遠閉伊村に関しては「日本後紀」(承和7年・840)に記され、坂上田村麻呂が遣わせられ遠閉伊村を討つも頭目の多くは山谷に逃れたので文室綿麻呂を後に遣わしてとされる。
後任となった文室綿麻呂は弘仁2年(811)、陸奥、出羽両国合せての大兵2万6千人余を以て爾薩体、幣伊(閉伊)の2村を襲ったが、閉伊村に関しては蝦夷の類はあまりにも多くて、国軍だけでは手に負えない状況に成りえるので、さらに俘囚軍(朝廷配下の蝦夷)を動員して討ったとされる。(夷を以て夷を制す)
朝廷軍による最後の蝦夷平定戦は、閉伊村攻撃を以て一応終了といった内容が僅かに記されているが、その詳細は全く不明といってよい。
爾薩体は、現在の岩手県二戸市とされ、昭和30年まで村としての仁左平といわれるが、広く旧二戸郡を指すのではないのかと考えられている。
また閉伊村に関しては、現在の上下閉伊郡の内といった考え方であるも、識者の間では久慈市或いは九戸村辺りではないのか?とも論ぜられている。
いずれ爾薩体と閉伊村はさほど離れた場所ではないという見解なのかもしれない。
さて・・・遠野において田村麻呂伝説といいますか、関わりある場所として小生は一番にこの場所を思い起こしました。
羽黒岩
遠野市綾織町新里(寒風)
矢立の松伝説と関わりある大岩
羽黒岩がある山野は羽黒窟といわれ蝦夷の族長、岩武丸の拠点であったという。
矢立の松
和賀郡より攻めてきた坂上田村麻呂将軍は砥森山(宮守)の頂上から弓を射ったがその矢先は寒風の羽黒岩の松に突き刺さったと伝承されている。
また、田村麻呂将軍と蝦夷族長、岩武丸との戦いを物語る内容として、矢立の松には当時の戦いでの鏃約80本が木の幹から出てきたといわれ、その鏃は同町内の光明寺に保管されているとか・・・。
羽黒堂・・・出羽神社
遠閉伊村・・・・いずれ坂上田村麻呂或いは文室綿麻呂による遠閉伊村攻撃、仮に坂上田村麻呂による平定戦があったとして、朝廷軍は北上川沿いを北上、そしてその支流たる猿ヶ石川沿いにさらに奥地へ侵攻といったことも大いに考えられるのではないのか?
和賀、稗貫、志和といった郡が置かれて間もなくのこと、征夷軍は猿ヶ石川渓谷を奥地を進み、その先がすなわち遠野地方、遠閉伊だろうと「伊能 嘉矩」は述べているという。
遠野(とおの)という地名の語源は?
大方の説としてはアイヌ語説が有力というか一般化しているような・・・?
すなわち「トウヌップ」・・・湖沼のある野原・・・と意味付けがされているが、もうひとつ「遠閉伊」とおのへい、とおいへい・・・という内容も一応あるということも付け加えたい。
こちらは閉伊という地域にあって、さらに遠い閉伊・・・閉伊の奥地という意味もありそうですが、遠い閉伊の野・・・から遠野となったという説も語られてはいる。
遠野はその昔、蝦夷と呼ばれる人々が住む地域であったと思われ、当然ながら当時の人々による地名が語られていたものと推測されますが、それは和語地名ではなくアイヌ語にちなむものといったことが考えられる。
蝦夷とアイヌはどう違うのか?そういった議論にもなりそうですがね・・・。
当時の人々が語っていた地名やその意味を解釈してそのまま和語地名として使ったのではないのか?
そうなると遠野は「トゥヌップ」からかな?
