「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

アサリとネネ

2008-04-11 19:21:00 | 
 嫁さんがこの程、知り合いと潮干狩りに行ってきたということで、ここ数日はアサリ料理が続いている。





 今日で3日目とか、小生は仕事の関係で口にしたのは2度目となりますが、だいぶアサリも減ってきたようです。
 この倍以上はストックがありましたから・・・・笑


 今夜も定番料理から・・・・アサリバター



 そしてこれまた定番中の定番・・・味噌汁



 さらに本題の飼猫のネネ登場・・・。

 顔の表情でいつ手を出そうか、隙をうかがっていることがバレバレのネネ・笑




 動物は正直ですね・・・笑
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新谷館と遠野菊池一族

2008-04-09 20:47:33 | 歴史・民俗
 2003年晩秋、霙が降りしきる中、東京都在の稲用さん、そして青森県在の藤九郎さんの3人揃っての初の城館探訪で私が遠野をご案内したのですが、お2人は私より一回り年少ながらも、北奥羽関連の城館跡探訪やら歴史探求は私より先輩であり、この分野では私の師匠格といっても過言ではありません。
 また、インターネットで繋がっていたとはいえ、この分野でのかけがえのない友を得た思いでもあります。

 そんな彼らと訪ねた小友町の新谷館跡、結局、核心となる館跡そのものを確認できないまま、というより発見することができずに次の探訪地へ移動という不本意な結果となっていて、その後も探訪時期になると第1の探訪候補とするも、どうしても別な館跡探訪となって、後回しにしてきた経緯がありました。

 その新谷館、本日についに意を決して探訪して参りました。




 国道脇の長野川を越えて直ぐの林道・・・・前回は堀跡を林道に利用といった結論となったと記憶しているが、後々に見た資料によれば、館下に普段の住居としていた屋敷があったと記述され、その屋敷を一応に防備するための遺構か?山城である本来の新谷館とはあまり関連はなさそうな雰囲気でもある。


 この林道を100メートルほど進んでいくと沢が流れ、沢を挟んで左右に急斜な山野がある。
 この何れかの山野が新谷館であることは、誰でも予想はつくが、私は向って右側の山が怪しいと睨み、早速斜面登りを開始する。

 しかし、中腹辺りに至っても館跡特有の段差が全くみられない、おかしいと思いながらも遂に山頂まで来てしまった。
 全身汗だく、山頂も今まで観てきた雰囲気とは違って、どうやら空振と気付くと一気に疲れが下半身を襲う・・・・。

 このまま下っても良いが、今度は同じ高さの隣の山野を登らなくてはならないと思うと、これまた気が滅入ってしまい、山中を彷徨うように山頂を奥へ奥へと歩き始める。

 なんでこんな行動に出たかといえば、少しでも高さを稼いで、頃合を見計らって隣の山野へ移動を目論んでのこと。
 これはズバリ的中、少し下ったところに沢があって、その上に縦堀とおぼしき溝を発見、土塁のような形跡も斜面に確認できる。
 一気に登って見ると、そこには紛れもない空掘が横たわっておりました。





 まずまずの残存度、山頂背後では2重の堀で山野を断ち切っている。
 正に山城見学の醍醐味といったところですが、全体的には小ぶりな館であり、思ったほど見所満載の館跡といった雰囲気ではなかった。
 それでも、苦労してやってきた思いは報われたこと、5年越しの思いもこれで幾らか吹っ飛んだ思いがいたしました。






○新谷館
 遠野市小友町長野地内
 標高510メートル・比高110メートル・阿曾沼時代
 館主・菊池平十郎景光(新谷禅門)・新谷庄作・・・新谷一族

 新谷一族とは、本姓を菊池と称し、新谷を名乗る前は平清水氏。
 慶長5年の遠野の政変では、新谷禅門の嫡子、平清水景頼(駿河)が鱒沢氏、上野氏の南部方となってクーデターを成功させた功で、一躍遠野盟主に躍進したが、父、禅門、他の兄弟達は平清水駿河に呼応せず、新谷館に篭って別路線を通したと言う・・・・。
 後に平清水家は南部利直によって断絶となり、新谷氏の兄弟達は南部家に登用、或いは八戸から遠野へ入部した八戸氏の家臣となり新谷番所の勤番等を歴任して明治維新を迎えた。


