確かに、母は何かしていたらしく手に布を持っていたと、私は母の手を見直した。母はそんな私に構わずに屈み込むと、また自分の作業に戻って行った。
私が見ていると、母は手に持った布で床板を軽く撫でる様に拭き出した。その布をよく見ると、何の変哲も無い様な布の切れ端だ。雑巾という物でもないようだ。タオルや日本手拭いとは違う生地で、本当に何かの布地の切れ端だった。私が不思議そうにその布を覗き込んで見ていると、母はそんな私の様子を見詰めて微笑んで来た。
「これは便利な布なんだよ。」
母は私が訊きもしないのにそう言うと、手を止めて布の説明をし出した。
「こんな布切れでこの床がピカピカになるんだよ。」
何とも不思議な布なんだそうだ。そう言うと彼女はにこにこしてまた作業に入って行った。私には母の説明が何の事か分からなかったが、彼女が家の仕事をしているのだという事は理解が出来た。ここは母の邪魔をしない方が良いと思い、私は縁側から静かに姿を消した。
2、3時間過ぎただろうか、私はまた縁側でひと遊びしようと戻って来た。ぱたぱたと廊下を走り、開いている縁側の入り口の障子戸の降り口に立った。私の目にはまた母の蹲る姿が映った。
『?!』
この頃はもう、私は割と飽きっぽい母の性格を知っていたので、先ず作業が長続きしている母に驚かされた。珍しい事だ、多分母には珍しい事に違いないと思った。一体どうしたというのだろう。私はやはり縁側に降りるかどうかを敷居の上で迷った。この時の母は、前回と違い沈んだ感じでは無く、どちらかと言うと自分の仕事に精を出しているという感じを私は受けた。先程より動作も素早くなっている。軽く撫でるというより、ごしごしと擦る様に床を拭き回っている。彼女の手の動く幅も先程より大きくなっていた。
母は真面目に仕事に精を出している。私は思った。こんな真面目な母もいるのだとちょっと感服した感じだった。そこで私は静かに床に足を下ろすと、母の邪魔にならないよう静かに母に近付いて行った。それでも床板がきしむ音で結局母に気付かれてしまった。
「お前、来たのかい。」
母は言って、やや疲れたような顔を私の方に向けた。
「これで大丈夫だよ。」
先程の仏頂面はどこかに消えて、母の態度にはどこか後悔の念が感じられた。
「お前この床のささくれで怪我したんだってね。」母は言うと、自分はその事を知らなかったから、申し訳なかったねと挨拶された。こんな風に彼女から、きちんとしたお詫びを言われるのも私には初めての事だった。