「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

道標

2006-01-14 15:34:01 | 書籍
 雨模様、そして3月並みの気温とか・・・このところ続いていた冷え込みとかなりの温度差があり、まずは体調管理に気をつけたいと思います。

 さて、それほど必要ないと判断していた「日本城郭大系・青森県、岩手県、秋田県」と「南部諸城の研究」の二つの書籍を古書店から購入した。
 やはり、城館探求、しかも北奥羽地域の城館跡を知る手立て、参考としてはまずはこのふたつの書籍が代表であろう・・・
 いままでは図書館から必要部分のみコピーをしたり、稲用さん、睦月庵さんからの概要紹介で十分であったのですが、それでも見たいときに見れる、遠野郷内の城館跡の掲載は少ないながらも、他地域との違い等もよくわかるといったメリットを考えての購入でもあります。

 沼館愛三氏(故人)、「南部諸城の研究」の著者で、旧南部領内の知られざる城館跡を調査した先人でもあります。
 氏は、50代後半から青森県、岩手県、秋田県にまたがる旧南部領内の城館跡を踏破、その数280箇所余、さらに津軽方面も調べたとされるから、まさに北奥羽城館研究の先駆者である。
   
 戦後、交通事情の不便な時代に僅か4年余りで調査したとされますが、現代のようにマイカーがあるでもなく、列車にて移動し、後は現地に入れば徒歩等で移動、さらに山城等が多い中、その調査は過酷で困難を極めたものと推察されます。
 彼の行動は後の郷土史界の発展に著しく寄与したものと思いますし、その功績も大きいと私は思っております。
 書籍の内容では一部誤りやその後の郷土史の進展に伴い、満足できない内容も認められるということではありますが、それでもその道の先駆者、道標的な要素は多大だと感じているところです。
 
 先人の苦労で成り立つ、どの世界でもいえることでもありますが、後の私達の偉大な道標としての位置付け、このことは決して忘れまい・・・そう思っております。
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史実と伝承の狭間2

2006-01-12 11:46:22 | 歴史・民俗
 「昭和59年5月、6月・遠野における城、館、屋敷跡調査報告」
 このちょっと小難しい資料、かねてより私の遠野市内の城舘跡調べの資料として活用させていただいているものです。

 この度、全頁を入手でき、あらためてこの報告書の隅まで読ませていただきましたが、菊池春雄氏、荻野馨氏といった遠野を代表する郷土史家が2ヶ月にわたる現地調査を市立博物館、図書館の協力を得て実施、実に安倍時代~遠野南部家時代初期に至る城舘跡の全容がほぼ明らかにされている資料でもあります。

 ふたりの史家は、当初、既に把握されている城舘跡プラス、まだ把握されない城
館跡含みで50箇所位とふんでいたようですが、実際に各地域に入り、住民からの聞き取り調査や山野に入って、それらしい遺物の痕跡等を目の当たりにしたりと、50前後どころではなく、さらに80箇所余の城舘屋敷跡を確認、資料には135箇所が記されている。

 これらのほとんどは表に出ず、地域での極一部でしかその存在が語られていなかったり、またほとんど記憶から消え去りその存在すら知らなかったとされる場所も存在していたようだ。

 この調査報告書から既に20年以上が経過、どのような形でこの時の調査が生かされていたのか私にはわかりませんが、こうしてすばらしい資料が残されていること、城舘跡の保存含め郷土史のさらなる発展にまだまだ十分対応できるものと確信しているところです。

 お二人の郷土史家曰く・・・
●郷土史研究は足で歩き、実際に見て確しかめ、さらに確認する積み重ねが重要である。
●伝承されなかった理由、問題点をよく考えること。
●勝の歴史のみならず負の歴史も重要もであり今一度歴史というものを見直すことが必要である。

 さて、135箇所とされる遠野市(旧遠野市)、宮守町を入れると160箇所余の数となります。
 皆さんのお宅の近所、普段何気なくみている山野、そこにも古の城舘跡が存在しているかもしれませんよ。

最後に私の館めぐり注意事項
●服装は赤、黄色、ピンク等の目立つ服装のこと。
●熊との遭遇、事故等もふまえて一人での行動は避けること。同行者が居ない場合は、入山前に近隣の人達に声をかけてから行うこと。
●個人の持山、田畑がほとんどでもあり、できれば地権者の同意を得たほうがよい。
●不審者と身間違えられる可能性有り、上記のように声かけは必要である。
●気が進まないときは中止した方がよい。
●館跡等は古の歴史を伝え、当時の人々の思いも残る地でもあることから、館神や祠が存在する場合は、必ず手を合わせること。
●当然のことながらごみ等は捨てない。
まだありそうですが、とりあえず・・・。
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史実と伝承の狭間