 新谷屋敷跡か・・・?(新谷館下方)



 
 本姓を菊池とする平清水氏、新谷氏に通じる流れとして、菊池右近恒邦の名が第一に語られる。
 右近は葛西家臣、岩谷堂(江刺)の江刺氏の重臣だったと伝えられ、玉里地区に勢力を持つ菊池一族であった。
 江刺氏臣の菊池一族は多く散見される。

 天正年間、菊池右近は主家である江刺恒重に南下著しい南部信直との同盟を画策したため江刺氏から追討される。
 遠野の阿曾沼広郷がこの混乱に乗じて江刺に出陣するも敗走、菊池右近は遠野へ亡命し小友の一部を阿曾沼氏より預かることになった。
 
 新谷(荒谷)菊池系図には菊池右近を遠野での初代とし、その子に菊池又市郎(板沢氏)、菊池平十郎(平清水氏・新谷氏)が記されている。

 菊池氏が江刺から遠野へ流入、小友に当初入ったかのような印象を受けるも・・・・阿曾沼時代後半から慶長年間までの遠野郷の菊池氏を見ますと・・・。


○小友町
 菊池平十郎(平清水景光)・新谷出雲(帯刀)⇒平清水館・新谷館
 平清水平右衛門(平清水景頼)・平清水館
 小友喜左衛門(奥友)・奥友館

○宮守町
 宮森主水(宮杜)⇒宮守館

○上郷町
 菊池又市郎(板沢)・板沢平蔵⇒板沢館
 平倉長門盛清・平倉兵庫⇒平倉館
 平倉新兵衛・平倉新八⇒刃金館・・・後に菊池新四郎
 平原備後吉武・平原吉成⇒平野原館
 切掛蔵人⇒大寺館
 内城治兵衛⇒内城館

○青笹町
 菊池兵庫介成景⇒臼館
 宮沢左近⇒花館

○松崎町
 駒木豊前広道・駒木隼人広三・駒木六兵衛⇒八幡館
 畑中吉晴・畑中吉治⇒畑中館

 
 菊池一族はある時期、すなわち天正、文禄に至る年代、すなわち江刺氏の内訌も含めて豊臣秀吉による奥州仕置で葛西家が没落したことによる要因で遠野へ入って来たことは、おそらく史実であり、まずはこの時代からの考察やら検証が必要と考えております。
 無論、私自身の菊池姓に関する思いは南北朝時代に始まるという考えは強いものでありますし、巷の菊池氏研究では菊池がククチからとか、藤原なんとかからとか、そんな事は一切興味はない、いずれ遠野での菊池姓のルーツは何なのか、何故に此処まで広がったのか、このことのみであります。

 まだまだこの分野では核心に迫るといったことはできてませんが、菊池一族縁の館跡探訪も含めまして今後も展開していく所存です。


 新谷館跡のある山野





 おまけ

 小友方面の館跡めぐりやら史跡探訪での昼食は、此処・・・笑

 


 天婦羅そばセット・・・ワンコインです。  
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年一度

2008-04-08 18:02:30 | その他
 我家は元々は零細兼業農家でありましたが、水田は同地域の知人宅へお貸しし、さらに減反で畑としていた土地もお貸しすることになり、ほぼ完全に農業から撤退という現状となっております。

 僅かに宅地敷地内に7畝(7a)程の畑があり、自家消費の季節野菜等を母親が育て本業が趣味みたいな形となっております。

 毎年今時期恒例、畑の耕作作業が私の仕事で数日前まで腰痛で苦しんでいたが、そんなことはお構いなしに「はだげぶづ、いずやるんだ」と矢の催促・・・汗
 例年は4月10日前後、昨年は中旬に行った記憶があるが、近いうちにやらなければならないことでもあって、本日の午後に耕作を行いました。


小型耕運機(ティーラー)


 親父が使っていた本格派耕運機を下取りに我家の耕作面積を考えれば十分に事が足りるという判断のもと、5年前に導入・・・笑
 年一度か二度の出番のみであるが、燃料を給油、燃料コックを開いてチョークをひいて、手がけ3度で難なく始動、1年間眠らせていた割には元気が良い・・・笑









