朝、子供達を学校へ送って行く頃は霰が降っておりましたが、霙に変わりやがて本格的な降雪がお昼過ぎまで続き7~8センチの積雪となりました。
22日午前9時頃の画像
寒い日もあったけど、案外穏やかな12月と思ってましたが、クリスマスに合わせたかのような積雪、雪は少ない方が良いけど、それでも降る時に降らなければね・・・・笑
○ 青笹 中館探訪
12月21日、以前当ブログでエントリーした遠野菊池氏関連にて、青笹中下の菊池系図に関わる舘跡として、鳥古屋砦(館)のことが記述されており、青笹赤羽根辺りの山野に何か館跡と思しき形跡はないかと思い、赤羽根地区の通りをゆっくり車で流しておりますと、八坂神社のある山野西側に空堀跡か?と思えるような形状を確認、山も高くなく、歩きやすい雰囲気でもありましたので、訪ねて参りました。
山というより丘陵といったところ、頂部の平な場所は農地として整地されてはおりますが、さほど手を加えなくても平な場所だった雰囲気が感じられる。
車中で城館跡の例の資料を見ると、場所的に中館という近世屋敷跡と判明、いささか拍子抜けといったところでしたが、簡略図面には4本の堀が描かれ、屋敷跡というより平山城(館)そのもの、図面と現在地を照らし合わせて早速、空堀探しからはじめる。
西側中央部分の空堀
西側の郭との境を区切る堀切というべきか、雰囲気的には山野の西外れまで館跡のようだ。
背後の空堀
深さ、幅共に遠野では大きい部類で残存度も良好、今年見た堀跡では一番大きい。
東側、八坂神社側からの空堀
北部分の帯郭
☆中館・・・遠野市青笹町糠前(赤羽根)
平山城 標高325・比高25 丘陵・堀・八坂神社・墓地
館主 中館勘兵衛政常(八戸家家老)
使用年代 南部藩時代(江戸時代)
近世に使用されていた館跡ということで、空堀跡は明確に残されておりますが、帯郭等の段差ある形状は近年に農地とされていたと推測され、若干であるが平削された雰囲気を感じる。
空堀が枡型に東西南北に走り、それぞれ仕切られ4つの郭によって構成されている。
主郭は八坂神社側の一段高い平場と思われますが、形状はかなりの相違がありますが、雰囲気といいますか、考察するに八戸根城のミニミニ版といった雰囲気が小生は感じられました。
八戸氏重臣の中館氏、遠野に移って来てから故地八戸根城の雰囲気を残す館を築いたものなのか?
八坂神社
祭神・・・須佐之男命(スサノオノミコト)
さて、舘跡について地元の方に訪ねてみようと思い、八坂神社前の地区集会場に車を止める。
天の助けといいますか、丁度集会所で地域のご年配(老人クラブか?)の皆様の集まりがあったようで、運よくお帰りになるご年配の男性が出て来たので訪ねてみると、この男性、かなり地域の歴史についてお詳しい雰囲気・・・色々と講釈をいただき、たいへん参考になりました。
舘跡の一角に墓所がありますが、遠野南部家老中館一族の墓所との言い伝えとか・・・。
中館氏といえば遠野南部家では新田小十郎家に次ぐ第二席の家柄、野辺に墓所があるとは考えられない、あったとしてもある時期に然るべく菩提寺等に移されているとみるべきでは・・・・(喜清院がかつてこの近辺にあったというのでその名残か?)
それと中館氏といえば鍋倉城三の丸に屋敷があったと伝えられているが、何故に館形式の屋敷が青笹にあったのか?
三の丸の中館屋敷は慶安4年(1651)に鍋倉城本丸が飛び火で焼けた際に類焼して福田屋敷と共に全焼したとのことで慶安4年以前から三の丸に屋敷があったことになります。
水堀跡
今は水量の少ない単なる水路と化しているが、お話を伺ったご年配の男性が若い頃は小川であり、釣り等魚捕りもできた流れであったと言います。
かつての水堀だったとも言われております。
なるほどと、十分その雰囲気が感じられます。
最後に、遠野南部氏重臣、中館氏の知行地に糠前は含まれており、他に細越村、佐比内村(上郷)となっている。
遠野入部当初は新田氏、中館氏、岡前氏の八戸時代からの大身は大守南部利直よりその知行地の指定がなされており、伊達藩との境目の地域に割り当てられ、これらの家臣達が番所に勤務していた関係で中館氏は青笹に一時期屋敷を構えていたのではないのか?
