冗談だったんだって。人騒がせな。ほらほらそんなだから…、他所の家に関わり合いになるなよ。あんな冗談あるの?、ねぇ、お母さん。お父さん。へーぇ、えぇえ〜。しぃ。…そんな事を。…と、思い掛けず、幾重にも、人の声があちらこちらから上がった。それは裏の家や横手の家の内は勿論、通路の外の往来からも聞こえて来た。彼はひょっ!と注意を引かれた。
『この庭の外界に迄⁉︎、』
と彼の意識が、自分の目前に映る庭と通路に面した場所以外の外の世間という物に届くと、彼は少なからず驚いた。特に往来の極近い場所から自分の耳に届いて来た、へえーっという、はっきりとした呆れた声。誰だろう?と彼は思った。瞬時考えてみたが、周囲に顔の知れた彼でも、俄にはその声の主達は分からなかった。
それより、彼は思った。『話が外に漏れて仕舞った。』。彼は親戚の話が、この庭周囲だけに止まらないで、通路はおろか往来に迄も逸脱した事を悟った。自身の身内の話、棚から牡丹餅風の幸福の話が、これで世間に広く流出して行くだろうと感じると、彼自身恥ずかしさを感じた。それは自身も後ろめたく感じる事が、彼自身無い訳では無かったからだ。彼は思わず決まりが悪くなり赤面して俯くと内心恐々とした。そんな胸に一物を秘めた彼の後ろ暗い行動は、自分の側にいた伯母や従姉妹達にすっかり見て取られて仕舞っていた。しかし動揺した彼は、その事にさえ全く気付け無い儘でいた。
と、透かさず
「本当に、この辺、私生活も秘密もありゃしない。壁に耳ありなんだからね。」
と彼の伯母が言った。ねぇと、伯母の長女も相槌を打った。この親戚の相槌が如何にもであり、周囲に対してさも聞こえよがしであった出来事にも、彼は度肝を抜かれたと言ってよかった。
『この庭の周囲に、こんなにも多くの人が関わり合っていたなんて…。』
親戚親娘の度胸の良さにも驚いたが、世間という物にも感じ入った。これは彼には新鮮な情報であり、斬新な発見であった。それは、彼にとって、今迄のこの庭に彼が立った時の、その時その場が彼独自の固有の場であり、世間から隔絶され孤立した1個の閉鎖した空間だという彼の意識を、根底からすっかりと覆したからに相違なかった。社会に出ると人は常に1人孤立した状態では無いのだ。必ず周囲に人はいるのだ。彼は肝に銘じた。
「だったら大声で話をするな。」
「聞こえる様に言うなよ。迷惑だろ。」
と、やや大声で、裏庭に面した両家から、怒鳴る様な文句の様な男性の声が上がった。これ等は彼女達親娘に返事をする様に上がったかにみえた。こうなると、流石に気丈夫な親娘も寄り添って不安気に手など取り合った。彼女達の身内である彼も、思わず身構えてみる。が、子供の自分である、到底大人の男性には敵わないと思うと、彼は内心冷や汗物でその場に立ち竦んでいた。
が、一呼吸の後、
「特に誰にも喋らないさ。」
「こっちだって、そんな暇人じゃ無い。」
と、如何にも庭に佇む母子を安心させる様な声がして来た。
「だがなぁ、こっちは客商売だ、聞かれたら話すよ。ごめんなさい。」
「こっちは特に無いけどね。え?。」…そう。「内のは、…ご近所で上さん達の付き合いがあるって言うから。そっちは仕様が無いよね。」
すると、伯母と彼女の長女は互いに手を離すと云と目配せした。あれだわと心得顔で娘が助言すると、母は渋い顔で無言で頷いた。この辺そうだから。再び訳知り顔で子がそう言ってさあと母を促すと、母は渋い顔で1人佇んだ。
いいじゃないか、皆そうだと言う娘に、母は揺揺として懐から紙入れを取り出した。彼女は臍を噛む様な感じで何事か危惧している様に見えた。躊躇する様な手元で、これでねと言うと、彼女はあくまで気の乗らぬ素振りで彼女の娘にそれを手渡しした。彼女が大丈夫かと案じ、子に尋ねると、子はもう慣れたものよとサバサバと返事をした。それから彼女は空いた方の手で拳を作ると、母に自分の胸を叩いてみせた。「大丈夫よ。」、彼女は母に太鼓判を押した。
そうすると、離れた場所にいてこの一部始終を窺い、じいっとばかりに押し黙っていた彼女の妹も、自分達の母の手元にすっと戻って来た。母は一言、ここで慣れたと言う事が問題なのよと次女に零した。まるで付け足す様に、「慣れないで欲しい。」彼女は一言姉に忠告した。そうしてちらりと、甥である彼に視線を投げて寄越した。「これであなたも安心出来るでしょう。」。
伯母は甥に、さぁ、これでよいから、と吹っ切れた様に言うと、甥の傍をすり抜け、自ら進んで彼女の夫の実家の裏口へと入って行った。彼女はその入り口に有る高い敷居を一足飛びに駆け上がると、さっさと奥の台所へと廊下を進んで行った。彼女の後には透かさず彼女の次女が続き、その後に姉が続いた。
が、一旦屋内に入りかけた姉の方は、如何いうものか回れ右をすると彼女達の従兄弟、彼の前に再び戻って来た。そうして、彼に先に家に入っていてくれと言うと、彼を促した。彼女は彼に自分は用があるのだと言う。そんな彼女を危惧する彼に、自分は年上だから大丈夫だと、彼女に言われてみると、彼は何とは無く了解できた。そこで彼は従姉を1人裏庭に残すと、彼女に促される儘に祖父母の家の裏の木戸を潜った。