 軽くて取り回しは楽で女性でも簡単に扱える代物ですが、パワーが足りないと感ずる場面もあって、時には腕力なんかも必要となることもあります。
 時折、腰と背中にビギッ・・・と電気が走るような感覚も覚えましたが、他にやる人間も居らず・・・仕方ありません・・・汗

 幅50センチ程度を耕して進んでいく光景を見ますと、なかなか捗らない、先はまだ長いと思うと嫌になったりするんですよね。
 こんなとき、小型でも良いからトラクターがあればなぁ・・・ものの30分もかからずに終るのになぁ・・・なんて贅沢を語ったりして・・・汗

 今年は畑に何を捲こうか、何を作ろうか・・・そんな思いをめぐらせながらやれば、これまた考えが変わってこの作業も楽しいものです。
 なんとか2時間で終了となりました。



 家庭菜園を少し大きくした程度ですが、これでも内心は百姓の端くれだっ・・と実は思っております。
 いずれ、ホームセンターにでも近々行って、私も何か種か苗でも買ってきて植えてみようと思っております。
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祖母との足跡

2008-04-06 19:15:38 | 遠野
 幼い頃、そうですね小学校に入るまでかと思いますが、結構祖母に連れられて街場に出かけていたと思う。

 祖母は、日曜日以外は毎日街場通い、そのルートもほとんど一緒で幼い私の目に焼きついております。


 まずは、穀町のバス停でバスから下車すると・・・・



 何処が悪かったのかは不明ながら当時整形外科医院だったT医院へ・・・。


 毎日来ているので呼ばれるタイミングが分かるのか、時間待ちに当時伯母が勤めていた向かいの某旅館で一休み・・・。



 後から考えると単なる従業員の家族が時間潰しにお茶を飲みに来るといったことで、旅館の皆様はさぞ迷惑されていたかもしれません。
 これがほぼ毎日ですから・・・・汗


 診察が終るとT医院と親戚関係の某金物店へ・・・・・。
 一如さんやえんでの親分も最近エントリーしておりますが・・・・笑

 

 ここにもほぼ毎日訪ねていたと記憶しておりますが、店の中を通り母屋に入っての居間は天井が高く、北側に立派な神棚があったような、そして何よりも陽が入らないので日中でも電灯が灯っていたと記憶しております。

 ただ、どんな方々が居たのかはほとんど覚えていない。


 祖母は地域でも有名な女丈夫で街場でも有名な女傑で通っており、なかなか今日はご遠慮くださいと皆さん言えなかったのではないのかと、こちらも後で心配したりして・・・・。


 お昼近くになり、穀町の裏通りに至って上組町の裏通りを歩いて今度は上組町の知り合いの家に行く、そして上組町のバス停からお昼過ぎのバスで帰ってくるという日課でもありました。



上組町側



 木板が敷かれている橋ですが車の通行ができます。


 穀町、桜木橋、駅を望む





 おまけ・・・・

 
 今時期は野や田畑の土手焼きが盛んに行われておりますが、本日は好天に恵まれ、市内のあちらこちらから立ち上る煙が多く見られました。

 松崎では河川敷の火入れが行われておりました。(許可・届出済)




 
 知っている方々もその燃え具合等を見守っておりましたので、私も車から降りて様子を見てますと・・・・。



 時折の風に煽れて橋の欄干より高い火柱が立ち上る・・・。

 仕事柄、びっくりするような光景ではないが、皆さん俄かに行動が忙しなくなる。




 どうやら隣の行政区の範囲を越境して燃え広がっている雰囲気・・・。




 備えあれば憂いなし、なんとか無事に終了したようでもあります。


 火入れや土手焼きをする際は関係機関に届出をしてください。
 地区センターでも受付してますので、行う際は最寄の地区センターへ連絡すれば一箇所での連絡で事が済むはずです。

 経験上、午前中に火入れを行い、消えたと思って自宅へ帰って昼休みの間に残火から延焼拡大といったことが大半です。
 必ず消えたことを確認し、作業中はその場から離れないこと。
 できれば複数の人で実施するようにした方が良いと思います。

 風の強い日は実施しないは勿論のことです。
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赤沢白山神社

2008-04-05 18:48:54 | 歴史・民俗
 先月末に紫波町内で開催された郷土史セミナー(どっこ舎)に参加いたしましたが、その中で「陸奥話記」関連と紫波町赤沢の白山神社別当家「遠山家文書」についての講演があり、どちらも安倍一族、奥州藤原氏に繋がる内容でもあり、たいへん興味深く拝聴いたしました。

