「大体、家にはねえさんもいるだろうに。」
そう言うと、祖父は「私が今、家に1人で居る訳じゃない。」と素っ気無かった。祖父は再び視線を壁に戻した。そうしてその儘、客間用に美しく化粧された壁を眺めていた。
が、何時までも部屋に留まっている私の存在が気になったのだろう。ちらりと横目で私を見たりした。
「ねえさん、そこにいるんだろう。」
彼の顔は壁を向いていたが、声は縁側に向かって掛けているようだ。果たして、縁側からは、ええと小さな声がした。この時、私は縁側に私の母がいるようだと思った。祖父はにんまりした。
「この子に話はしてあるのかい。」
と彼が問いかけると、縁側の声は「未だです。」と答えた。この声は前の声より大きかったので、はっきり女性の声だと私は思った。最初、私は縁側にいる人物は母だと思っていたが、今の声が何時もの気楽でお道化た母の声とは違っていたので、母では無い別の女性が縁側にいるのかもしれないと考え直してみた。
「未だ?、ではお前さんどうする気だい?。」
祖父は縁側にいる女性の答えに驚いた様子で、縁側に顔と注意を向けて身構えた。
「あれにあんな事を言って、この儘ではあれも済まさないだろうに。」
祖父はそう言うと、立ち上がりすかさず縁へ向かって歩み寄った。彼は座敷と縁側を仕切る敷居の上に達するとさっとばかりに障子戸の影を覗き込んだ。そうして少し憤った様な真面目な顔を下方に向けると、その場に座っているらしい人物に何やら小さな声で話し掛けていたが、私の所に迄は皆目彼の声や話の内容が伝わって来なかった。話が進む内に祖父は次第に足を縁側に下ろすと、障子の陰の人物に対してこちら向きに何やら話し出した。
私にはその祖父の俯き加減の顔が、非難の表情から次第に困惑した表情へと移り変わって行くのを感じた。彼は今や障子の陰の人物に困った様な表情を浮かべ、その内、衝撃を受けたようにハッとすると彼の顔色は白くなった。
私は自分の目を疑ったが、祖父は確実に勢いを失って元気を失くしていた。彼は障子の陰の人物の傍から後退し、こちらに背を向けると庭の方向を向いた。今や彼の背中はしょんぼりと肩を落としていた。そんな彼に障子の陰の人物はとくとくと何か話し掛けているらしい。
私は障子の陰の人物が女性では無く男性なのではないかと疑った。そうでなければ、何時も堂々としている一家の大黒柱である祖父がこんなに迄勢いを無くす事があるだろうか?。女の人に何か言われ事たとして、彼がこんなに迄勢いを無くすだろうか?。『否、そんな事は無い祖父の筈だ。』私は思った。
私が祖父の身を危ぶむ中、祖父は彼の相手に向けて再びこちらを向いた。すると、彼は何とも言え無い様な寂しそうな表情を浮かべていた。見る影もない様な、唇寒しという様な風情だ。すると障子の陰の人物は言葉数を落とし始めた。続いて遠慮がちになったが途切れ途切れに相手は未だ話を続けている様子だった。
ここから祖父の表情が次第に顔色を取り戻して行った。そして遂には彼は微笑む迄になった。彼の相手も笑っているようだ。ここ迄来ると祖父は私の方に目を向けたりしている。するとひょいっと、障子戸の白い紙の陰から母の笑う顔だけがこちら向きに差し出された。
『母だ!。』
やはり縁側に居た女性は私の母だったのだ。差し出された顔に、私は確認した。
母の顔は一旦障子戸の影に引っ込んだが、如何やら彼女は立ち上がったらしく、それを穏やかに見詰める祖父の視線も上に上がった。
母が障子の陰から笑顔で私の前に姿を現すと、母の後ろにいた祖父も微笑んでそれを見詰めていた。しかし、やはり彼が確実に元気を失くしているのが私の目には明らかだった。そんな祖父に対して母は笑顔で大様に見えた。彼女は呑気そうに縁を歩き出すと、何時の様に明るい感じで
「お義父さん、ではそれで。」
と彼に声を掛けた。