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また、当ブログの過去ログをご参照願います。
我家の菩提寺である法門山福泉寺、その開祖である佐々木宥尊和尚について、簡略ながら、福泉寺開山に関わる概略をご紹介いたします。
佐々木宥尊師は明治14年3月、上閉伊郡附馬牛村小出(遠野市附馬牛町小出)の佐々木戌松氏の長男として誕生し、本名を佐々木源吉という。
佐々木家は、明治3年、廃仏毀釈の法令で由緒ある早池峰山妙泉寺は廃寺となり、早池峰神社となったが、その妙泉寺の最大権威者で世話役の任、小出地域の肝煎りで苗字帯刀を許された家柄で、早池峰信仰が盛んだった頃は、登山者の案内などもしていた。
源吉の祖父は何よりも妙泉寺の再興を念願していたといわれる。
現早池峰神社参道
明治24年、島根県出身といわれる真言行者、前川慶喜師(42歳)が早池峰山に修行入山していたが、人間の限界を超えたその苦行のことを父親に聞き、興味を覚えた少年源吉は早池峰山4合目で修行する前川慶喜師に会ったといいます。
この出会いで、祖父から受け継がれた妙泉寺の再興のこと、仏門のこと、源吉少年には、さらに仏門への関心を強く印象付ける契機となったといいます。
祖父の遺言、早池峰山妙泉寺の復興、父親である戌松氏は廃仏毀釈という世の移り変わりを感じ、寺の復興は現実的に難しいという考えでもあったらしいが、この意志は源吉少年の心奥深くに染み込んでいたとも語られております。
明治27年、3年間の修行を終え、早池峰山を下りた前川慶喜師は、苦行の影響で途中で倒れているところを父親の戌松氏に保護され、駒木の宮洞の家(松崎町駒木)に担ぎ込まれたという。
前川慶喜師が担ぎこまれた家、宮洞家・・・我家であります。
この縁により我家と福泉寺との関わりが始まったことになります。
附馬牛町小出地区・・・・ほとんどの御宅が福泉寺の檀家さんであり、佐々木姓が多い集落でもある。
当時の宮洞家の当主は菊池清作で、私から数えて5代前の先祖になりますが、宮洞家は、駒木でも富裕の家であったいいますが、古に何かしらの謂れを持つ家で、病人が絶えず、男子が短命だったり、生まれなかったりと女系の一族であったようです。
その謂れは私の口からは今は言えませんが、代々婿養子を迎えて家を継続させてきた経緯があったそうで、菊池清作もまた養子でもあります。
前川慶喜師は、この異変を察知、日々のご祈祷で病人は治癒し、盲目に近かった主人の菊池清作の目も回復したといいますから、かなりの法力を兼ね備えた行者だったと亡き私の父はいいます。
このことで石鳥谷の光勝寺に立ち寄り帰途に付くはずの前川師を清作は引き止め、宮洞の家への滞在は7年間といわれます。
この滞在期間中に源吉少年と再会、度々宮洞の家での交流が再開し、仏門への道を希望するも父親の反対で、明治28年に遠野裁判所に就職、その後の明治35年書記官に昇格、この間、結婚をしております。
しかし、仕事を終えた後、さらに休日には宮洞家を訪ね、前川師との交流を重ねるうち、ついに仏門の道へ入ることを決意、明治36年5月、妻と離縁し、石鳥谷の五大堂光勝寺に帰る前川慶喜師に従って、ともに光勝寺へと入ると同寺の住職、赤塚宥天師に弟子入りし、宥尊の法号を与えられ仏門の世界へと入った。
宥尊の光勝寺での修行は6年に及び、その後、京都醍醐三宝院、さらに真言宗豊山派の本山である奈良の長谷寺で学び、真言密教を極め、さらにその実直さもあって、師である高木大僧正に嘱目され、下山にあっては江刺人首村(現奥州市江刺区)に名跡だけ残す法門山福泉寺の寺号をいただいて光勝寺に帰ってきた。
その間、恩師である前川慶喜師は病状に伏せ、宥尊が修行に旅立った後に入滅したと伝えられております。
光勝寺の師、赤塚宥天師からは寺の後継者を望まれたといいますが、強く辞退して、全国行脚の旅を経て、遠野へ帰ってきます。
福泉寺本堂・・・初代住職と開基に関わった人々の労苦の結晶ともいえます。
遠野では宮洞の山野でさらに修行を積み、宮洞家に滞在、明治44年10月、祖父の念願であった妙泉寺の再興を併せ持ち、また宮洞の地(福泉寺)から北方早池峰山に連なる北上山地の山々に八十八ヶ所の霊場をつくり、早池峰山の頂上には高野山を模した大塔を建てるという壮大な構想だったといいますが、まずはその一歩たる寺の建立でありますが、もとより駒木の人々や生家がある小出の人々の力が頼りではありましたが、真言宗という一般には馴染みのない宗派であることもあり、有形無形の迫害、中傷、圧迫に苦しめられ、さらに新寺建立の申請は尽く却下され、折角完成しかけた堂宇が嵐により倒壊すること2度、幾多の苦難、辛酸を舐めたとはこのことであるが、その努力と不屈の精神の賜物である法門山福泉寺が大正元年に完成、開山。
大正6年9月29日、新寺認可に係る出願、出頭が30数回に及ぶが、遂に認可が下りる。
夏至の頃の福泉寺庫裏付近
昭和7年正月23日、53歳でその波乱の生涯を閉じる。