しかし、平山城とはいえ、その構えは物々しい内容でもあり、中館氏以前から存在した館跡をさらに修復して使っていたのではないのか?このことが見え隠れする思いでもあります。
○ お知らせ
「遠野ぶれんど忘年会」
日時・・平成20年12月27日(土) 午後6時30分開宴
場所・・タントタント(中央通り)
会費・・ご心配なく・・・笑
本日のネネ
笑うしかない格好・・・。
22日午前9時頃の画像
寒い日もあったけど、案外穏やかな12月と思ってましたが、クリスマスに合わせたかのような積雪、雪は少ない方が良いけど、それでも降る時に降らなければね・・・・笑
○ 青笹 中館探訪
12月21日、以前当ブログでエントリーした遠野菊池氏関連にて、青笹中下の菊池系図に関わる舘跡として、鳥古屋砦(館)のことが記述されており、青笹赤羽根辺りの山野に何か館跡と思しき形跡はないかと思い、赤羽根地区の通りをゆっくり車で流しておりますと、八坂神社のある山野西側に空堀跡か?と思えるような形状を確認、山も高くなく、歩きやすい雰囲気でもありましたので、訪ねて参りました。
山というより丘陵といったところ、頂部の平な場所は農地として整地されてはおりますが、さほど手を加えなくても平な場所だった雰囲気が感じられる。
車中で城館跡の例の資料を見ると、場所的に中館という近世屋敷跡と判明、いささか拍子抜けといったところでしたが、簡略図面には4本の堀が描かれ、屋敷跡というより平山城(館)そのもの、図面と現在地を照らし合わせて早速、空堀探しからはじめる。
西側中央部分の空堀
西側の郭との境を区切る堀切というべきか、雰囲気的には山野の西外れまで館跡のようだ。
背後の空堀
深さ、幅共に遠野では大きい部類で残存度も良好、今年見た堀跡では一番大きい。
東側、八坂神社側からの空堀
北部分の帯郭
☆中館・・・遠野市青笹町糠前(赤羽根)
平山城 標高325・比高25 丘陵・堀・八坂神社・墓地
館主 中館勘兵衛政常(八戸家家老)
使用年代 南部藩時代(江戸時代)
近世に使用されていた館跡ということで、空堀跡は明確に残されておりますが、帯郭等の段差ある形状は近年に農地とされていたと推測され、若干であるが平削された雰囲気を感じる。
空堀が枡型に東西南北に走り、それぞれ仕切られ4つの郭によって構成されている。
主郭は八坂神社側の一段高い平場と思われますが、形状はかなりの相違がありますが、雰囲気といいますか、考察するに八戸根城のミニミニ版といった雰囲気が小生は感じられました。
八戸氏重臣の中館氏、遠野に移って来てから故地八戸根城の雰囲気を残す館を築いたものなのか?
八坂神社
祭神・・・須佐之男命(スサノオノミコト)
さて、舘跡について地元の方に訪ねてみようと思い、八坂神社前の地区集会場に車を止める。
天の助けといいますか、丁度集会所で地域のご年配(老人クラブか?)の皆様の集まりがあったようで、運よくお帰りになるご年配の男性が出て来たので訪ねてみると、この男性、かなり地域の歴史についてお詳しい雰囲気・・・色々と講釈をいただき、たいへん参考になりました。
舘跡の一角に墓所がありますが、遠野南部家老中館一族の墓所との言い伝えとか・・・。
中館氏といえば遠野南部家では新田小十郎家に次ぐ第二席の家柄、野辺に墓所があるとは考えられない、あったとしてもある時期に然るべく菩提寺等に移されているとみるべきでは・・・・(喜清院がかつてこの近辺にあったというのでその名残か?)