 平泉を世界遺産へ・・・この大きな運動の波紋は平泉文化に深く影響された地域やら縁の土地へも広がりをみせ、紫波町もそのひとつの地域でもあり、平泉の世界遺産登録に向けての援護射撃は無論のこと、平泉とどのような関連があったのか、地域でその歴史の再発見やら認識、史跡の保存等が活発化しているといった印象も感じることができました。

 我遠野でも世界遺産といった言葉から来ているものと思いますが、「遠野遺産」なる認定制度も昨年より始まり、平泉の世界遺産登録という大きな動きに触発された思いもございますが、地元史に携わるものとしては、喜ばしいことでもあります。
 




 さて、紫波町に用向きがあって、そのついでといいますか帰る際に紫波町赤沢地区に立ち寄って参りました。





 セミナーでの白山別当遠山家文書や白山神社での伝承等を早期にエントリーしたいと思ってましたが、私自身、まずは現地を訪ねてから画像と共にお伝えしたいという思いもありましたので、少しご紹介が遅れてしまいました。


○遠山家文書
 代々紫波町赤沢の遠山家に受け継がれてきた文書で、残念ながら火災で焼失とのこと。
 現当主の先代が思い起こして木札に再縁したもので、全文が漢文で書かれ解読不能の文字もあるとか。
 その記録を近年、識者が解読し活字として成したとのことである。
 前九年合戦から明治時代に至る白山神社のことが記されている。

 今回のセミナーで口語訳され読みやすく整理されたものをいただきましたが、その内容については、ここでは省略いたします。


 遠山氏とは・・・(本姓・藤原或いは亘理)

 前九年合戦で安倍氏と共に源氏軍と戦った亘理権太夫藤原経清の一族、遠山師重は、経清に託され藤原家の宝物等一切を取りまとめ、経清の母親を引き連れ白山神霊負奉り紫波の赤沢に逃れてきたという。
 白山神社の付属寺蓮華寺の住職は師重の伯父、木覚良円法師良信であったと伝えられる。
 以来三十数代続く別当家とのことで歴代は神官?、修験。 

前九年合戦はご承知のとおり出羽の清原一族が源氏方となり参戦、安倍一族は厨川柵で最後を迎えております。

 安倍貞任をはじめ主な面々は戦死、或いは処刑され、藤原経清も処刑される。
 経清の子、清衡は清原一族の子として育てられますが、後の後三年合戦で勝利し、清原氏は滅亡、奥州藤原時代の到来となります。


 遠山氏現当主のご子息(故人)の調査研究の一部ではありますが、今回のセミナーでの資料には、清衡は紫波の赤沢で出生したのではないのか、そして後に平泉に中尊寺建立、さらに白山神社は赤沢から遷されたものなのか、或いは分霊を奉ったものなのか、清衡が平泉に移った際に何かしら関わりがあるのではないのか?そんな考察などもご披露いただきました。

 白山神社境内には藤原経清の母のものとされる墓碑が現存している。


 仔細等は私にはわからない、今後の調査研究等に期待するところでもありますが、私も折をみて少しずつ研究ができたらと思うところでもあります。

 いずれ、紫波という土地もまた少し触れてみると結構面白いところであると思えてならない。
 遠野阿曾沼氏関連ながらも遠野の南側では気仙、江刺といった地域の歴史、葛西氏絡みが外すことはできませんが、北では大迫氏やそして斯波氏といった武家時代も気になるところ、こちらも遠野との関係を主としながらも、今後の課題として取り組んで行きたいと思っております。










 100メートル余りの周りを畑に囲まれた緩やかな登りの参道を来ましたが、何か様子が違う、下調べには標高250メートル前後の山頂と書かれていたが、ここは山頂ではない。
 社殿?の裏には墓碑のような石碑もあり、これが藤原経清の母のものか?なんて考えてもみましたが、どうやらさらに山道を登って行かなくてはならないと気が付く。

 ここ数日に腰痛となり、本日は痛みも和らいで回復傾向であったので、此処まで来たが、これ以上は無理と判断して、少し残念ではありましたが撤退といたしました。
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腰痛

