おはよう。やや遠慮がちに私は声を掛けられた。如何やら私を待ち構えていたらしい。そんな雰囲気を感じさせるおばさんに、私は煙草の陳列ケースの設えが見える、このお店の前の道で出会った。その人はこのお店の大奥さんだ。
私は2日前にここで彼女と話して以降、午前は家の中に居た。朝の散歩に特に出て来なかった。何となく外の大人の世界が余所余所しく冷たい物に思われたからだったが、私はこの御近所はお店ばかり、皆本当はお店の事で忙しかったのだ、子供の私の訪問は迷惑だったのだと考えると、何となく恒例になっていた朝の御近所訪問を止めた方が良いなと思った。それで朝の散歩は控える事にしたのだった。
そんな朝の外出を行わない私を私の父は不思議に思ったのだろう、朝食後暫くしても居間で所在無さそうにしている私に、昨日も今日も如何して外へ行かないのかと問い掛けて来た。
私が一昨日の散歩での出来事を父に話をしたところ、彼はしたり顔をすると、今迄の愛想の良さは私が幼かったからだと言った。そして彼は改まった様に胡坐を搔いて、居間の畳の上にどっかりと座るとそこに腰を落ち着けた。
「いよいよだな。お前も船出の時だ。」
父は言った。これから世間という荒波にお前も晒されるんだ。心して掛かれよと彼は言うのだ。
彼は彼の傍にいた祖母に、おいおい母さん今の智の話を聞いたかいと、声を掛けると、いよいよ始まったな。仕込んでくれるんだな。と、話掛けた。そんな世間話を始めた息子に、祖母は背を向けたまま返事をせずにいたが、静かにそっと立ち上がると、息子や孫の私にも顔を向ける事無く台所方向へと姿を消した。
私がふと隣の部屋を見ると、次の間にいた祖父が丁度座敷に入って行く後姿が見えた。居間と階段のある部屋、この空間には私と父の2人だけが取り残された。すると胡坐を搔いていた父は背筋をぴんと伸ばし、胸を張ると妙に生真面目で尊大な態度に変わった。
その後父は、ヘン!と鼻を鳴らすと、続いて世の中の世知辛い事をくだくだと講釈し始めた。が、父の話す世の中の話は、私には皆目想像が付かなかった、全てが意味不明で、私はお説教を聞いている様な気分になった。それでも首を垂れた私は、父の前に正座してじーっと身動きせずに彼の話を聞いていた。
「人の話は最後まで聞くものだ。飽きっぽい人間はいけない。」、そう父に注意されて以来、私は父の話が始まると勤行宜しくこの様にきちんと彼の前に正座して、彼の話に最後迄付き合い、言ってよいと許可が出る迄耳を傾けていた。その間、私は渋い顔をして父と膝を突き合わせていた。
この様に、注意されて最初の頃は私も父の長話に熱心に耳を傾けていたが、その内、父の話は同じ内容がケースを変えて、ぐるぐると何回かの例を挙げて説明されて来るのだと気付くと、2例目が過ぎた頃から、彼の言葉をお経の様に聞き流す術を覚えた。父は話の最後に必ず、「分かったか。」と聞くので、その言葉が来たら、私が「云分かった。」と答える事で、私は彼から「よし言ってよい。」と解放されるのだ。
さて、午前中は、居間と玄関を仕切る堅牢で重い木の引き戸扉の桟の間から、明るい午前の日差しが木漏れ日の様にこの部屋に差し込んで来る。玄関と居間との壁になっている、曇りガラスの入れられた木製の戸のガラス部分にも、外の往来の明るい光景が差し込む光と共に映り込んで来る。お陰で日中は電気を点けなくても家の居間はそれなりの採光が出来ていて明るかった。
父の話を聞く私は今朝も頭を垂れた。そうしてその中をぼーっと曇らせていた。私は時折頭を上げて顔だけは熱心に装うと父の顔を見ていた。その何回か目だ。私は父の顔の横に存在しているこれ等の光に注意が向いた。するとその瞬間、玄関を通り室内に差し込んで来る外からの明るい日差しは、私のどんより曇った頭の中の雲間から差し込んで来る明るい白光となった。その輝きは私が気付いてから見る度にその眩しさを増して行った。すると私はこの退屈な行の救いを、室内から見る事が出来るこれ等の光明に見出す事が出来た。
私は父の前で再び項垂れると、頃合いを見ては再度顔を上げ、下げし、そうして私は、目だけはこの光を眺めにこにことして、顔はあくまで真剣に父に向けて、云々と相槌を打った。
「まだ、説教してるのかい。」
祖母が台所から戻って来ると言った。そして、説教じゃないよと、母の言葉を否定する息子の言葉をああ、ああと遮ると、孫の私に外への散歩を勧めた。今日はもうそんな事も無いから、外に行っておいでと。そう言った祖母は私の前でふうっと一息つくと、やれやれと言う様な風情に見えた。彼女は台所で一仕事して来たのだな、と私は思った。