それと中館氏といえば鍋倉城三の丸に屋敷があったと伝えられているが、何故に館形式の屋敷が青笹にあったのか?
三の丸の中館屋敷は慶安4年(1651)に鍋倉城本丸が飛び火で焼けた際に類焼して福田屋敷と共に全焼したとのことで慶安4年以前から三の丸に屋敷があったことになります。
水堀跡
今は水量の少ない単なる水路と化しているが、お話を伺ったご年配の男性が若い頃は小川であり、釣り等魚捕りもできた流れであったと言います。
かつての水堀だったとも言われております。
なるほどと、十分その雰囲気が感じられます。
最後に、遠野南部氏重臣、中館氏の知行地に糠前は含まれており、他に細越村、佐比内村(上郷)となっている。
遠野入部当初は新田氏、中館氏、岡前氏の八戸時代からの大身は大守南部利直よりその知行地の指定がなされており、伊達藩との境目の地域に割り当てられ、これらの家臣達が番所に勤務していた関係で中館氏は青笹に一時期屋敷を構えていたのではないのか?
しかし、平山城とはいえ、その構えは物々しい内容でもあり、中館氏以前から存在した館跡をさらに修復して使っていたのではないのか?このことが見え隠れする思いでもあります。
○ お知らせ
「遠野ぶれんど忘年会」
日時・・平成20年12月27日(土) 午後6時30分開宴
場所・・タントタント(中央通り)
会費・・ご心配なく・・・笑
本日のネネ
笑うしかない格好・・・。
良く行きます・・・この界隈。
だってウチの親戚のお宅の目の前だから(w
この辺りは附馬牛から引っ越してきた方々が多いそうですね~
やはりこの季節の遠野は「雪景色」が似合う。
こういう絵を見てしまうと・・・ココロが疼く。
タントタントですね。ラジャー!(w
嘘ですよ。ウソ・・・
町とつぎもすしか知らなくて、青笹の中舘姓は近年知ったばかりでした…ご家老ですたか
で、タントタントれすね、おけですよぉ
日程だけはびしっと押さえてましたからぁ(笑
一度、夏の盛りにまがってみましたが、風も無いのに揺れるブランコのお陰で暑さが瞬時に引きました(w
神社の裏手は牧草地でしたから、とらねこさんは反対側から館攻めをしたのすね。
堀跡からいろいろでてきそうで興味深々。地元の代官所を発掘したとき簪(かんざし)が大量
出土したと聞いて・・・「えん奴(由美かおる)」もどきの芸者が御代官様と一緒にいたんだと妄想してウケました。
ワダグシは普段からぼーねんかいが多いので、
普段、外で飲むことが少ない座敷親父に一任します。
ん、でも、おらほの座敷童子からOKが出れば
途中から乱入するかも・・・です。
クリスマスを控え、なんとかそれらしい雰囲気となった遠野です。
館跡は八坂神社も含まれ、その西側に展開されております。
叔父さん宅に行かれたついでにご探訪ください。
界隈に天王団地と呼ばれるところがありますが、八坂神社に関連する地名ということになりますね。
以前、笛吹童子氏がご紹介しております来内の伊豆権現では全国に散らばる中館氏からの寄進のことも記述されておりますが、こちらでの中館姓に関しては不明です。
タント、よろしくお願いします。
今回の舘跡探訪は八坂神社入口の西側から、舘跡からみれば正門かな?正面から攻め入っております。
昼なお暗いという雰囲気、小生も味わいましたよ・・・続石にブランコはひとりで揺れませんでしたが、藪を漕ぐ音にハッとしましたが、またもやカモシカでした・・・汗
おそらく仰せのとおりの知行地にある在郷屋敷といったことだと思います。
ただ長く使われた雰囲気はないのではないのか?と考えておりますが、お話を伺った地域のご年配の方によりますと、大判小判が出てくるかもと笑いながら仰ってました・・・笑
開発された農地という場所でもあり、どうなんでしょうね。