2006-01-09 14:42:23 | 歴史・民俗
 遠野物語拾遺第138話~141話に宮家にまつらう話が掲載されている。
 宮家の先祖は鮭に乗って気仙から遠野へやってきたというお話しと共に鮭が登場する他の話等も存在する。
 
 さて、この宮家の当主の方(故人)が平成3年に歴史雑誌に掲載した内容、「先祖探しに30年」が今でも脳裏から離れることはない、そして中世遠野阿曽沼氏関連の調べでも、常に頭の片隅にこの掲載された記事が気になって仕方がなかったのである。

 故宮氏が、実に30年を費やして調べ上げた先祖探求の顛末、記事では淡々と書き連ねてはいるが、故人もいうように苦節30年・たいへんな行程だったに違いない。
 宮家の菩提寺、遠野郷土史会の重鎮の方々、家系学会の名だたる先生方・・中でも丹羽基二先生との交流、そして偶然といってますが、丹羽先生は佐野市浅沼のご出身とか・・・私はこの記述をみた際に唖然としました。偶然とはいえ、何か目にみえないものが後押しをしていたかのような感覚、これは偶然なのだろうかと・・。
 栃木県佐野市浅沼・・・いわずと知れた遠野中世領主、阿曾沼氏発祥の地である。

 宮氏の先祖探求の旅は、菩提寺の過去帳から始まったらしい・・これで自身より9代前まで判明したという。さらにその後の調査で阿曽沼広綱(阿曽沼初代)まで遡ることができ、その後、丹羽先生や佐野市浅沼在住であった阿曾沼氏研究の第1人者、浅沼徳久先生とも知り合うことができ、俵藤太、すなわち藤原姓の先祖、藤原秀郷までたどり着いたとのことである。

 まっ、ここまでは長く厳しい探求の過程だったことでもあると思いますが、一番気になることは、阿曾沼広郷(天正年間活躍)にたどり着いたこと・・・このことがしっかりと表に出ていれば、或いは誰かが受け継いでこの年代を何かしら調べていれば・・そう思えてならない・・・。

 宮氏の調べでは、慶長年間に亡くなられた先祖を見出したとある。その名は倉堀義政(隼人)・・・阿曾沼広郷の子らしい・・・広郷には広長、広武等、四名の男子があったとされるが、広長意外は実はよくわからないことで謎でもある。
 いずれ過去帳により義政なる人物が居たこと、これは史実であろう。
 その後、倉堀家は南部家治世の遠野で阿曽沼一族であるということを表に出さずに遠野にあったのだろう・・・後に宮姓に改姓して藩医になったと伝えられている。
 遠野南部家臣団に宮氏の名が散見される。(宮昌庵・剛庵)

 私が気になっている点・・・
・宮家が阿曽沼一族とするならば、その先祖が鮭に乗って来たかは別問題として気仙からやって来たとされる伝承、これは何を意味するのだろうか・・。
 
 このことに関してはまだまだ現段階では私の調べも及びもしない範囲でもありますが、伝えられる阿曾沼氏歴代のこと、これらが何かしら所伝とは違う見解へと発展しそうでもあり、また遠野へ至った本格的な時代が判明するひとつのきっかけでもありそうな思いもあります。

 最後に、宮氏が長年調査された内容の一部でしょうが、平成3年3月刊行された「歴史と旅・特別増刊号・姓氏名門名家パート2」の中に掲載の記事を一部引用し紹介した内容です。
 さらに遠野菊池姓を探求された遠野郷土史家の先生が掲載された記事も収められております。

 今度こそ最後・・・先祖探求の極意
宮氏曰く・・
●調査は足でやるべし・・行動することが大事
●一気呵成でやるべし・・途中で気が冷めては成功しない
●考えられる可能性を全て当たってみるべし
●先入観念にとらわれなかれ
●各分野専門知識を持つ人物に教えを請うべし
●相手の都合を考えるべし
●誠意を尽くすべし


 
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出初式18

2006-01-08 17:15:26 | ファイヤー
 新春恒例の消防出初式が開催された。
 平成18年は、新市誕生後の最初の出初式、遠野市遠野消防団の出初式でもある。
 
 8日朝の最低気温は氷点下12度、昨朝(氷点下14.7)よりは気温が高いとはいえ、やはり身に凍みる冷え込み、雪上に立っているだけで、耳は痛く、頬は冷たい、さらに足先がかなり冷たい・・・

