ところが、この時の彼女は一時の感情に流されなかったようだ。寝ぼけ眼の私が、緩んだ顔付で母を見ていると、明らかに彼女は一瞬不貞腐れたのだが、次の瞬間にはこちらへ向かう波に乗るようにして身を起こした。そして愛想よく真っ向から私に向けて笑顔を差し掛けて来た。
「まぁ、あんた。そんな事言わずに一寸こっちへおいでよ。」
早く早くと、それまで伏せて四肢を床に付け縁側を磨いていた母だが、こうやって腰を伸ばし、膝立して身を起こした姿になると、彼女はまるで動物園の熊が後ろ足で立ち上がった様な姿に私の目には映った。そうして、彼女はおいでおいでと私に手招きして来た。母の顔はと見ると、あくまで明朗で陽気な笑顔だった。
『格好は熊そっくりだけど、顔はやはり人の顔だな。』
私はそんな事を思った。動物園の熊は両手を上に向けて振ると、それにつれて上向いた顔や口も同様にふれふれと振れるのだ。それに対して、動作は同じ様でも母の頭や顔はこちらに向けた儘だ。微動だにしない。私を見詰めて来る目等も熊とは違う、確りとした眼をしてこちらを向き、横目使いでこちらを見たり等しない。
目の前にいる母は人だなぁと考えている内に、私はどうやら頭の真が覚めて来た。そうなると、母に向けて言った言葉を悪かったと思う私の理性も同様に目覚めて来た。
私はシュンと溜息を吐いた。眠くてぼんやりしていたとはいえ彼女に対して申し訳ない事を言ったと思った。そこで次の彼女の呼びかけには答える事にした。縁へと降りて行こうと考えたのだ。それにはもう少しはっきりと目を覚ました方が良いと考えると、私は障子戸から廊下の向こう、壁の陰にポンと隠れると、自分の両の手で両頬をぱしぱし叩いた。より確りと目を覚まそうと試みたのだ。
この目覚ましの方法は、私がつい先ごろ遊び仲間の史君から習い覚えたものだ。彼はそれを特別に私に教えてくれた訳では無かったが、その日遊び場にしている寺の境内に私の後から姿を現し、私の目の前で実演してみせてくれたのだ。
ふらふらして、明らかに寝ぼけ眼で私の前にやって来た彼は言った。
「昼寝なんて、僕はもう、そんなねんねじゃないよ。」
そう言うと、彼は、大きいお兄ちゃん達について行くんだと言って、赤い目を擦り擦り、半ば夢現の泳ぐ目をした自分の両頬を自分の両手でバチバチと殴ったのだ。
「そんな事して、痛くないの?。」
と、理由の分らない私は驚いて思わず彼に問いかけたが、彼は、
「痛いさ、でもこうやって目を覚ますんだ。」
そう言うと、再びよろめく程に自らの頬を打った。彼はその後、2、3歩ふらついて私から離れた場所に行ったが、そこで頭を振り振り、足をすっくと地面に踏みしめ仁王立ちすると、目をぱちぱちさせて
「あー、すっきりした。」
と嘆息した。
「じゃあな、智ちゃん。」
彼は言うと駆け出して行き、
「一寸お兄ちゃん達と遊んでくるからな。」
そう私に向かって言い捨てた。史君はたたた…と墓所の中へと消えた。
彼はその日はその儘,、私の前から姿を消して二度と再び現れる事は無かった。そんな彼の手荒な目覚まし方法を、私はこの時見様見真似で自分で試してみる事にしたのだ。
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