また、当ブログの過去ログをご参照願います。
我家の菩提寺である法門山福泉寺、その開祖である佐々木宥尊和尚について、簡略ながら、福泉寺開山に関わる概略をご紹介いたします。
佐々木宥尊師は明治14年3月、上閉伊郡附馬牛村小出(遠野市附馬牛町小出)の佐々木戌松氏の長男として誕生し、本名を佐々木源吉という。
佐々木家は、明治3年、廃仏毀釈の法令で由緒ある早池峰山妙泉寺は廃寺となり、早池峰神社となったが、その妙泉寺の最大権威者で世話役の任、小出地域の肝煎りで苗字帯刀を許された家柄で、早池峰信仰が盛んだった頃は、登山者の案内などもしていた。
源吉の祖父は何よりも妙泉寺の再興を念願していたといわれる。
現早池峰神社参道
明治24年、島根県出身といわれる真言行者、前川慶喜師(42歳)が早池峰山に修行入山していたが、人間の限界を超えたその苦行のことを父親に聞き、興味を覚えた少年源吉は早池峰山4合目で修行する前川慶喜師に会ったといいます。
この出会いで、祖父から受け継がれた妙泉寺の再興のこと、仏門のこと、源吉少年には、さらに仏門への関心を強く印象付ける契機となったといいます。
祖父の遺言、早池峰山妙泉寺の復興、父親である戌松氏は廃仏毀釈という世の移り変わりを感じ、寺の復興は現実的に難しいという考えでもあったらしいが、この意志は源吉少年の心奥深くに染み込んでいたとも語られております。
明治27年、3年間の修行を終え、早池峰山を下りた前川慶喜師は、苦行の影響で途中で倒れているところを父親の戌松氏に保護され、駒木の宮洞の家(松崎町駒木)に担ぎ込まれたという。
前川慶喜師が担ぎこまれた家、宮洞家・・・我家であります。
この縁により我家と福泉寺との関わりが始まったことになります。
附馬牛町小出地区・・・・ほとんどの御宅が福泉寺の檀家さんであり、佐々木姓が多い集落でもある。
当時の宮洞家の当主は菊池清作で、私から数えて5代前の先祖になりますが、宮洞家は、駒木でも富裕の家であったいいますが、古に何かしらの謂れを持つ家で、病人が絶えず、男子が短命だったり、生まれなかったりと女系の一族であったようです。
その謂れは私の口からは今は言えませんが、代々婿養子を迎えて家を継続させてきた経緯があったそうで、菊池清作もまた養子でもあります。
前川慶喜師は、この異変を察知、日々のご祈祷で病人は治癒し、盲目に近かった主人の菊池清作の目も回復したといいますから、かなりの法力を兼ね備えた行者だったと亡き私の父はいいます。
このことで石鳥谷の光勝寺に立ち寄り帰途に付くはずの前川師を清作は引き止め、宮洞の家への滞在は7年間といわれます。
この滞在期間中に源吉少年と再会、度々宮洞の家での交流が再開し、仏門への道を希望するも父親の反対で、明治28年に遠野裁判所に就職、その後の明治35年書記官に昇格、この間、結婚をしております。
しかし、仕事を終えた後、さらに休日には宮洞家を訪ね、前川師との交流を重ねるうち、ついに仏門の道へ入ることを決意、明治36年5月、妻と離縁し、石鳥谷の五大堂光勝寺に帰る前川慶喜師に従って、ともに光勝寺へと入ると同寺の住職、赤塚宥天師に弟子入りし、宥尊の法号を与えられ仏門の世界へと入った。
宥尊の光勝寺での修行は6年に及び、その後、京都醍醐三宝院、さらに真言宗豊山派の本山である奈良の長谷寺で学び、真言密教を極め、さらにその実直さもあって、師である高木大僧正に嘱目され、下山にあっては江刺人首村(現奥州市江刺区)に名跡だけ残す法門山福泉寺の寺号をいただいて光勝寺に帰ってきた。
その間、恩師である前川慶喜師は病状に伏せ、宥尊が修行に旅立った後に入滅したと伝えられております。
光勝寺の師、赤塚宥天師からは寺の後継者を望まれたといいますが、強く辞退して、全国行脚の旅を経て、遠野へ帰ってきます。
福泉寺本堂・・・初代住職と開基に関わった人々の労苦の結晶ともいえます。
遠野では宮洞の山野でさらに修行を積み、宮洞家に滞在、明治44年10月、祖父の念願であった妙泉寺の再興を併せ持ち、また宮洞の地(福泉寺)から北方早池峰山に連なる北上山地の山々に八十八ヶ所の霊場をつくり、早池峰山の頂上には高野山を模した大塔を建てるという壮大な構想だったといいますが、まずはその一歩たる寺の建立でありますが、もとより駒木の人々や生家がある小出の人々の力が頼りではありましたが、真言宗という一般には馴染みのない宗派であることもあり、有形無形の迫害、中傷、圧迫に苦しめられ、さらに新寺建立の申請は尽く却下され、折角完成しかけた堂宇が嵐により倒壊すること2度、幾多の苦難、辛酸を舐めたとはこのことであるが、その努力と不屈の精神の賜物である法門山福泉寺が大正元年に完成、開山。
大正6年9月29日、新寺認可に係る出願、出頭が30数回に及ぶが、遂に認可が下りる。
夏至の頃の福泉寺庫裏付近
昭和7年正月23日、53歳でその波乱の生涯を閉じる。
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