団員の皆さんが集合し、間もなく出初式が開始されようとしている。

 雪上での行事の後は、表彰式等の会場である市民センター大ホールに移動のため、市街地を威風堂々と分列行進を実施。

徒歩部隊・・・ラッパ隊を先頭に行進。
時折、風が吹き雪が舞う・・。


車両部隊・・・総数57台

 駅前から市民センターへ向かい、センター大ホールにて表彰式を行い、正午前にすべての式が終了した。



 毎年の事ながら、特に今年は寒さも厳しい中、ほとんど無報酬で、義勇的な消防団に加わり、地域の防災、防火にご尽力いただく消防団員の皆様には、敬服しております。
 平成18年、災害のない遠野市であれと祈るばかりです。

遠野市遠野消防団他・・570名余参加。
15日(日)は遠野市宮守消防団出初式が開催されます。
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紫波の六角牛山

2006-01-06 19:48:51 | その他
 全国高校サッカー・・・母校遠野高校の快進撃は止まらない・・・ついに念願の4強入り、国立競技場のピッチに立つ・・37年ぶりのベスト4、岩手県勢では初の国立競技場である。
 全国紙においては、ベスト4入りしたのにも関わらず、スペースが他チームよりも小さいし、スポーツニュースでも字幕だけでの紹介である。
 台風の目とはいえ、やはりマイナーなチーム、注目度も未だに低いのには驚いている・・・といってもあまり注目されすぎても、目立ってしょうがない、ノーマークにて強敵を撃破する、これが真骨頂かもしれません。

 いずれ4強、これはすごいことでもあります。悔いの残らないすばらしい試合を期待いたします。「吹けよ北風強くとも・・・・おぉぉ遠高、遠高サッカー部」

 7日国立競技場 12時
 遠野高校(岩手)鹿児島実(鹿児島)

 さて、循環器検診でのCランク、再々検査に盛岡市内の某病院へ行って来た。
 結果からいえば、所見はなし、今の所、気にするほどではない・・・まずは一安心といったところです。
 
 検診への道すがら宮守、大迫、紫波の国道、県道沿いから見る山野は見るも無残な状態であった。
 雪害であろうが、木々が根元から倒れ、途中から折れたもの、それも一本や二本ではない、数十本まとめての倒木である。それが街道沿い延々と見ることができるのです。
 この分だと遠野も同じ現象かもしれない、春の舘跡めぐりでも倒木が多い山野をまわることになると思うと、すこし厄介でもある。いずれこれ以上の雪害、ないことを祈るのみです。


雪害による倒木


紫波町にある某温泉施設(ラフランス温泉館)
月に一度は利用しております。病院の帰りに立ち寄りました。

 そして最後になりましたが、標題の紫波の六角牛
 紫波町の方々には失礼なことではありますが、遠野の六角牛山の逆バージョン、東に面しているそっくりな山を発見・・・・似てるかな・・?

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抱負・夢

2006-01-04 18:50:04 | 歴史・民俗
 1月4日、仕事初めである。
 いつになく厳しい年頭の訓示をいただき、とにかくやるしかない、遠野高校サッカー部の活躍、頑張りの如く、我々大人、そして社会人として不屈の精神で職務に精励すること、高校生の頑張りが起爆剤となった年頭となりました。

 さて、気分も新たにといった気分、冷え切った身体を温める・・そんな思いがしたもので、今年初の温泉を楽しんできた。
 場所はいつもの健康ランド・・・昨年は40回程利用いたしました。

 宮守町にある行きつけの健康ランド


 健康ランドの帰り道・・綾織町の南部曲屋千葉家と水車小屋

 前置きが長くなりましたが、本題・・・。
 私はホームページを開設して今年で満5年となります。主に私が生まれ育ち今も暮す松崎町のことをご紹介する内容ながら主に遠野の歴史を取り扱っている。
 たまに、時折ですが、同僚や知人から「そんたなごど、すらべでおもしぇが・・」そんな事調べて楽しいのか・・大きなお世話である
 楽しいからやっているのである・・・趣味は人それぞれである。
 
 さらに「そんたなごどなぬぬなるってよ」・・そんな事やって何になるんだ・・
自己満足である
 正直言って何にもならないと思うも、ひとつの自分なりの調べの集大成であり、これらをインターネットにて公開する・・・いわゆる自己満足的なことでもある。
 しかし、立派なことを言うものではないが、何かしら公開した内容にて資料として使って頂く、これらを基にさらに調べを進めていただく、興味ある方々にご覧いただく・・・これしかないかもしれない。
 あくまでも私は素人であり趣味の範囲でやっている。本にでもなれば言うことはないが、これはまず以って現段階では不可能でもあるし、力不足でもあります。

