さて、食堂でおにぎり等頼んで、テーブルに落ち着いた母娘がお茶など啜り、キョロキョロと店内を見回してみると、食堂の柱に小さな古めかしい振り子時計が掛けられている。その 時計の針は丁度正午を指していた。未だそんな時刻なのかと、時計の針を見た彼女は意外に思った。
思い返せば、義妹からの急な電話を受けた時、自分は我知らずの内に気が動転していたのだなぁ。直ぐに取る物も取り敢えず家を飛び出したのだっけ。あれは確か11時半前だったと思う。概ね20分頃だったろうか。その後は慌てふためいて子供達の学校を飛び回って…、子供2人を伴ってここへ来たんだった。それから家の前であの子に会って、…、あれこれ話していた時間が10分程かしら?。そんなものだったかしらと、振り返って考えていた彼女は逆算した。その間忙しく動き回っていた彼女には優に一時間半は過ぎたと思われる時間だった。『1時間も経ってないのね。』冷静になってみると、彼女には時の進み具合の遅い事がやはり不思議で意外に思われた。
「半も回った頃に、ゆるゆると出る事にしましょうか。」
時計に目を遣りながら、彼女は子供達に自分の予定を告げた。
「そんなにのんびりでいいの?。」
神経質そうな語調で、彼女の長女が口を挟んだ。それに対して、「まぁ、それでいいわね。」と、彼女は長女と視線を合わせず、伏目がちになると言葉少なに彼女に答えた。母である彼女はその儘の姿勢で、根を生やしたようにどっしりと椅子に腰を落ち着けた。そうして彼女はテーブルの上に肘を付くと、彼女の両掌を組み合わせた。伏目がちにテーブルを見詰める彼女の口からは、ふうっと吐息が漏れた。
そんな母の様子に、彼女の長女は自分の母の言葉を納得したかに見えた。彼女は母の傍の席に黙って座ると、静かに口を閉じていた。が、それでも彼女は自分の目の前の母の暢気さを気に病む様子で、その後もソワソワと立ったり座ったりと落ち着かない素振りを見せ始めた。内面の焦燥感から、彼女は食堂の椅子にじっくりと腰を落ち着けていられ無い様子に見えた。
一方次女の方はというと、店内に入るや否や聞こえて来たテレビの音声にすっかり自身の注意を奪われていた。彼女は顔をテレビに向けた儘で無意識に母や姉の動きに自分の動きを合わせていた。母や姉がテーブルに着くと、彼女は母の反対側の空いた椅子に素早く腰掛けた。その儘彼女は顔だけをテレビの方向へ向け、まるで吸い寄せられた様にその放映画面に見入っていた。そんな調子の彼女だったので、傍にいた母と姉2人の話を彼女自身が聞いていたのかいないのか、それは如何にも怪しいと言う気配の彼女だった。
「心配なら、」
つと母は椅子から立ち上がった。彼女は自分の姉娘の落ち着かない様子に配慮して、子の不安を和らげる事にしたのだ。電話してみるわねと、彼女は店の主に許可を求めると店内と調理場を仕切っている囲いの端に立った。
この囲いには調理した料理を載せたり、客の食事が済んだ後の空き容器、洗い物類を載せる為の細長い台が取り付けて有った。この長台は調理場を囲う仕切りの中間辺りの高さに存在していた。調理場の竈門が置かれた部分から店内に大きく開かれた窓口、その開放部分を中心にして、台は窓口の下にぐるりと囲いに沿って取り付けられていた。その長い台より少し高めの位置で、さもその台の延長に有る様な形にして、調理場から店内に出る出口近く、店内通路に少々飛び出した空間の位置にこの店の電話台は設られていた。彼女はこの台の上に置いてあった黒電話を借りる事にしたのだ。
彼女は手早く黒色の受話器を手に取ると、そのダイヤルに彼女の人差し指を差し込んだ。そうして、今迄にしばしば電話していた事から既に彼女が記憶済みの、彼女の義弟三郎家の電話番号をジーコロロ…と回した。その後、彼女は愛想良くはいはいと喋り出すと、おや、まぁ、そう、と相手に応じた。それでそれで、と、彼女は一旦、電話の向こうの相手と長く話込む様子に見えた。が、ふいと切り良い場所で彼女が「ところで…」と言うと、実はそちらの坊ちゃんの事で問題がと、こちらの事情を話し始めた。彼女が簡潔にこちらの用件を話し出したと思った所で少々、瞬く間に彼女は受話器を電話機にガチャリと掛けた。
既に注文を受けた料理を客のテーブルに運び、調理場の丸椅子に腰を掛け、のんびりと足組み等して組んだ足の上に新聞を広げ、俯いて紙面を見ていた店主は客が乱暴に受話器を置く音に驚いて顔を上げた。彼は思わず通路を覗き込み電話していた女性客の顔色を窺った。調理場の直ぐ横に電話の台が置いてあったからだ。するとこの店のご主人と目の合った女性客は、彼に言った。
「お代は、お愛想と一緒に後でいいわね。」
そう店のご主人に声を掛けると客は、彼女が元いた場所へとさっさと戻って行った。「へい。」呆気に取られた様な顔付きで、店主は畏まって返事をした。
「丁度お昼にした所だそうよ。叔母さん2人と息子さん、3人一緒だそう。」これであなたも安心でしょうと、母である彼女は心配そうに自分を見詰める姉娘に言った。電話の音に驚いた末娘も、母の顔をじいっと見詰めていたので、彼女は2人の娘に向かうと言った。電話のあの様子では向こうさんはたっぷり30分は大丈夫だ。彼女はそう説明した。それで向こうさんは何を食べているのかと、彼女の説明を受けた娘達が尋ねると、彼女等の母は「何と、サンドイッチですって」と意外そうな声で答えた。