それにしても…。彼の頭の中には、この家に来てから彼が見聞した様々な光景、この家の親戚筋から聞いた話等が思い浮かんで来た。
『智ちゃんが生きていたんじゃぁ…、』
これであれの養子の話も白紙に戻るな。折角家から厄介払いが出来ると思っていたのに。と、兄弟の内、兄である彼は思った。本当に、恨めしいのはあの従兄弟だ。生き残るなんてなぁ…。運の良い奴。あいつこの家に最初から跡取りとして生まれて来て、労無くこの家を手に入れたんだ。本当にうまくやったなぁ…。
こう思うと彼は、思わずきっとした目をして従兄弟を睨んでしまった。が、そうやって自分達兄弟の身を一瞬残念に思った彼だったが、自分達の父は日本でも有数の大手商社の社員なのだ、という事実が彼の頭に浮かぶと、なんの自分達も裕福な家の子弟だという事に変わり無いと思い返した。良いところの子だという立場に変わりはない。今現在、自分達にはこの家の様な豪華な持ち家が無いだけの話なのだ。今後将来、内の父が会社で出世をすれば、幾らでも後から豪勢な家が建てられるじゃないか。彼は思った。
それに比べれば従兄弟は如何だ。この家は一見立派だが、古いと言えばもう可成り古い家だ。何しろ明治時代に建ったと聞く。この家の資産にしても、祖父母の元気な内はまぁまぁ有るだろうが、あの子の母親である叔母さんはああだし、あの子の父に当たる叔父さんの方もああだ。あの様子ではなぁ…。彼は今日の叔父叔母の甲斐性の無さを思い浮かべた。
これはきっと、四郎叔父は、あの一郎伯父の家の人達が言う通りの、おかしな人物なのだろう。私も前から薄々と、変だとは感じてはいたんだが…。こっちは母方の様な真面な親戚達とは違う様だ。特に四郎叔父は、やはり一寸おかしかったんだな。
…親が共にこれでは、この家の従兄弟の将来の見通しは、多分、立たないだろう。『如何するんだろう?、智ちゃんという者は。』。こうなるとあの子は案外と気の毒な奴かもしれない。彼は父方の歳下の従兄弟に対して、将来のその身の不幸、見通しの暗さを感じ取ると、胸にジンとして憐憫の情が湧いて来るのだった。
と、彼が思う間も無く、彼は既に玄関の広い間、畳の上に到達した。そこで彼はその勢いの儘で玄関の表方向に突進したかというと、彼はそういう事はせず、直ぐに彼の脇へとするりと滑り込んだ。彼はその儘敷居から漆喰で白く塗られた玄関の奥、表通りの道から見て左側の奥隅っこに降り立つた。そうして素早くその角に潜り込む様にして彼は身を伏せた。その彼のそれは、恰もこの家の者から自分の身を隠す様な仕草に見えた。そうしておいて彼は、玄関上りに一本長く横に渡された材木の下、薄い長板を何枚か垂直に立て、それを横並びに並べて貼り渡された敷居の側面、その一番家の奥にある板1枚の上部に薄く開いた隙間、その薄い隙間に向かうと彼は今しも彼の利き手の指を差し込んだ。もう片方の彼の手はというと、その板を支える様にしてその板の下部に素早く添えられていた。
油断無く、彼は耳を澄ませこの家の内を窺う。と、居間の方向、土間の辺りから先程彼が目にした歳下の従兄弟の声だろう、あれ?、おやっと言う幼げな声が聞こえて来た。しかしそれ以外は、ことりとも何の物音もして来無い様子だ。この様子では近辺に物事のよく分かる大人等はいないな、彼は判断した。
それでも彼は、自身の背中に自分の神経を集中しつつ、注意深く板の隙間に掛けた自分の指に力を込めると、そうっとその一枚の板を、嵌め込んであった上下の材から外し始めた。ぱこん!、小さな音と共に、敷居に小さく暗闇が口を開けた。、白っぽい板がずり下がって行くと共に、玄関畳の真下に存在している、床下の暗い色が敷居の一角に細長く広がって行く。