いずれ阿曽沼時代初頭(鎌倉期)までは、河川の氾濫等で川の流れは色々と変わり、その名残の湖沼も多く点在していたのではないのか?とも考察されているし、地質等調査でもその痕跡は結構出ているともいわれている。
う~・・・ん・・・もう少し検討してからまた挑戦したいと思います・・・汗
おまけ
決してストーカーではありません。
ちょっと内陸方面に行ったついでに、自分の地理的感を試してみようと以前某ブログでみた風景の画像の記憶を頼りに探してみました・・・汗
たまたま間違って入った道の先に・・・・大汗・・・おそらく此処だっ・・・笑
ドキドキするコメントありがとうございます・・・笑
最近は歴史ネタも弱腰でお茶を濁すような終わり方が常・・・ですからコメントされると少しドキドキいたします・・・笑
爾薩体・・・にっさど・・・これも案外的を得ていると思いました。
地名からの考察も面白そうです。
ワダグジは脳みそが一方方向しか向いていないため、笛吹さんの説にはただただ驚くばかりですわ
爾薩体村が存在していただけで「そこだ」って思ってしまい、考えがひろがりませんでした。
でも、旧地図を見ていると「地名は語る」を感じます。
遠野とは格段に自前の農地規模が違うといった雰囲気が感じられました。
家の構えからも・・・伊達藩も雰囲気もたまにはスパイしないとね・・・笑
あのぉ~タダで通過してませんよね?草の1本も取り、トラクターで田んぼ掘ってぐどが・・って母ゴン笑って言ってました♪
天狗が下駄でケリ入れて?それ、とらねこさんでしょ?絶対そうだ!
1枚目の写真、取材したいようです
報酬なしながら、今朝見て参りました。
確かに居りました。
なんともならず・・・です。
見れば、灰色が残っていた。
取材依頼、報酬、無。(笑)
山形の羽黒山ですか・・・凄いです、まさかあひるさんから羽黒について聞かされるなんて・・・ですから決して気持ち悪いとかは思いません、むしろパワースポットとか癒しとか、そんな感じだと思います。
羽黒修験は岩手にも昔からありますし他に熊野とか・・・近くの小さなお堂なんかに手を合せてみるのも良いかもしれませんよ。
きっといい事あるかも・・・?
習ってからというもの・・。
私は、なぜか羽黒山が、みょーに気になり。
ついに2年位前に旅行の途中、羽黒山へ行き・・神社等を見て来ました。
風がゴーゴー吹く日で・・。
なぜだかわからないけれど。
広い神社の中、生暖かい風に吹かれながら。
「ここに帰って来た。」という気持ちになってました。(←気持ち悪いやつ。みたいだね。この感想は。
岩手にも・・。
羽黒山伏なんていたんですね。
知らなかった・・・。
新里が爾薩体・・・読み方としても、また閉伊川沿いという地理的なことを考えると、無視もできない考え方かもしれません。
そうなると閉伊村は岩泉とか川井か?・・・遠野という線も強くなりますよね。
また綾織の新里・・・綾織が爾薩体で閉伊は遠野のさらに奥地とか?・・・ここまでは飛躍はできないかもしれませんが、説としては郷土史向きで一考の価値はあると思います。
笛吹さんの切り口は意表を衝いているも、考える幅が広がり、随分と参考になります。
天狗の下駄で石が殴られる・・・鉄下駄ですから石は欠けますよね・・・笑
地元に居ながらも、なんとも遠野らしいといいますか・・・汗・・・しかし、其処まで行き着くには、結構厳しい行程も覚悟しなければなりません・・・大袈裟
今回出てきた言葉で、ず~っと、ひっかかっているのは「爾薩体」です。確かに様々な文献によると二戸ということになるのでしょうが、個人的には「新里」と同音の地名だったと思い込んでいます。笑
陸中新里村や綾織町新里・・・・「にいさと」は「にっさと」とも呼ばれており、「爾薩体」も同音で呼んでいたのではないかと。
この地名は新しく開かれた土地としての「新里」以外に、原住民が呼び習わしていた土地の名前としての「新里」が存在していたのではなどと。
そう考えると、閉伊には2箇所の、「爾薩体」があり、二戸まで飛び越えなくても、つじつまがあうような気がしています。
この巨石の存在も、遠野物語の天狗の話も知らなかったのですが、こんなお話があってもおかしくないような不思議な光景です。