 今年は、とりあえずは4年目となる遠野郷内の城舘跡調査の充実、4,5、11
、12月の四ヶ月が調査期間と捉えている。
 一応に手元の資料には遠野・宮守の城舘跡と伝えられるものは160余り・・その中で遠野郷土史会の先人達が調べた内容が一覧表として私のような興味ある者の資料として活用されている。
 しかし、その内容はあくまでも一覧表に過ぎないこと、一つ一つの城舘跡の詳細は記載されていない・・・・よってこの詳細を画像と共に図もつけて資料として完成させること・・・これがなんとなく自分の使命のような感じがするのです。
 
 今年は未踏の舘跡の調査と共に今まで調べた舘跡の再調査、そして最終目標は数年後となろうかと思いますが、舘の存在と集落の形成・・・中世遠野郷の集落の形成状態を知る手立てとしての舘、その機能含めさらなる調べへと発展させたい・・地味ながら、そしてオタクとよばれそうな感じてもあり、さらにそんなことばかりしないで仕事をしっかりとしろっ・・とも言われそうでもありますが、とりあえずの私の趣味の分野での抱負でもあります。

 このことが単なる夢と終るか・・・・いやっ成せば成る・・・。
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感動

2006-01-03 18:30:02 | 遠野
 正月も三箇日が過ぎようとしている、明日は仕事初め、しかし既に仕事に就いているので仕事初めは形式的な儀式的意味合いでもある。
 
 そんな中、全国高等学校サッカー選手権大会で岩手県代表遠野高校が快進撃を続けている。
 強豪、優勝候補の一角2高(那覇西、東福岡)を打ち破っての3戦目、島根代表を破ってベスト8入りを果たした。

 一戦、二戦は、守りのサッカー、守って鉄壁の防御で耐え抜いて、少ないチャンスをモノにした戦いぶり、3戦目は前半から攻めのサッカー、今までの戦いぶりとはかなり違う展開、攻め込んでいた前半に点が取れないと少しまずいと思うと、このことが現実となる。前半終って0対0。

 後半も風下ながらよく攻め込んでいたが、遂にヘッドで押し込んで先取点。
 誰もが遠野の勝ちを確信したロスタイム、一瞬のミスから同点弾を決められる。
 これはPKか・・・東北のチームは精神面が弱い、PKは不利と私はみていたが、同点ゴールを入れられた直後のコーナーキック、まさしく劇的、コーナーからヘッドで決めて勝ち越し・・・これは凄い・・・母校の快進撃、涙ながらに録画放送を本気で観てしまった。

 次はベスト8、高校野球ではベスト8が一番面白いという・・ここまでくれば国立競技場といきたいが、まずは次の試合では持ち味を出し切ってのびのびと試合をしていただきたい。
 十分感動はいただいた、今年の遠野の運勢を占うかのような幸先のよいスタート、古豪復活、年頭から元気をいただいた思い、すばらしいことでもあります。

 ということで高校サッカー話題となりましたが、本日は午後から荒れ模様、またしても明朝は雪掻きか・・・?

画像は下駒木と天ヶ森・・・雪が降り出してくる直前


招き猫二匹・・・母校遠野高校のように幸運を我家に呼べるか・・・?

 それとお知らせ、リンク集に新ブログを追加いたしました。
 パン、ケーキ作りにハマッテしまった嫁さんのブログです。こちらもよろしくお願いします。
 こちら
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迎春2006

2006-01-01 08:57:52 | 福泉寺・伝承等
 謹賀新年
 新年明けましておめでとうございます。
   本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

 紅白歌合戦を、コクリコクリとしながら睡魔と闘って観ておりましたが、なんとか持ち堪え、恒例の「行く年来る年」・・・これを一応観なければ正月気分も高揚しない・・・「ゴーン」除夜の鐘が響き渡る・・。
 
 菩提寺福泉寺の除夜の鐘も鳴り出した。
 0時ちょっと前、防寒体勢を整えて、家族と義妹家族とで菩提寺福泉寺へと初詣に出掛けました。
 

 
 
 地元ということあって、皆さん知っている顔が大多数、手を合わせた後は、お知り合いの方々とご挨拶という場面がしばしば・・・

 
 
 画像は大観音堂
 
 
 年越しソバならぬ年越しラーメン・・・ソバには違いない。
 ご近所、はやちね食堂のラーメン

 氏神様である愛宕さん、福泉寺を一回りして、さらにラーメンをいただいて帰宅したのが、2時近く・・・。
 福泉寺の初詣では、遠野郷八幡宮やその他の有名どころの後に詣でるといったことで、1時過ぎがそのピークでもあります。

 ということで今年もよろしくお願いします
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