2008-04-04 19:07:23 | その他
 飛び飛びながらも歓送迎会に出歩き、懐も身体も少しお疲れモード・・・。
 自分的には最後にするつもりの某歓送迎会での2次会で「ぺっこばり」ほんの僅かな時間でしたが、親不孝に出没して参りました。




 今回は穀町側を徘徊。

 
 軽く飲んだ後に3次会の焼肉店へ・・・。

 無性に卵焼と牛タンの塩焼が食べたくなって、つまみとしていただく。



 これ、酒の肴には最高と自分では思ってます。
 「うめがった・・・」


 
 さて3~4日前から腰の鈍痛と苦しさがあったが、日常生活やら仕事には差し支えるほどではないので、何もせずに過しておりました。

 しかし、昨夜から痛みが激しくなり、眠っていても途中で目が覚めるほど、今朝はなんとか歩行はできるものの、苦しいのなんの・・・思わず「いでででで・・・」次の行動へ移る際は「せいのっ」と掛声をかけなければならないほど・・・・生まれて初めてコルセットなるものをいたしました。
 痛いには痛いですが、コルセットのおかげで歩行には問題なし、しかし、画像取材に出かけられないのが残念です。

 夕方になってだいぶ良くなってきた雰囲気、まずは安静第一ですね。


 他に画像がないもので・・・ネネでも観て行ってください・・・笑

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2008-04-03 14:16:15 | その他
 新年度がスタート、何かにつけても「新」といった言葉が目に付く。
 我職場でも新人2名が入り、少しだけ平均年齢が若返ったことになりますが、彼らの心中は未だに不安であろうと察しがつくものであり、そういう自分もそんな時があったなっ・・・・なんて少しだけ思い起こしたりして、「初心忘れべからず」を今時期限定に心に刻もうとする自分がおります。

 
 こちらも新オープン



 ラーメンの味どころがこの程オープン、話の種に食べに行って来ました。




 魚系の出汁がしっかりと効いた醤油ラーメン

 最近は昔ながらの中華そば系ばかり食べておりますが、こちらのは味の研究成果が出ているといった印象・・・しかし、殲滅寸前で・・・・汗

 

 私には少し味が濃かった・・・というよりスープを飲めば飲むほど濃く感じられて・・・・ここまで食べれば殲滅の内に入りますがね・・・・笑
 でも美味しかったです。


 長男は味噌ラーメン



 麺がきし麺風の太麺でした。

 醤油ラーメンは博多風のストレート麺でした。
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めぐり会い

2008-04-01 23:16:22 | 遠野
 年度初めの一大行事、某団体といいますか組織の辞令交付式があり、なんとかミスもなく滞りなく終えることができました。



 市民の安全、安心を影で支える組織、私は究極のボランティアだと常々思っております。
 僅かな報酬で災害に立ち向かう大きな力、まさに義勇といった精神がなければ勤まらない、そんな方々の指揮を司る皆様の歓送迎会に事務局として参加いたしました。
 長年ご尽力いただき、この度ご勇退された皆様には心からご苦労様とお礼申し上げます。
 また、新たに幹部となられた皆様には今後共よろしくご指導をくださるようお願い申し上げます。


 2

 遠野は狭い・・・遠野ぶれんどメンバーやら同級生と鉢合わせ・・・笑




 禁煙中なれど飲会の席は・・・汗


 300円貯金、先月は6千強貯まりました・・・。
 目標の9千円は、度々の飲会で達成はできませんが、半年後にはデジカメの一台は買えるかもしれません・・・汗



 さて、今回、某団体で若くしてひとつの地域を統括する幹部に昇格された方と久しぶりに再会いたしました。
 30年近くも前、就職浪人をしておりましたが、アルバイトとして市内の家電店で働いておりましたが、その時、この方は20代の中半、性格的に営業という仕事は自分には向いていないと思ってましたが、そんな自分を時折、テレビアンテナの取り付け作業やカーステレオの取り付け工事に連れて行ってくれました。

 この先輩に色々と仕事面のみならず人生についてご教授いただいたことを思い出します。

 このことが今の職種に就くきっかけでもありました。

 その先輩と杯を交わし、昔話やら今後のことを話しをしたこと、時折、顔はみていたけど、こうして身近になったことが嬉しかったです。


 
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