勢、その攻撃は凄まじくも、当時遠野でも富強の家とされる宇夫方氏、家臣郎党も多くなんとかその攻撃を凌ぐと、鱒沢館主、鱒沢守綱、宮森館の宮森主水が手勢を率いて宇夫方側の援軍として駆け付け、葛西勢も攻め倦んだ。
葛西勢は窮余の策として山谷川を堰き止めて谷地館を水攻めとすると城方、大いに困惑したと伝えられる。
落城も時間の問題かに見えたが、達曽部民部、さらに稗貫郡の大迫掃部が大兵を率いて葛西勢に攻めかかると城方も大いに力を得て、門を開けて攻撃に転じる。
敵総大将、金成政実は宇夫方郎党、強弓で知られた大野十郎が放った矢を受けて討死、葛西勢は散々に打ち破られ、大挙して敗走したといわれる。
この戦いで寄せ手の大将、金成政実の子、13歳で初陣であった松千代も陣中にあったが、敗走途中に討ち取られ時の人々が哀れんで弔ったと伝えられる。
後に松千代の母親がこの地を訪ねたが、悲しさのあまり淵に身を投げたと伝えられる。
谷地館は、現在は水田地帯と化し、当時の面影は皆無であるが、谷地館八幡が静かに鎮座し、古に遠野郷に武威を誇った一族の館があったことを偲ぶことができる。
鎌倉中期か?宇夫方広治或いは広治の弟広光が築いたといわれる。
鎌倉武士団特有の平城といわれ、谷地の名の如く、当時は周囲は谷地といいますか湿地帯が取り囲み、外堀には山谷川の水を利用して水堀とし、土塁等も設けていたものと推測されます。
宝徳合戦については本編サイトに掲載しております。
参考までにこちら
宝徳合戦での疑問
○何故に葛西氏は宇夫方氏の綾織谷地館を攻めたのか?遠野を我物とするならば主城の横田城を攻めるのではないのか。
或いは上郷や小友の境をまずは侵攻して葛西領に組み入れるのではないのか。
○葛西勢数百の大軍は、どのルートを辿って綾織まで来たのか。
○横田城をはじめ遠野東側からの援軍がないのはどうしてなのか、主家阿曾沼氏は何をしていたのか。
以上ですが、遠野の歴史を今後も精力的に探求する過程で色々と見えてくるものと思ってます。
今回の宝徳合戦もまたしかりです。
以前、この石碑を撮影したことがありましたが、自分の姿が石に映し出されてはおりましたが、黄色の上着にて撮影、しかし、画像には真っ赤な上着となって写っておりました。
以来、一応我が身には何も起こってませんが、遠野でも大合戦といわれる戦いが繰り広げられた古戦場跡でもあり、今回も八幡様含み石碑にも手を合わせて参りました。
なお、宇夫方氏は後に新里に西風館を築いて移動しておりますが、宇夫方一族の誰かが後も居たものと思います。
西風館が急襲され西風館一族が没落すると同じく宇夫方氏も没落、谷地館は阿曽沼一族、上野広吉に与えられ、南部時代となり上野氏没落後に西風館氏末裔である西風館大学が谷地館に帰参という伝えとなっている。
以来、その末裔は宇夫方氏を名乗り遠野八戸氏(遠野南部家)に仕えている。
遠野古事記、旧事記、八戸家伝等・・・・の古書は宇夫方氏代々によるものです。
まさに遠野の文官といったところですね。
おまけ
本日も快晴・・・午前中は国土調査関連の図面閲覧と確認ということで、近所の古老を車に乗せて共に行ってまいりました。
あれれ、以前の登記よりも面積がだいぶ減っているぞ・・・少し説明を受けるも反論のしようがない、頷くことのみ・・・・一緒に行った近所の古老は逆に面積が増えたと喜んでいる、しかし、耳が遠いので何を言おうとも通じない・・・愚痴のひとつも言いたくなったが残念・・・・笑
ここはひとつ愚痴の一つや二つ、我慢してやった下さい( ̄◇ ̄)ポケー
最近ねねの姿が見られませんねぇw
写真をとれたら、ぜひ載せてください!q(≧∇≦*)(*≧∇≦)p
遠野では珍しい平城形式。
阿部屋敷とともに気になる存在です。
ネネの画像は近日中に掲載したいと思います。
農地といいますか水田に囲まれている場所、かつては何かしら残されていたものと思いますが、今は神社の部分のみ、基盤整備なんかもされてますし、釜石線も通っていてかなり難しいものと思います。
でも館の領域は結構あったと思いますし、現在家々が立ち並ぶ東側、こちらに何かのこされている可能性はあるかもしれません。
そんな湿地の中に城を構えるとは・・・なんとも大胆な、さぞかし住み難そうな・・・
国土調査は私も昨年、小バトルを展開してしまいましたが、こちらの主張が受け入れられ一段落。しかし、法律で決定されていくことにはこちらも法律を知らねばならず、わかることが不可能な人にとっては不条理な事だと感じました。脳の中の引出しを全部開けていくためにアドレナリンが出っぱなしになりました。
地図にマーキングでもしてくれると嬉しいのですがー。
宝徳合戦の模様を勝手に映像化して読んでおりました。
どちら側から見るかで大きく変わってきそうですが、真実は一つな筈です。
更なる検証をご期待申し上げます。
歴史小説を書けますよ!(^^v
カクライガー歴史編の放映も間近!(爆)
湿地の中の館・・・夏は蚊がぶんぶん、道端には蛇がニョロニョロといった雰囲気がいたしますね。
ほんと、当初考えていたことが、さらなる疑問となって、再度の考察しなおし・・・という場面も幾度となくございました。
また他人の見解なんかも聞くとさらに・・・です。
史実はひとつかもしれませんが、それでも何故か胸躍る気分になるのは何故なんですかね・・・笑